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3章 明治時代の上富良野 第7節 明治期の教育と青年会

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5、戊申詔書の発布と青年会の端緒

 

 戊申詔書の発布

 明治41年10月、戊申詔書が発布された。戊申詔書は、日露戦争の勝利によりまがりなりにも西欧列強と肩を並べた日本が、その地位にふさわしい経済的発展を果たすため、国民に対して勤労と共同一致の必要性を説いたもので、いわば国民を国家目標の達成に邁進させるための精神や道徳を示したものである(宮地正人『日露戦後政治史の研究』昭48)。またこの詔書は、日露戦後に町村財政と生活習俗の改良をめざして内務省を中心に推進された「地方改良運動」を支える精神的基盤の表明でもあった。

 戊申詔書が発布されると、各地で捧読式が行われるなど日本全国の町村で詔書を浸透させるための政策がとられたが、上富良野ではどのようなことがなされたのだろうか。明治42年3月16日付の「引継書類」によると、

 

 今般戊申御詔書当役場御下付相成候ニ付、奉読式挙行之上一般村民遵奉方訓諭実行セシムルノ方法ヲ議シ度見込ニ有之候モ未タ之レカ執行ニ至ラス、尤御下付以前部内巡視之際、部長及郷長迄予メ訓示致置候義ニ付御含置ノ上、可然御取斗相成度候也。

 

とあり(『自明治三十四年引継書類綴』)、明治42年になっても上富良野においてはまだ捧読式が行われておらず、詔書の内容を村内全体に浸透させる方策に思い至っていない状況がうかがえる。また同年9月の上川管内の町村長戸長会議において、「戊申詔書普及ニ関スル施設ノ状況及其効果如何」に関して諮問があった際にも「美瑛ハ戊申青年会ヲ設置シテ之レニ対シ第一項ノ組合貯金法ヲ設ケツヽアリ。徹底法トシテハ各僧侶及職員等教導職ニアルモノハ、凡テ集会ノ際之レヲ徹底セシムルモノヲ可トス」と、その時話題となった他町村の普及方法に関する村長のメモが残されており(『町村戸長会議録附参考書類』)、上富良野独白の普及方法を模索中であることが分かる。

一方美瑛の取り組みに刺激されたのだろうか、上富良野で詔書の普及に向けた取り組みがなされたのは同年11月のことである。

 11月22日付「戊申詔書之御主旨実行ニ付照会」(『明治四十三年自一月至十二月親展書綴』)によると、村長から中富良野、東中富良野、上富良野、東9線の各学校に対して、

 

  戊申詔書之御主旨実行ニ付ハ、其筋ヨリ数々厳命之次第モ有之候処、当部内ハ未タ一般ニ普及セサルノ感アリ。就テハ自今各方面ニ向テ著々実行ヲ遂ケサセ度候間、貴校ニ於テ父兄会又ハ母姉会等御開設ノ期モ有之候得ハ、夫レト同時ニ御差支ナキ限リ有志会又ハ青年会等ヲモ開会致度ニ付、予メ御通知ニ接シ度此段及御照会候也。

 

として、父兄会や母姉会の際に極力青年会などを開会し、またあらかじめ村が開催の通知を受け、その機会に詔書の普及を図ろうとしている。また各学校に戊申詔書が下付されたのも、明治43年10月28日に上富良野村第二教育所、明治44年9月16日に上富良野尋常高等小学校と東中富良野尋常小学校、同月21日に上富良野尋常小学校、10月10日に上富良野村第一教育所、11月10日に上富良野第三教育所と、明治43〜44年に集中している。

 ところで、詔書の精神を実現し「地方改良運動」を成功させるためには、具体的に何が課題とされたのだろうか。全国的にみると、税滞納の矯正や町村基本財産の蓄積、貯金の奨励、義務教育の完成や夜学などによる青年風紀の矯正とその一貫としての青年会の組織化などが挙げられる(『日露戦後政治史の研究』)。上川管内でも明治43年から明治45年にかけての町村長戸長会議において、@堅実な風気の改善に努める、A華奢荒怠を戒め勤倹貯蓄を奨励する、B矯風会、自疆[じきょう]会、勤倹奨励会、貯蓄組合、実業青年会等の設立及び活動に努める、C学校教員、神官僧侶、其他地方の名望家と協力して聖旨の奉体実行に努める、D貯金を奨励する、E租税徴収の改善、具体的には小学校の授業に納税に関する事項を加え、児童に納税観念を植えつける、F通俗教育の普及や教育会、青年会、夜学会等の励行、G就学事務を強化し学齢児童の就学率を向上させる、といった方策が毎年のように指示されている(『町村戸長会議録附参考書類』)。

 これに対して上富良野では、明治42年には役場吏員、学校職員の組合貯金が実行され、不良な納税状況を是正するため、明治44年納税組合が設置されている。また学事協議会や村教育会の活動(明治43年8月5日「村教育会々則ノ件」『明治四十二年親展例規綴』)を活発化して就学率アップや教育改善に努め、その結果就学率は、明治42年に91.23lだったのが、明治45年には94.30lにまで向上した(表3−22)。

 

 青年会活動の始まり

 一方通俗教育の主眼ともいえる青年会の組織化はどうだったのだろうか。「地方改良運動」において青年会の組織化が重視されたのは、義務教育終了後の青少年の風紀を矯正して勤労精神と報徳主義を植えつけ、国家の発展を支える人材の育成を図るためであった。

 開村から戊申詔書発布直前の上富良野においては、青年会の存在は確認できるものの、それほど自発的な活動は見られない。東中には明治34年頃神社の祭礼の応援を名目とした青年会があり(東中青年団五十周年記念協賛会『創立五十周年記念五十年の歩み』以下『五十年の歩み』と省略)、上富良野神社の祭礼でも便宜的に結成された青年会が活動した(『上富良野志』)。このような活動のあり方は、明治30年代から40年初頭の上富良野の青年会の特徴の一つといえる。また逆にいうと祭典挙行の便宜上結成されたものゆえに、活動の定着性もなかったとみえ、東中では明治34年の青年会も、また明治38年住友與平が中心となって結成された青年会も結局1、2年で消滅している。また明治41年には、尾崎政吉、住友與平が中心となって青年会の再興がなされ、17歳から27歳までの会員名簿を作成し、年2回春・秋の総会を計画した(『五十年の歩み』)。この青年会の活動の一つとしては「入営軍人の夜学」があり、当時東中富良野尋常小学校長だった赤井鶴也が毎晩2時間担当した(11月26日付草浦耕蔵村長宛赤井鶴也書簡『明治三十九年七月ヨリ四十一年至親展書綴』)。しかしこの会は結局明治41年11月に入営軍人を送った後、自然消滅している。

 一方明治41年戊申詔書が発布され、「詔書の普及」が村の懸案事項になってくると上富良野における青年会活動もそれにうながされ、やや活発化してくる。明治43年5月には「公共的美風の涵養を目的として上富良野青年会が結成された(『小樽新聞』明44・3・1)。また東中でも明治42年には青年会の前身ともいえる「矯風会」が創立され、毎月5円ずつの積立を行い、安井新兵衛、松岡宗次、赤井鶴也、住友與平、尾崎正吉、松岡源之助、田中米八、安井新右衛門らが委員となって会を運営し(『上富良野志』)、明治43年に東中富良野尋常小学校に赴任した稲村覚校長が同窓会長に就任すると、会の活動も幻灯会や祭典の準備だけでなく夜学等の修養的な面に重きを置くようになった(『五十年の歩み』)。

 また明治44年2月11日には、江幌にもエホロカンベツ青年会が結成され(『小樽新聞』明44・2・15)、大正元年9月20日付「上富良野村勢」には、上富良野に結成されている青年会として上富良野青年会(86名)、エホロカンベツ青年会(40名)、東中富良野青年会(95名)、村木農場青年会(14名)が列挙されている(『村勢調査基楚』)。しかし結局上富良野において本格的な青年会活動が展開されるのは、大正年間のことである。