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3章 明治時代の上富良野 第8節 開拓期の社会

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3、警察・司法と消防

 

 巡査駐在所の設置

 29年になると本道の警察機構は、警察官を行政官が兼ねていたものを分離し、翌年各警察署・分署に専任の警察官が配置されるようになった。

 富良野村の警察の管轄は、31年7月過ぎまでは、岩見沢警察署の巡査が6月末から2回巡回出張し、12月までには上富良野に巡査出張所を創設。下富良野の巡査出張所の設置は、32年3月で、農場、商人の寄付によって新設され、滝川警察署から、土肥、村尾の両巡査が出張。上富良野では巡査駐在所の設置をみている(『北海タイムス』31・7・13、32・3・9、4・21)。32年5月、支庁管轄が空知から上川支庁への移行に伴ない、警察の管轄も岩見沢から旭川警察署へ移行。30年旭川分署が警察署に昇格し、36年6月、旭川警察署下富良野巡査部長派出所の設置をみた。全道的に駐在所が急増する時期に当たり、その多くは地元民の協力による仮小屋からの出発であったという。38年には上富良野でも「巡査駐在所建築の輿論」が出てきたことを村長は、「事務引継演述書」のなかで述べている。歴代の巡査は、初代小池仁作(37年)に続き宮尾直治(41年)、大正2年から松元伝吉が務めた(『上富良野町史』)。

 治安の側面から、人々のくらしを伝えると思われるので、「上富良野村勢大正元年九月二十日現在」(『村勢調査基楚』)により受刑内訳をみたい。なお、記録には氏名や違反の説明などは書かれていない。

 賭博は受刑内訳の3分の1を占めていたことになる。『北海道警察史』によれば、「博徒の存在は本道拓殖上の一大傷害となっていた」という。40年の新刑法は博徒を現行犯でなくとも検挙処罰することができるようになり、警察官の増員などから飛躍的に賭博犯検挙人員が増すことになった。

 43年6月に「博徒結合罪決定一家検挙」「博徒狩りを為し、…而して被告の数は実に81名の多数にのぼり東京以北全道に亘り、賭博結合の罪跡ある親分達は大抵検挙されたるなり。…」(『函館毎日新聞』)と報道されたなかに、上富良野の2名も含まれていた。検挙されたとされる1人を『上富良野志』は「特に義侠心に富むのみならず公共に尽くし市街夜番を設けて火災を戒め又た消防組織に熱注する等その功少なからず」。そして、村民に娯楽を提供していた人物と紹介している。

 

  受刑内訳

受刑

名数

受刑

名数

賭博

40名

失火

2名

遺失物違反

2名

詐欺取財

3名

河川取締規則違反

29名

家宅侵入

1名

遺失物横領

2名

郵便法違反

1名

寄留法違反

4名

煙草専売法違反

1名

偽登録

1名

私書偽造行使

2名

傷害

6名

娼妓取締規則違反

1名

横領

1名

古物商取締規則違反

1名

森林盗伐

2名

牛馬仲買商違反

1名

窃盗

13名

姦通

1名

徴兵違反

11名

産婆規則違反

1名

恐喝取財

4名

狩猟法違反

1名

臓物故買

1名

合計

133名

 

 登記出張所設置の請願

 富良野地方は鉄道敷設後、十勝方面への進展、材木の搬出、水稲普及へのきざしなどから不動産としての価値も増し、人々の定着が図られてきた。上富良野は司法の管轄が旭川区裁判所にあったことから、不便を生じ、登記所の設置を望んだことは当然であった。

 登記所の設置について、『上富良野町史』には「大正8年頃から登記所の設置がのぞまれていた」とあるが、すでに41年2月17日に請願の決議書「登記出張所設置を司法大臣に請願するの件」があがっていた(『村議会議事録』)。しかし請願が旭川区裁判所上富良野出張所として実現したのは大正10年である。なお、請願提出者10名の1人、泉川義雄は司法書士を大正10年に開業した。

 

 開拓と消防

 開拓の第一歩は、小屋を建て食糧をつくるための土地を切り拓くことから始まった。限られた斧や鍬を使い、すべて人力であった。自然にまかせて伸びた樹木や草がじゃまをして、道具や馬は使えない。そこで山野に火を放ち草を焼き、樹木を焼いて畑を拓いた。「山は火で開け」の合言葉が交わされたという(『上富良野町史』)、天まで焼き尽くすような火入れである。明治末期には、「山火(やまか)」より「山野火(やまのび)」という消防用語を使い、山野火は入植時の子ども心に強烈な思い出を残していた。開墾が進んだ大正元年でさえ、東中へ移住した前出の広瀬ハルエは、村有林を焼いた模様を「晩方、風のない時を見はからって、ゴーと燃やしたね!」と思い出している。太い木を冬期間に伐採して搬出した後で、子どもたちが枝を木の根元に集めたものを燃やしたのだった。ハルエは点々と散在した木株に火がつくのを山の方から見ると、それはまるで「提灯行列みたいだった」と聞いたことがあるという(『古老テープ』昭55)。風防林として原始林が残っていた東中では村有林払下のたびに見られた光景であった。

 開墾時の火入れに対する防火は、地域のお互いの助け合いによるほかはなかった。三重団体長板垣贇夫は郷里岩田村にて23年までに消防組を組織した経験がある(『移住者成績調査』第1編)。彼らの経験は上富良野の消防対策にも生かされたことであろう。

 

 上富良野市街火災予防組合の発足

 44〜大正5年にわたって、明治41年『村会決議関係』は、上富良野の消防の発足を伝えている。以下『村会決議関係』を参考とする。上富良野の市街地形成とともに、43年11月30日「火災予防規定」(道庁令第109号)の指示もあって、翌44年市街地に限り、いわゆる私設消防といわれる上富良野火災予防組合が発足した。その役員選挙を4月7日行い、当選届によると組合長金子庫三、副組合長森傳吉、世話人岸人定一他9名を9日に村長へ報告の上、発足したものと思われる。

 翌45年2月3日に上富良野消防組が公設となるにあたって、代表西川竹松ほか89名が消防装備一式を寄付した。寄付物件目録には、ドイツ式ポンプをはじめ水管、英国スパナ、頭巾、半鐘、ストーブ、消防組印など46種の品名と数量が明らかである。さらに「金子庫三外92名」が2月22日「上富良野消防組器具器械購入費」として、927円21銭の寄付を行なっている。装備、寄付金とともに寄付願を提出した。なお寄付金は『上富良野町史』『上富良野消防のあゆみ』では927円11銭、『上富良野町史』は寄付願を寄付額、金崎甚太郎を浜崎甚太郎としている。

 上富良野市街火災予防組合の規約(29条及び付則)をみると、組合員は「該区域内」に居住する「官公吏並に小学校教員」を除く、満20歳以上の男子であった。

 

    上富良野市街火災予防組合規約

 第一区規約(抜粋)

    総則

 第一条 本規約を総て規則と称するは明治四十三年十一月三十日北海道庁令第百九号の火災予防規則と謂う

 第四条 本組合は上富良野市街を以て組合と為し該区域内に施行する者とす

 第七条 火災予防組合は隣保団結して火災の予防の実行を致するを以て目的とす

    職際権限

 第一九条 組長は時々組合の各戸を巡視し火災予防の方法を指示し之が実行を奨励すると同時に火気を使用する個所を注意せしむる事

 第二二条 組長は少なくも年一回組合員を会同せしめ火災予防の上の注意、□議、研究、等し為す事

    夜警巡羅

 第二九条 組長は規則第十一条同第十二条に依り認可を受け左の事項に付実施する者とす

   一、巡視時間 一月より四月迄毎夜午後十時始め午前四時に終る

          五月より八月迄午後十一時始め午前三時に終る

          九月より十二月まで午後八時に始め午前五時に終る

   二、巡視は毎夜組合区域を三回以上警羅するものとす

   三、夜警巡羅、常雇夫二名を以て之れに充て隔夜交代せしめ組長の指揮を受け組合区域を巡視し常雇夫の携帯器具組長之れを撰定す

   四、暴風の場合は組長に於いて役員を召集し常雇夫と共に各戸に就き警戒に務むること

 

 夜警巡羅に関わる費用は「火災予防組合四十四年支払予算」が示す280円の内57.9lを占める162円である。半鐘1個25円、消火器1個6円、集会費及雑費15円の予算に比べても、装備を上回る出費であった。その内訳は常雇夫2名の給料を4月から9月まで72円、10月から3月まで90円の予算である。明治末期から市街地は夜警巡羅によって夜半から明け方までの防火活動が保たれるようになった。

 

 写真 上富良野消防組器材庫、消防機器整備完了記念写真

  ※ 掲載省略

 

 上富良野山野火予防組合の組織化

 一方、上富良野各区組長宅を本拠に、山野火予防組合が45年5月末から6月上旬にかけて発足した。発足に先立つ1月、上川支庁は町村長会議において、山野火予防組合の組織化をうながし、上富良野では5月8日各部長組長へ「山野火予防組合組織の件」を通達することになった。その内容は「昨四十四年山野火に対し多大なる災害は公私に及び国家経済を損害大なりと謂べし」との道庁の訓示を受けて、取締規則の改正が違反者は罰科を今日より10倍も過重させられるので、各組合を「組織し上届出づべし」と書かれていた。上富良野を11区に分けて発足した。

 

 山野火予防組合組織区域

1部

1区

吉井造林処一円・富岡問全部

2区

滝田農場仝牧場・イ牧場一円

3区

鹿討農場・伊藤農場一円

4区

小沢牧場・東牧場・西田中一円

2部

5区

自北4号東1線・至北14号東6線一円

3部

6区

部内山手一円

5部

7区

宮城団体一円

8区

時岡牧場・西谷牧場一円

9区

倍本・橋野・佐藤農場一円

6部

10区

永山手(作)場・第一安井牧場・本沼牧場一円

7部

11区

西2線付・北15号・北20号一円

8部

12区

村木農場・西松島牧場北25号迄・山形団体・土佐団体一円

13区

島津農場一円

9部

14区

西川牧場・第二安井牧場・十人牧場・安井第一牧場一円

15区

陵部牧場一円

10部

16区

新井牧場一円

17区

作左部牧場一円

18区

三重団体北32号・金子農場北27号分一部

11部

19区

豊里団体・津郷農場一円

20区

吉農場・境農場一円

21区

岐阜団体・福島団体一円、其他各組

 

 こうした区割りは生産と生活の単位を火災から守るものであった。各区毎に「山野火予防組合規約書」がほぼ同一内容からなる約12の条文によって定められ、さらに、山野火予防組合組織委員を68名選出した(45年)。11区の規約書によれば、役員6名(組長・副組長・世話係)は「名誉職」ただし実費支給、任期は2年、組合員は「区域内に居住する者」の義務であった。

 「山火の場合」において消防組の広域化が、旭川近郊にできていたと思われる。大正2年旭川警察署長からの消防組応援区域通達によると、上富良野村市街地を応援するのは下富良野消防組であり、旭川消防組は美瑛市街地までが応援範囲であった。

 

 火災事故

 開拓期の火災記録は極めて少ない。文書としては、東9線簡易教育所が36年9月18日の火災で焼失した届出1通が34年『総代会書類』の中に綴られていた。安井新右衛門『記録』は2月焼失と記している。

 新聞報道では、36年7月29日午前10時「上富良野の火災及焼死」発生、2歳児が家人農作業中に焼死(『北海タイムス』明36・8・1)。44年5月18日午前2時中富良野東6線付近で2件続けて焼失、原因は16日来の野火によるものでその燃え残りの根木の火が烈風のため飛散したという(『小樽新聞』明44・5・22)。その年の12月4日には中富良野伊藤農場内で炉火の不始末により1棟焼失、牝馬1頭焼死、19日午前3時上富良野市街地西本願寺説教所から失火、2棟焼失「人畜には死傷なく此の損害約八百円消防印の尽力」により類焼を免れたことは不幸中の幸いであるという(『小樽新聞』明44・12・16、22)。説教所の一件は『上富良野町史』で触れている聞信寺のことである。45年5月17日吉居農場内にて1棟6坪過失を原因とした火事もあった(『小樽新聞』)。

 さらに、44年8月14日午後に東1線の野原宅の火災が発生し、「公設消防」出動第1号であったと、『上富良野町史』などで語り継がれてきた。ただ、同日の「午前11時には皇太子殿下が旭川方面より十勝に向う御行啓があり」(『上富良野町史』)との記述は、皇太子殿下が東京を18日に出発した(『北海タイムス』明44・8・19)ことに矛盾する。同紙8月6日付によれば、「東宮殿下」(昭和天皇の皇太子時代)の行啓が7月から8月に「遅引」されたことに起因しているかも知れない。旭川から帯広へ向かった実際の行啓は9月2日である。

 上富良野の消防組織が私設から公設へと44年を境に進展したのは、『上富良野町史』に述べられた皇太子の警備強化の要因のほかに、同年5月の全道各地の山火事、市街地への延焼(『新北海道史』第9巻)といった状況もあった。

 なお、45年1月8日出初式が上富良野に旭川署長を迎えて挙行された(『小樽新聞』明44・1・7)。