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3章 明治時代の上富良野 第8節 開拓期の社会

310-314p

1、医療と衛生

 

 村医の雇用と国庫補助

 開拓期の人々にとって、慣れぬ土地において健康は開墾成功の必須条件であった。しかし、医師の確保は容易なことではなく、明治31年の『北海道毎日』「フラヌ通信」には「昨年末より上川郡神居村開業医亀田政五郎氏を聘して村医を嘱託せしが、いかなる間違にや。氏は公然村医の待遇を受けさりしとて、再び神居村に帰り其の弟をして出張せしめ置くを以て、村民大に之れを憂い二三有志者其筋に向かって請願の結果、本月に至り漸く村医補助費を下付せらるる事となりしより愈々亀田氏を村医として待遇する由なり」(明31・7・13)のごとく、村医亀田政五郎の存在が報じられている。しかし、『旭川医師会史』(昭35)によれば、亀田医師の略歴には富良野との関わりは出てこない。結局、村医として任についたのは、『上富良野志』によると、村医は駒ア政一(31年度)、横田信(35年度)、平野慶頼(36年度)、牧諭輔(39年度)、成瀬孝三(40年度)の5名となっている。

 村医の月給は25円から30円ほどで、駒ア医師の場合は村費10円と国庫補助月額20円が拠出され、21年「町村医規則」により公立病院の設置されていない上富良野にも道からの村医俸給が補助されていた。それでも第3章第2節の「村の財政」でみたように、村費に占める村医費の負担は大きかった。村医俸給補助金は33年から36年までに5回、48円から180円の金額が決定されており(『総代会書類』)、34年には、240円の申請に対して、70円しか認められなかったことになる(「事務引継ニ関スル演説書」)。

 また、戸長による36年「管外出張許可申請」によると、「元富良野村村医駒ア政一より俸給残額請求の訴訟」が旭川区裁判所に申し立てられている。駒ア医師へ支払うべき俸給残金を残したまま、村医は横田医師へと替わったのであろうか。36年の横田医師の月俸は30円、美瑛村の医師と同額だが管内町村医の月俸には60円から10円までの幅があったようである(『北海タイムス』明36・2・27)。

 医師1人当たりの人口比は、36年の上富良野では3000名。『新北海道史』の医師の現住人口対比(35年12月末)をみると石狩管内平均が約1700名であり、全道平均でも約1600名。上富良野の村医は全道平均の1.9倍の人口を対象とする仕事であった。

 41年度は村医嘱託の廃止が日程にのぼった。9月限りで廃止する予定であったが、期限延長建議を「細民救済の為」であると強調し、議会で一同異議なく可決したものの、翌年3月に村医を廃止した。直接の理由は「地方の発達と経済上の都合」(『引継書類綴』)であった。42年「町村医設置規則」廃止という道の医療政策の現れである。建議書は41年『村会決議関係』に所収。

 

 文書 駒ア政一への村医辞令書

  ※ 掲載省略

 

 建議書

  本村々医は本月限り廃止の筈にて、其俸給に於ても本月限りの予算に村会議決を相成候次第。然るに本村当時の情態を回顧するに、近来非常の移住民来移の為め村の発達上大に拡張せしものの如くなるも、其内実を調査するに、近来移住せしもの村中の七歩通にして今尚は尽く豊なる生活を立つるもの僅少にして有之。実に細民の多数をしめつつある場合、今村医を廃するとき、忽ち細民患者の不幸を来し大に困難の場合に遭偶なすの情態を推知し、本案を建議せしとす。尤も村医嘱託の便益たるや言う迄もなく、往診料に於ても左記規定の金額を以て往診なすの事に相成候次第。実に往診料の如きは忽ち細民患者の影響を及ぼすとき〔ママ〕ものにして細民救済の為め大に村医嘱託の期限を復活し、延長なすの必要を認めここに本案を建議なすの処なり。

 明治四十一年九月十日

             上富良野村会議員 多津美仲蔵 印

                      川仁高三郎 印

  上富良野村長 草浦耕蔵 殿

 

 また、「建議書」には次のように往診料規定が添付されている。

 

   村医往診料規定 上富良野村医住宅ヨリ

    一 本村二十号ヨリ  金五十銭

    一 本村十四号ヨリ  金七十銭

    一 本村十四号以南  金 一円

    一 本村三十号ヨリ  金五十銭

    一 本村三十号以北  金七十銭

 

 開業医

 上富良野の開業医は、42年に上富良野市街地に村医であった成瀬孝三、中富良野市街地に柳生万之丞が、ともに校医をかねて開業を続け、ほかに出張所を設けて来診する医師もいたという。

 43年市街地に島田医院が開業した(『上富良野町史』)。島田医師は後に帯広へ行ったという(高畠正男談「古老テープ」昭55)。さらに、診察申込所を各停車場に置いて患者の利便を図っていた旭川医院の存在もあった(『上川発達史』明36)。

 開業医についての古老たちの確かな記憶は、大正2年に開院した飛沢病院からで、美瑛村に39年開院した沼崎重平医師は沼崎農場主として上富良野とも関わり深い(『郷土をさぐる』4、5号)。

 

 

 学校医

 学校医は学校を通して衛生観念の普及をうながした。『村勢調査基楚』(明45)によると、42年1名、43から45年は2名の配置であった。『引継書類綴』によれば、42年3月には前述のごとく成瀬・柳生の両医師が当たり、それまで年手当金7円のところ村医廃止後の経済的配慮を示してか、30円までの増額を見込みながら、10月には年手当15円支給と事務を引き継いでいる。

 「学校衛生の方法」について、『村勢調査基楚』では「規定に基き、日常、定期、浸水の後の三衛生方法とし、屋内及体操場等の掃除方を主とし『トラホーム』に就ては時々学校医をして検診を行はしめ、概患者発見の場合予防上必要なる事項の指示実行せしめ、患者は成る可く健康者と交ひ接触せしめざる様□□れり。尚ほ各生徒には濡れ手拭を携帯せしめ貸借を一切厳禁をなさしむ。但、学校医は患者に一定の徴□を付さしめ健康者と区別し易しき様の方法を採り□れり」と定めていた。

 

 産婆

 開拓期の産婆の足跡は明らかではない。「産婆名簿」が39年『引継書類綴』の書冊一覧に見られるものの、現存しない。地域に信頼されていた産婆の限地開業者が多い全道的な傾向は、上富良野でも変わらないと思われる。限地産婆として、江幌に星野トクがいた(『上富良野町史』)。産婆免許をもたない、いわゆる「とりあげ婆さん」は、東中には櫻坂・坂本(真野)・丸山ツル・新井たま、らがいた(『東中郷土誌』)。

 産婆のほか、明治末の衛生分野の業種を『村勢調査基楚』から一覧する。

 

 

医師

薬剤師

獣医

産婆

蹄鉄工

売薬

薬種商

42年

3

0

0

2

3

7

1

43年

3

0

0

2

3

8

1

44年

4

0

1

2

3

9

1

45年

2

0

1

2

3

9

2

  *蹄鉄業がなぜ、衛生分野で扱われるのか分からなかった。

 

 衛生対策と伝染病隔離病舎

 衛生は移住民にとって、教育とともに最も必要な「二事」の一方であった。「荒山病」ともいわれたマラリアは、31年には中富良野でマラリア患者1名発生し、警官、医師が出張して、いろいろなを手続したという(『北海道毎日』明31・7・13)。北海道の衛生事情について、一般に他府県人は台湾と同じく不健康な所と想像しているのは間違いであると、34年の移民事務協議会の席上で道の衛生課長が語っている(『殖民公報』第6号)が、本道の伝染病の発生は、戦争からの帰還兵や移住者が増加するなかで、伝染病の種類も拡がり、移住者の不安は深刻であった。上富良野では33年に伝染病対策として、予防救治従事者へ手当金給与を支給することになった。かつ、村医に伝染病予防の役割が期待され、「人情風俗一様ではない当地」では病院を開設するまで「村医を聘雇し村内の衛生を保持し伝染病等の予防に従事せしむるのみ」(36年「事務引継演述書」)であった。患者数を『上川支庁管内統計一班』から36、7年、40年代は『村勢調査基楚』から抽出すると、

  36年  ジフテリア(2)

  37年  腸チフス(1)

  42年  腸チフス(3)

  44年  ジフテリア(2) 猩紅熱(2)

  45年  ジフテリア(5) 腸チフス(3)

で、合計患者数18名のうち、死亡は8名。伝染病対策が急がれたのだった。

 『北海道衛生誌』(大3)によると、マラリアは本道では古くから「おこり」と呼ばれ、湖沼の多い湿地帯において蚊を媒体として移住者たちを襲った。44年の統計ではマラリア患者が医療を受けた者約7000名・受けない者約6000名、患者が急減した大正2年の患者の職業は半数が農業者であったという。猩紅熱は稀な発生であった。さらに腸チフスは44年の上川支庁管内において患者93名、死亡者13名が発生した。その予防は「専ら患者の隔離を厳行し、清潔方法を励行」することなどであった。

 上富良野の伝染病隔離病舎の設置は、34年「未完結事項引継の件」(『引継書類綴』)に「避病院又は流行病隔離立会所未設に属す」案件として引き継がれている。40年に至って、隔離病舎敷地の無償付与願が図面を添付して、支庁長へ出願された。ところが、翌年2月隔離病舎建設の延期提案が「村財政上新築不能」による賛成多数で可決。そして、42年上川支庁は、伝染病隔離病舎設置が急務であると指摘しながら、管内町村費削減のため学校校舎や病院・伝染病院・隔離病舎などは「民家其他の家屋を徴用し新築改築を為さゝる事」と通達を発した。

 ただ、『北海道衛生誌』によると、「上富良野仮隔離病舎」が明治38年11月20日落成し、管理者村長、収容患者10名の体制で市街地に存在していた。詳細は不明である。

 大正期に入ると、3年には猩紅熱発生、赤痢患者については「上富良野市街地にて…突然腹痛を覚え堪え難きに工場を休み富(ママ)沢医師の診察を受けし処疑似赤痢と判明」(『小樽新聞』大3・3・26)との報道がある。4年に腸チフス患者15名が発生し、開催中の議会でも「午後続出すべき形成」(『村議会議事録』大4・11・1)と憂慮された。ここに、再び伝染病隔離病舎の建設を急ぐ声が高まるものの、その実現は大正14年、全国的に衛生観念の普及が図られた時期である。

 

 墓地の確定

 墓地の確保は『総代会書類』などから移住者の重要な課題であったことが分かる。『上富良野町史』は、墓地の位置は入地者たちが墓地として、実際上使っていた場所を正規の墓地としたと述べている。

 現上富良野共同墓地が最も早い35年に確定した。前年10月30日墓地3500坪、火葬場100坪の規模で、官有林解除地の申請をしている。その後東中共同基地、江幌、静修、豊里と明治年間に設置された。『村議会議事録』によれば、35年12月富良野原野北25号区画外に未開地約1町(墓地)、約3畝(火葬場)の申請が認められている。

 近隣の墓地では、上富良野共同墓地と同時に金山、下富良野が墓地・火葬場の設置を申請し、中富良野は36年に墓地・火葬場が許可された。

 墓地に通ずる橋梁補助の建議書が41年に提出され、可決した。西一線共同墓地(中富良野共同墓地)へ向かう基線16号から富良野川を越える橋であった。

 なお、墓地管理者として、38年には専誠寺住職内田是證(上富良野共同墓地)、多屋深淵(中富良野共同墓地)などが携わっていた(『引継書類綴』)。

 

 

許可月日

火葬場敷地

墓地用

地住所

上富良野共同墓地

35年6月3日

100坪

10400坪

西2線北25号

中富良野共同墓地

36年5月30日

100坪

8900坪

西1線北5号

東中共同基地

39年9月25日

 

 

10線北5号

江幌共同墓地

43年4月2日

(埋葬)

 

西10線北27号

静修共同墓地

43年11月30日

(埋葬)

 

西9線北32号

豊里共同墓地

43年11月30日

(埋葬)

 

西3線北34号