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3章 明治時代の上富良野 第7節 明治期の教育と青年会

292-301p

3、教育の拡充と財政負担の増加

 

 上富良野尋常小学校の整備

 上富良野で唯一の尋常小学校として開校された上富良野尋常小学校では、開校後も着々と学校の整備がなされていた。明治37年4月13日には、女児教育充実のため「裁縫」が科目に加えられ、この年開校2年目にして早くも校舎増築がなされた。この増築は、通学区域内の児童の増加にともない「二部教授」の実施が計画された際、保護者の間から従来通りの授業を要望する声がおこり、増築資金が寄付されたことから行われた。明治37年4月14日付「上富良野尋常小学校増築認可申請」(『総代会書類』)の付属書類である「増築并模様換仕様書」によれば、増築費は総額664円94銭5厘で、建坪は教室と湯呑室、便所、廊下などあわせて34坪が予定されている。

 ところで住民たちが「二部教授」を拒んだ背景には、同校の補習科設置への動きがあるとみられる。というのも同年7月11日には「尋常小学校補習科設置認可申請」が上川支庁に提出されており(『総代会書類』)、これによるとこの補習科は修業年限を2カ年とし、教科を高等小学校の1、2学年と同一のものとし、教授時間を午後1時から4時としている。とすれば、「二部教授」を実施すると午後の部と補習科の教授時間がかち合うことになってしまい、補習科の授業に支障を来すと判断されたのであろう。

 ところがこの申請に対して、上川支庁は村に再調査を命じた。明治37年7月14日付「補習科設置之件」(『総代会書類』)は、次のような点を指摘している。

 

  尋常小学校補習科ハ尋常小学校ノ教科目ヲ補習セシムルヲ以テ目的トスルモノナレハ高等小学校ノ教科目ヲ全部教授スルハ其当ヲ得ス。国語算術裁縫ノミ科目ヲ課スルヲ通例トス。教授時間ハ午後一時ヨリ同四時マテトアリ。右ハ正教科ノ内外ニ渉ルモ差支ナキ見込ナルヤ。若シ正教科外ニ教授スル見込ナラハ正教科教授終了後何時間ト訂正スヘシ。

 

 つまり、村が補習科の教科目を高等小学校の1、2学年と同一のものとした点、教授時間が正教科の教授に差し支えないかどうか確認する必要がある点などが問題となったのである。これに対して村は、9月7日付で補習科設置の再申請をし、翌8日付で設置が認可された(『総代会書類』)。この再申請では教科を「修身・国語・算術・地理・歴史・理科」とし、教授時間は正教科時間外の午後1時から4時まで、時間数は1週21時間としている。ちなみに高等小学校の教科目とは、明治33年制定「小学校令」によれば「修身・国語・算術・日本歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操」であり、女子には「裁縫」が加えられる。とすれば7月11日付の申請に比べて教科目は減ったものの、高等小学校の主要科目を網羅しており、結局教科目に関しては村の希望がほぼ実現したといえる。またこのことから、補習科設置に対する村の意図が、単なる「尋常小学校教科目の補習」ではなく「高等科設置への準備」にあり、また市街地の上富良野尋常小学校が、村全体に、より高度な教育を供給する場となることを期待されていたことがうかがえる。

 

 東中富良野尋常小学校の開校

 一方、一度は見送られた簡易教育所の尋常小学校への変更の動きが、明治37年の夏頃から、とくに東中富良野簡易教育所において再び活発化してきた。同年7月14日付で道庁に提出した「東中富良野簡易教育所組織変更認可申請」(『総代会書類』)には、この時期に尋常小学校設置にふみきった理由が次のように述べられている。

 

  本村東中富良野簡易教育所校舎ハ、同所創立ノ当時、一時仮校舎ノ目的ヲ以テ通学区域内有志者ニ於テ建築寄付シタルモノヲ以テ今ニ使用来リ候処、既ニ所々大破ヲ生シ到底小修理ヲ加へテ一時ヲ彌縫ヲ得ス、本年度内新築ヲ要スル迄ニ立至リ候。然ルニ今般同通学区域内有志者ヨリ同所組織ヲ尋常小学校ニ変更セラルヽニ於テハ、校舎新築其他設備ニ要スル一切ノ費用寄付致度旨願出テ有之候ニ付、其ノ願意ヲ採用スレバ従来屢々企図シタル簡易教育所ヲ尋常小学校ニ変更スルノ趣意ヲ貫徹シ、僅少ノ経常費用ヲ増スノミニシテ経済浴カナラサル村ノ現状ニ一時多額ノ出費ヲ免レ得へク、且ツハ教育改善上多少ノ効果ヲ収メ得へキ義ト思考候。

 

 すなわち、簡易教育所の校舎の全面的修理が必要なこと、通学区域内有志より簡易教育所を尋常小学校に変更する機会に校舎新築その他の設備に要する一切の費用を寄付する申し出があったこと、そして校舎新築と尋常小学校化を同時に行うことにより多額の出費を免れ、経済上も教育改善上も効果的なことなどが、その理由とされているのである。ちなみにこの申請書の下書きには、尋常小学校として経理した場合、年間400円内外が必要となり、一方従来の簡易教育所は年間320円の経費で運営されていて、結局尋常小学校化により80円の負担増となるが、本村総戸数620戸に賦課すれば、一戸平均22銭の負担増に過ぎず、一村経済上支障はないという学務委員の添書もみられる。

 また校舎位置の変更に関しても、7月14日付「東中富良野尋常小学校位置変更内申ノ件」を提出し、新築を機に校舎の位置を現在の東9線北17号から東7線北19号に移転することを上申している(『総代会書類』)。それによると、

 

  東中富良野簡易教育所現下ノ位置ハ、未タ該部落発達区域不詳ノ頃ニ敷地ノ選定ヲナシタルモノニシテ、目下殖民ノ状況ヲ見ルニ、多ク東四線北二十号乃至東三線北十七号ノ間ニノミ発達ヲ遂ケ、従前目下ノ位置ヲ中央トセル東七線北十六号乃至東九線北十四号ノ間ハ概ネ地味不良、殊ニ泥炭ノ箇所多ク為メニ移住者極メテ僅少ニシテ、後発達スへキ見込甚タ不充分ノ感アリ。且万一将来該方面ニ於テ殖民ノ数ヲ増ス暁ト云ヘトモ、是レ等部面ハ曩ニ新設セラレタル東九線簡易教育所へ通学スルヲ便利トスル地位ニアリ。

 

とあり、現時点で殖民が進行している地域と簡易教育所の現在位置が離れていることが移転を希望する理由となっている。

 一方校舎敷地に関しては、中島農場内東7線北24番地の畑1町歩を中島覚一郎の寄付により調達し、11月には東中簡易教育所を尋常小学校に組織変更するにあたり、その経理費用は全て村費教育費より支弁するという総代会の評決がなされた。これにより12月3日東中富良野簡易教育所の尋常小学校への組織変更と校舎移転が認可され(『総代会書類』)、同日付で訓導兼校長として赤井鶴也が赴任したのである(『東中郷土誌』)。

 東中富良野尋常小学校の新築校舎が完成し移転したのは、翌38年4月のことである。尋常小学校への変更認可から校舎完成が遅れたのは、おそらく冬季における建築作業を避けたこと、校舎建築の許可稟請を同年2月になっても受けておらず、そのため地域住民による校舎建築資金の寄付金集めが遅延したことなどが理由として推測される。このため役場は、建築許可を得る前に寄付金の収集に便宜をはかるため、北原虎蔵と校舎建築工事請負の契約を行い(明治38年「上富良野村戸長役場事務引継書・未了事件」『自明治三十四年引継書類綴』)、また中島覚一郎、田中米八、森崎宗吉、森田喜之八の四民を建築委員とし、建築費650円で間口10間×奥行5間の校舎を新築した(『上富良野志』)。これにより、4月1日東中富良野尋常小学校の第2次校舎が竣工されたのである。

 

 写真 東中尋常小学校の卒業写真

  ※ 掲載省略

 

 上富良野簡易教育所の基本財産蓄積

 一方上富良野簡易教育所でも、吉田貞吉ほか通学区域の住民39名が「三重団体戦事紀[ママ]念開墾組合」を組織し、明治38年4月5日上富良野村字富良野原野309番地の未開山林など合計18町6反4畝21歩の村有学校樹栽地の貸付を願い出ている(『総代会書類』)。この組織は日露戦争の「戦事紀[マゝ]念」の名目で結成され、その収益金は将来上富良野簡易教育所の基本財産として蓄積することを目的としている。

 また未開山林は、明治38年5月1日から明治48年4月30日までの10年間、無料で貸借する契約を戸長役場と締結した。このような学校基本財産蓄積の動きは、将来の尋常小学校への変更の際の校舎建築費を含めた学校運営のための資金作りを視野に入れたものと考えられる。

 

 上富良野尋常小学校の高等科併置

 明治37年に補習科を設置した上富良野尋常小学校では、翌38年には早くも高等科の設置への取り組みがなされている。同年4月8日に上富良野村から道庁に宛てて提出された「高等科併置ニ付キ稟請」(『総代会書類』)では、明治37年度に就学率が84lに達し、尋常小学校や簡易教育所の設備も整っている点、村財政における教育費支出に従来何の支障もなく、今後も問題が生じる恐れがないことが併置申請の理由となっている。また高等科の修業年限は最長の4カ年が希望され、入学希望者は70名が見込まれており、さらに4月24日に上川支庁宛に提出された「高等小学校併置ノ件」(『総代会書類』)には、併置により校舎増築が必要となった場合はその費用を寄付でまかなう点も記されている。このような申請に対して、道庁は7月3日高等科併置を認可し、はれて上富良野尋常小学校は高等科を併置する上富良野尋常高等小学校となった。

 ただし上川支庁には、高等科設置に対する若干の躊躇があったとみられる。7月5日付で上川支庁は、上富良野村戸長に対して「高等科併置之件」(『総代会書類』)を送致し、道庁から高等科併置の認可は下ったものの、「右ハ義務教育施設末タ充分ト認メ兼ヌル点アルモ、特ニ詮義相成候儀ニ付、今后一層義務教育普及ノ実ヲ挙ゲラルヽ様精々御経理相成度」として尋常小学校の最近2カ月間の「月末調査表」(在籍人数、出席人数などを記載)を提出させている。「特ニ詮義相成候儀」とは、4月22日付「高等小学校併置ノ件」(『総代会書類』)により、上川支庁が村に、高等小学校設置区域の戸数人口や設置区域内の学齢児童数、就学児童数、不就学児童数、就学歩合や高等小学校設置の場合の校舎の増設見込み、過去3年間に尋常小学校を卒業した児童の人数などの調査を命じたことを指している。また上川支庁は、7月25日付で高等科の修業年限を村の申請した4カ年から2カ年に短縮して認可した(『総代会書類』)。これについては、その後12月21日になって、結局修業年限が4カ年で認可されており(『村勢調査基礎』)、村がどのような経緯で認可を獲得したか定かではないが、いずれにせよこの一件は、村財政を含めた「義務教育施設未タ充分卜認メ兼ヌル」村内事情に対して、より高度な教育機関設置への欲求を押し通した結果としてみることができるだろう。

 なお高等科併置により、上富良野尋常高等小学校の通学区域は西2線北26号から東4線北29号に至る1里とされ(上富良野小学校『開校八〇周年記念誌』)、11月には校舎が60坪増築された(『上富良野志』)。これは高等科併置による生徒数の増加への対応というだけでなく、既に同年6月の段階で生徒増加のため教室への収容が不可能になったため、11月末日を期限として仮校舎を使用していた(明治38年5月30日「仮校舎使用認可申請」『総代会書類』)ことが大きな要因とみられる。

 

 教育事務組織の変更

 明治39年4月になると、上富良野では戸長役場が廃止され二級町村制が施行されたが、これに付随して学務委員の組織変更が行われた。学務委員とは、明治33年12月6日庁令第107号「学務委員規則」によると、市町村立小学校設置区域内に置かれ、就学督促や就学義務の免除・猶予、授業料や学校基本財産、教科目の加除や修業年限などの事項に関して市町村長らを補助し、これらの事項に対して諮問に応じて意見陳述を行う役職で、定員は10名以下とされている。上富良野においても明治33年より設置され、「学務委員規則」にのっとって町村総代人の選挙権を有する者や小学校男子教員がその構成メンバーとなっていた。それが二級町村制施行にともない、村会議員より4名、村会議員選挙権を有する者より3名、小学校男子教員より3名の計10名で構成することとなった(7月5日上川支庁より認可、『総代会書類』、7月3日付「学務委員選挙ニ係ル組織変更許可申請」『明治三十九年以降村規則』)。

 また7月7日には学事協議会の規則も変更された。「学事協議会規則」(『明治39年以降村規則』)によると、学事協議会は小学校・簡易教育所の教授管理、学校衛生・学事施設上に関する事項を協議することを目的として開設され、村長・学事主任・書記・教員・学校医・学務委員・村会議員・部長をメンバーとし、毎年6月と12月の第2日曜日に定期会が開催されることとなっている。

 

 表3−23 歴代学務委員

任命年/月

氏名

明治33年

設置認可

明治37年11月

加藤政吉 田丸正善 岩崎虎之助 安井新兵衛 吉田貞吉

明治39年

組織変更

明治41年6月

(村会議員) 多津美仲蔵 宮北忠平 中野常蔵 増田嘉太郎

(村会議員選挙有権者) 吉田貞吉    ?    ?

(小学校男教員) 堀川勝三郎 加藤政吉 赤井鶴也

明治42年

(村会議員) 多津美仲蔵 宮北忠平 中野常蔵 増田嘉太郎

(村会議員選挙有権者) 森岡善太郎 田村栄次郎 松岡源之助

(小学校男教員) 堀川勝三郎 加藤政吉 赤井鶴也

明治43年6月

(村会議員) 四方勇吉 吉田貞次郎 安井新右衛門

(村会議員選挙有権者) 松原勝蔵 松藤三治

           下村粂太郎→広浜伊蔵(明治43/9/4)

(学校教員)高田不二夫 加藤政吉 稲村 覚 吉野時次郎

 

 随意科目の採用

 一方明治39年は、各小学校で集中的に教科目の充実がみられた年でもある。4月30日には上富良野尋常高等小学校高等科の随意科目として「農業」が採択され、高等科1、2年を対象に1週2時間の授業が行われたとみられる。また5月15日には東中富良野尋常小学校で随意科目として「唱歌」と「裁縫」が加設され、「裁縫」は3、4年を対象に1週2時間、「唱歌」は1年から4年の全学年を対象に1週に2時間の授業が行われたとみられる(『総代会書類』、なお対象学年・時間数は史料欄外のメモにより推定)。

 このような随意科目の採用に関しては、既に明治37年1月26日付道庁訓令第7号「小学校ノ加設科目随意科目ノ施設ニ関スル心得」で、修学年限3カ年以上の高等小学校では「手工」や「農業」及び「商業」を、土地の事情に応じて次年度より加設することが指示されており、また39年11月に開催された上川支庁管内小学校長会議においても、「指示及び注意事項」として、高等科では実業科目を、尋常小学校では「裁縫」を新年度よりなるべく加設することが指示されている(「教科目加設ニ関スル件」『明治三十九年七月ヨリ四十一年至親展書綴』)。とすれば、上富良野の各小学校においてこの時期に集中的に教科目が新設されたのも、道庁や上川支庁の教科目に関するこのような方針に沿ったものとみていいだろう。

 

 東中富良野尋常小学校の校舎増築と補習科設置

 明治39年4月の二級町村制が施行される際の「事務引継ニ関スル演説書」(『自明治三十四年引継書類綴』)のなかに、「東中富良野尋常小学校校舎狭隘ヲ来シ、新入学生ヲ容ル、余地ナキ場合ニ遭遇シ、目下同学区内ニ於テ増築協議」がなされているという項目がある。児童を収容しきれなくなったことについては、東中富良野尋常小学校ではとりあえず2部教授を施行することで対応している。その内容は尋常科1、2学年を午前の部とし、1週に修身科2時間、算術科5時間、国語科9時間、遊戯体操2時間、以上18時間の授業時間とし、尋常科3、4学年は午後の部とし、修身科2時間、算術科6時間、国語科12時間、遊戯体操2時間の計22時間の授業を行うというもので、施行期間を7月31日までとしている(5月10日付認可『総代会書類』、「二部教授各学年各学科教授時数」『明治三十九年七月ヨリ四十一年至親展書綴』)。一方校舎の増築は、新入学生の増加による「校舎狭隘」によって着手されたというより、実際は補習科設置に備えることに大きな主眼があったとみられる。3月23日付の赤井鶴也校長から草浦耕蔵村長への書簡に、「尚当校今回愈々有志之尽力ニテ増築ノ事ニ相成候ニ就テハ、目下補習生トシテ授業シツヽアル者ヲ公然二ヶ年ノ補習科ヲ加設致シ度」とある(『明治三十九年七月ヨリ四十一年至親展書綴』)。この文面からすると、校舎増築はむしろ補習科の設置と連動しており、また東中富良野尋常小学校では正式な補習科設置以前に、既に「補習生」というかたちで尋常小学校教科の補習がなされていたことがわかる。その後東中富良野尋常小学校の補習科設置は6月30日に認可され(『東中郷土誌』)、7月31日付で校舎増築も認可された(『総代会書類』)。これにより田中亀八、越智発太郎らを建築委員とし、工費を450円、前回の増築と同じく間口10間×奥行5間分の増築がなされた(『上富良野志』、「学事」『村勢調査基楚』)。

 

 教員不足と教育財政の見直し

 以上のように上富良野では、初等教育開始以降の学齢児童の増加とも相まって着々と教育の拡充を行ってきたが、これが教育費の増大につながることはいうまでもない。村財政に対して教育費の占める割合(表3−24)をみると、教育費は明治37年以降常時約7割を占めている。しかもその5割から6割が教員俸給であり(明治43年度の各小学校・簡易教育所から村に提出された予算案参照、『明治四十三年村会議事録』役場蔵)、この数字は教育費が村財政をいかに圧迫しているか、そしてそのなかでも人件費がいかに大きな割合を占めているかを物語るものである。では教員の数は足りていたのだろうか。

 明治期における小学校在籍児童数、学級数、教員数の変化(表3−25)をみると、在籍児童数の増加に比べて学級数・教員数はそれほど増加しておらず、1学級の生徒数が80名を越えている場合もある。これは教員不足で学級増設をしても担当する教員がいないためである。また各学校の教員不足は、個々の教員の負担も増大させている。明治39年6月東中富良野尋常小学校に補習科が設置されたことは先にも述べたが、当時この小学校の児童数は、男子48名、女子60名の計108名で教員数は4人であった(表3−25)。また教員の内訳も訓導1人、准訓導1人、代用教員2人であり、このうち訓導兼校長の赤井鶴也が補習科の授業を担当した。ところがこの結果赤井は、正教科のほかに1週6時間も授業時間が増えて、同年11月1日より1週33時間も授業を担当しなければならなくなった(「教授時数変更之件」『明治三十九年七月ヨリ四十一年至親展書綴』)。上富良野尋常高等小学校では尋常科男子71名、女子54名の計125名、高等科男子84名、女子17名の計101名の児童数に対して、教員は6人であったが(表3−25)、大城開二校長も草浦耕蔵村長宛の書簡のなかで、

 

  本校は曩に本職より貴意を得候通り、本年度は欠員に欠員を重ね、干今欠員之有様、部下職員之辛労尠少ならざる次第、殊に壱週参拾時以上も担任するものも有之、掛り御調査之上、本校の分之予算は是非御支出相成度。

 

と現状を訴え、予算を要求している(『明治三十九年七月ヨリ四十一年至親展書類』)。しかしこの要求を満たすためには結局教育費が増大することになり、「教員不足の解消」は容易に解決できない課題として残されることになるのである。

 では教育費の増大に対して、上富良野ではどのような対策がとられたのだろうか。明治39年5月には上富良野尋常高等小学校の高等科に限り、月額30銭の授業料徴収を開始している(『明治三十九年以降村規則』)。ちなみに明治33年「小学校令」第57条により市町村立尋常小学校は基本的に授業料を徴収しないことになっているが、高等科は1カ月30銭以下で徴収できると「小学校令施行細則」第175条で定められている。とすればこの授業料は「施行細則」の最高限度額が課されたことになる。

 また同年9月8日には、「学校基本財産特別会計規則」の設定が道庁より許可された(『明治三十九年以降村規則』)。この規則は、上富良野村の学校基本財産の収支を一般会計と区分して特別会計とするもので、その場合歳入となるのは@学校不用品の売却代、A学校付属地より生じる収入金、B教育費予算残余金、一方歳出となるのは@蓄積金、A基本財産造成費、B基本財産造成のため起こした公債の利息と償還金である。

 また明治38年10月庁令第84号第3条第2項により生じる収入の全部、または基本財産中のある種類の収入の全部を一般会計に支消する場合、及び基本財産支消金の全部を一般会計経費にあてる場合は、その収入を直ちに一般会計の歳入に編入し、またその一部を支消する場合は特別会計の歳入に収入し、歳出において一般会計繰入金の科目を設けこれを支弁することとなっている。この特別会計規則新設の理由については、「本村学事ノ進歩ニ伴ヒ教育費モ又年々増加ナスノ有様ニ有之条々、本規則ヲ新設シ、教育費ノ一助トナス」ためであると説明されており、学校基本財産の収支を一般会計と切り離すことで、財政難の場合にも教育費の確保を可能にすることがそのねらいとみられる。しかしこれら2つの対策も教育費の増大に対する決定的な解決策とはなりえず、結局教育費を含めた財政の改善は、上富良野における慢性的な課題として残されることになる。

 

 表3−24 村費支出に占める教育費の割合(単位:円)

年度

支出

教育費

教育費の占める割合

明治33

1,309円24銭1厘

621円32銭4厘

47.46%

34

648円23銭3厘

210円89銭1厘

32.53%

35

 

 

 

36

 

 

 

37

1,695円84銭4厘

1,219円3銭9厘

71.88%

38

3,167円73銭8厘

2,432円55銭8厘

76.79%

39

 

 

 

40

12,095円95銭

6,689円19銭

55.30%

41

11,371円38銭8厘

8,084円55銭

71.10%

42

13,022円83銭2厘

9,096円16銭

69.84%

43

11,944円47銭5厘

8,976円

75.15%

44

 

14,484円10銭

 

45

 

14,813円59銭

 

   出典 『自明治三十四年引継書類』、『上富良野志』、『村勢調査基楚』ただし、明治40年の数字は予算額によるものである。

 

 表3−25 明治期における各小学校の児童数・学級数・教員数

  明治33年上富良野簡易教育所→明治41年上富良野尋常小学校(創成・上富良野西小)

学級

教員

備考

明治33

 

 

30

1

1

 

34

 

 

50

1

1

 

35

 

 

 

1

1

 

36

24

19

43

1

1

 

37

21

17

38

1

1

 

38

20

15

35

1

1

 

39

21

18

39

1

1

 

40

 

 

 

1

1

 

41

27

24

51

1

2

修業年限6か年

42

43

33

76

1

2

 

43

40

43

83

1

2

 

44

46

43

89

2

3

 

45

61

43

104

2

3

 

 

  明治33年東中富良野簡易教育所→明治37年東中富良野尋常小学校(東中小)

学級

教員

備考

明治33

 

 

 

1

1

 

34

 

 

35

1

1

 

35

 

 

 

1

1

 

36

44

19

63

1

1

 

37

37

23

60

1

1

 

38

48

32

80

2

2

 

39

48

60

108

2

4

 

40

 

 

 

 

4

 

41

 

 

 

 

4

修業年限6か年

42

 

 

 

 

4

 

43

126

101

227

4

4

 

44

 

 

 

4

 

 

45

157

111

268

 

5

 

 

  明治35年上富良野尋常小学校→明治38年上富良野尋常小学校(上富良野小)

学級

教員

 

明治35

41

26

67

1

2

補習科・高等科

 

36

53

40

93

 

2

学級

 

37

54

46

100

 

2

13

4

17

 

補習科設置

38

56

44

100

 

5

43

13

56

 

高等科設置

39

71

54

125

 

6

84

17

101

 

 

40

103

84

187

3

7

91

15

106

3

 

41

142

101

243

5

6

40

6

46

1

修業6か年

42

152

115

267

5

6

35

10

45

1

 

43

152

116

268

5

6

51

14

65

1

 

44

176

127

303

5

6

69

14

83

2

 

45

191

146

337

6

7

45

6

51

2

 

 

  明治41年上富良野第一教育所(江花・上富良野西小)

学級

教員

明治41

19

13

32

1

1

42

33

18

51

1

1

43

38

23

61

1

1

44

47

28

75

1

1

45

47

30

77

1

1

 

  明治43年上富良野第二教育所→明治45年江幌尋常小学校(江幌小)

学級

教員

明治43

34

13

47

1

2

44

30

20

50

1

2

45

45

33

78

1

2

 

  明治44年上富良野第三教育所(里仁・上富良野西小)

学級

教員

明治44

15

13

28

1

1

45

13

20

33

1

1

 

  明治44年上富良野第四教育所(日新・上富良野西中)

学級

教員

明治44

 

 

12

1

1

45

9

15

24

1

1

 

   出典 『上富良野小学校沿革誌』、『創成小学校沿革誌』、『江花小学校沿革誌』、『里仁小学校校史年表』、『江幌小学校沿革誌』、『北海道庁学事年報』、『引継書類綴』、『村勢調査基楚』、『明治三十九年親展書綴』、『明治四十三年自一月至十二月親展書綴』、『大正元年親展書綴』、『大正六年調小学校沿革誌』