郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

3章 明治時代の上富良野 第8節 開拓期の社会

322-326p

4、国民皆兵と諸団体

 

開拓期の国民皆兵

兵役の義務は明治6年の徴兵令発布以来、第二次世界大戦終結まで、国民に課せられた。ただ、本道では徴兵令実施の範囲が10年に函館付近、上川は第七師団設置の翌年29年からであった。屯田兵のみならず、入植間もない移住民男子は兵役を担っていた。上富良野は屯田兵演習のため、32年3月3日には屯田歩兵大隊が歌志内方面へ行軍をする宿泊地であった(『北海道毎日』明32・2・1)。

30年の兵籍について、『上富良野町史』(第6編兵事)が引用した『事務引継書』は所蔵されていないので、開村当時の事情を知ることは難しい。ただ、34年『引継書類綴』をみると「村住民として開村以来徴兵に違反したるものなし」、かつ徴兵について「一般人民の感情」は「徴兵は免るべからざる国民の義務なりと信じ」ていたとの記述である。上富良野でも「在郷軍人名簿並現役兵名簿」を備えて、徴兵制度が国民の義務として遂行されていたことがうかがえる。

当時の新聞は、軍の補充兵などを集め、点検・査閲をした簡閲点呼の状況をよく報道している。36年8月には上富良野尋常小学校が点呼場となって令状を23名に交付したなかから20名が参集した(『北海タイムス』明36・8・23)。

 

日露戦争と上富良野の人々

37年日露戦争の開始は、上富良野の「人民の勘情風俗」からみると「開戦以来漸次団結」(『引継書類綴』)のように、村民結束の機会をもたらした。38年2月1日には三重団体戦時記念開墾組合が発足した(明治34年『総代会書類』)。なお、『上富良野町史』は10日発足としている。規約は20条からなり、「日露開戦記念のため三重団体有志者に於て共同開墾組合を設置」(第1条)し、上富良野村所有の未開地を借入れ「未開山林四町一反二畝六歩外六件」を「共同開墾地」とした(第2条)。署名捺印したのは総代吉田貞吉・田村栄治郎(『上富良野町史』の記述は常次郎)ほか40名、組合の存続を20カ年間とした。『新北海道史』によれば、道庁が産業奨励の側面から戦争協力の一環として、各町村に戦時報効組合設立を指導していたことから、三重団体戦時記念開墾組合は三重団体による1つの具体化と思われる。

また、日露戦争の凱旋歓迎寄付金、奨戦会積立金も募った。奨戦会積立金は田村栄次郎(ママ)らによって積立られたもので「戦役記念品を購入し従軍者及戦死病没者遺に贈與する事」にその積立処分金をあて、39年3月12日解散した。従軍者及戦死病没者遺族に対する扶助は民間の志のほか、軍人家族救護費が上川支庁から中富良野、上富良野各1名に一円が支給された(38年『引継書類綴』)。

日露戦争における上富良野の戦病・疾病状態をみると、戦死は7名・戸数7戸・遺族30名、病死は1名・戸数2戸・遺族9名で、本籍者のみ該当し寄留者にはいない。疾病者や重軽傷者はゼロであった(『上川支庁管内統計一班』明39・6・1現在)。戦死者の1人高松高次郎(22歳)は、37年に二百三高地にて戦傷し、大阪予備病院で死亡した。後の大正5年『高松高次郎戦死記念碑』が明憲寺境内に親族らによって建立され、平成元年道道工事のため供養の上、鐘突堂の地下に埋設された(『郷土をさぐる』2号)。日露戦争勝利を祝い配られた、「凱旋記念」の文字や「日章旗」を彩色した盃が清富藤田家などに残されている。

役場の兵事に関する任務は、主に徴兵適齢者・壮丁・在郷軍人などの戸籍上の異動を確実に把握すること、伝染病などの衛生管理であった。トラホーム予防は小学校児童とともに壮丁も受診対象で、トラホーム・花柳病は軍隊にとって注意を要するものであった。やがて壮丁予備教育が組み込まれていった。徴兵適齢者とは数え年20歳の男子であり、甲種合格者は2年間の現役入隊を経て予備役に編入され、徴兵特例による兵役免除もあったが圧倒的多数は在郷軍人として一般通常の生活に戻りながら有事に備えた。女子は家の男子が兵役による不在期間、家業と家庭を守ることになった。

 

写真 日露戦争を前に陸軍へ入隊。

東中・竹澤幸雄の父・政一(前列右から4人目)

※ 掲載省略

 

帝国在郷軍人会上富良野村分会

帝国在郷軍人会は本部を道庁に置き、その任務は澤石太著『北海道』(大7)によると通常は主に「徴兵現役満期者の慰労軍隊行軍」などの斡旋を受け持ち、戦時特に日露戦争の際は「出征軍隊の慰問軍人家族の救助」などに力を発揮したという。帝国在郷軍人会は43年に陸軍省の指導で各地に発足し、上富良野村分会は旭川分会と同じく11月3日に発会式を行なった。上富良野は、すでに上富良野村在郷軍人団が39年に組織されていた(『旧村史原稿』)。在郷軍人会の初代会長は在郷軍人会軍医であった成瀬孝三、大正元年から昭和13年まで吉田貞次郎が2代目を努めた。

在郷軍人会上富良野分会の目的は「軍人精神を鍛練し軍事能力を増進」し、「社会の公益を図り、風教を根作し国家の平域国民の中堅」となることであった(『旧村史原稿』)。在郷軍人会の啓発を掲げた北海道尚武会特別会員は役場の書記などに就いたことのある広浜伊蔵であった(『上富良野志』)。同分会は大正3年には、10月に壮丁教育を開始、上川連合会に加入、12月9日には勅諭捧読式を上富良野尋常小学校校庭で挙行した(『小樽新聞』大3・12・16)。

 

日本赤十字社員

日本赤十字社に関する資料は、『引継書類綴』に見られる。明治39年は「赤十字社関係書類」と「現金八円一銭」を引き継ぎ、42年には「日本赤十字社及愛国婦人会に関する件」として赤十字社員名簿、年醵金受払簿である。分区委員印章、新入社員へ配る社員章(男子用14個 婦人用2個)、木杯、記念章など社員の印をそなえて活動し、木杯は病院建設費寄付者へ交付、記念章は年醵金を滞納していない、または新加盟の社員へ与えた。44年の社員数は約80名で、日本赤十字社北海道支部上川委員部調によると、終身社員16名・正社員59名、『村勢調査基楚』では終身社員が1名多い。

日本赤十字社員は『上富良野志』略伝の公職欄によると、154名中32名が社員であり、そのうち終身社員に田中米八、村木久次郎、下村菊太郎、日本赤十字社北海道支部病院新築費寄付勧誘委員を安井新兵衛が務めていた。女子は見られない。ただし、同書の赤十字社全社員名簿には91名が記載され、その内女子3名(金子みき、山口やす、作佐部はな)が含まれていた。全道では2万6699名(内女子1750)、旭川衛成委員部を除く旭川委員部(管内)は2001名(内女子52)であった(44年12月末調『殖民公報』第65号)。

本道における日本赤十字社は20年道庁長官を委員長にすえて活動を開始、26年には日本赤十字社北海道支部と改称して、「戦時看護法を講習せしむ」(『北海道』大7)ために篤志婦人看護会を組織し、日清日露戦争、水害などに救護班を派遣した。

 

愛国婦人会員

愛国婦人会に関連する役場資料は赤十字社と対になって、42年の『引継書類綴』以降に見られる。同年「日本赤十字社及愛国婦人会に関する件」によると、愛国婦人会員名簿・会費受払簿・新会員に交付する会員記章四個を引き継いだ。愛国婦人会員は44年愛国婦人会北海道支部上川幹事部調によると40名(通常会員40)、『村勢調査基楚』では33名(特別会員3・通常会員30)である。

愛国婦人会員について、『上富良野志』略伝は妻が会員であることを夫の公職歴と同様に記している。妻の活躍については何も書かれていないが、当時の社会において愛国婦人会は女の認められた働きであったといえよう。記載された会員は、纓坂もう、奥田操、野堀とく、四方とめ、下村あいの5名で、その年齢は略伝表記によれば10から50代。夫婦で赤十字社々員と愛国婦人会々員を務めていたのは3組。夫の職業は「水田の元祖」、寺の開祖、商業家、雑貨荒物商、米穀荒物海産雑貨商といった開拓期の実力者たちであった。同書の愛国婦人会員名簿一覧には45名が記載され、略伝に記載された5名のほかにも、略伝の家族に会員と思われる姓はあるが、名前が不明で特定しかねる。愛国婦人会の取り扱い事務は役場で行い、会員の「万事斡旋の労」をとったのは中原やの子であった(『上富良野志』)。やの子の氏名は会員名簿一覧にはない。

会員は、全道で1万7501名(終身・年賦会員合計、上富良野の資料には区別なし)、上川幹事部(旭川衛戌幹事部を除く管内)は1264名(内特別285名)であった(44年末現在『殖民公報』第65号)。上富良野は会員45名とすると、管内の約4lを占めていた。

愛国婦人会は34年2月奥村五百子により主唱され、軍事後援と社会事業を担って発足した。翌年、愛国婦人会北海道支部を北海道道庁内務部庶務課内におき、日本赤十字社北海道支部事務所に移った。日露戦争に入るや、軍隊の慰問、毛布・慰問袋・絵はがきなどを遠征地に送り、出征家族や傷病兵の慰問、戦病死者の葬儀参列、軍人遺族や廃兵への贈与などを行った(『北海道』)。

上富良野でも会員は凱旋記念を祝って参列し、遺族へ「御下賜金」を贈与したものと思われる。会員の募集や会費納入催促の連絡文書が44年頃の役場資料に見られる。『上富良野町史』では主に、愛国婦人会上富良野支部と表記している。愛国婦人会の機構は36年以降、各支庁が幹事部となり、各府県が支部であることから、上富良野は支部ではない。会費については「会費が高かった」ので一般には普及しなかった(『上富良野町史』)。確かに同会では「半襟一掛の用」(『愛国婦人会趣意書』)を節約して会費に充てようと唱えていたが、開拓期の多くの女たちにとっては半襟の出金さえ困難であった。また、会員の役割に軍隊の視察のほか、伝染病に対する衛生観念などを学び啓蒙する働きがあった。

愛国婦人会が社会的に認められた団体であることは、44年9月2日と4日に上富良野を通過する「東宮殿下行啓」のための「沿道各駅に於ける手続」(上川支庁通達)をみても分かる。日本赤十字社、在郷軍人会など、次のような社会秩序をもって軍事体制が形成されていた。唯一の女性団体は愛国婦人会である。

 

公衆心得 第二節「沿道各駅に於ける手続」

一、沿道各駅に於て奉迎奉送をなすべき者左の如し

一、有爵者 二、現職高等官及び奏任待遇以上官 三、従六位勲六等以上及び非役・文武高等官 四、神仏各宗派管長 五、貴衆両院議員 六、町村長及び収入役吏員 七、道会議長副議長 八、各官衛公署長 九、褒賞凧用者 一〇、道会議員 一一、医師会長 一二、農会長 一三、産牛馬組合長 一四、教育会長 一五、水産及漁業組合組長 一六、蚕糸蚕業組合組長 一七、重要物産組合長 一八、新聞社長 一九、有位帯勲者 二〇、赤十字社有功章受領者 二一、武徳会有功章受領者 二二、愛国婦人会有功章受領者及び幹事部長 二三、軍人遺族及び杯兵廃兵 二四、在郷軍人 二五、日本赤十字社員 二六、武徳会員 二七、愛国婦人会員 二八、八〇歳以上の高齢者 二九、消防組役員、其他特に承認を受けたるもの

二、場内に於て一列となす能わざるときは、二列又は三列に整列すへし

三、前各項の外は第一節に於る手続きに同じ

<メモ 国旗を一般に掲げる事御通過沿道の村民は国旗を揚げる事>

(『町村戸長会議録付参考書類』第一号自明治三五年至大正四年)