第3章 明治時代の上富良野 第7節 明治期の教育と青年会
290-292p
2、尋常小学校の開校をめぐって
上富良野尋常小学校の開校
簡易教育所の尋常小学校への変更に向けて努力がなされていた明治34年7月、上富良野市街地の区画選定、貸付が開始され(『村勢調査基楚』)、このころから急速に市街地の形成がすすんだ。当初市街地は上富良野簡易教育所の通学区域に属し、通学の便や学齢児童の増加からしても、早期の小学校開校が望まれたが、その位置について議論が紛糾し、開校の動きはいったん中止された(『北海道毎日新聞』明34・10・29)。その後明治34年6月に尋常小学校敷地付与とその設置が出願され、12月25日には市街予定地に未開地1町3反6畝歩が付与された。さらに明治35年1月15日には小学校の位置が確定し、同年3月4日に上富良野尋常小学校(現上富良野小学校)の開校が認可された(『総代会書類』)。
上富良野尋常小学校は、島津農場事務所他85名による527円65銭の寄付により、駒ア政一、河村善次郎、海江田信哉を建設委員として、上富良野市街地東1線北25号の敷地に校舎の建築がなされた(『上富良野志』)。明治34年「未開地付与願」(『総代会書類』)によると、当初上富良野尋常小学校は校舎家屋を57坪とし、857円89銭の費用で木造柾葺板囲平家建の校舎を建築する予定であったが、寄付金が予定額を下回ったせいか、実際の校舎面積は39坪2合5勺となった。また開校は明治35年7月1日となり、当初は代用教員の伊藤猷雄が授業を担当したが、11月より訓導兼校長として加藤政吉が赴任した。修業年限は尋常科4カ年、学級編成は単級で、授業科目は修身・国語・算術・体操の四科目であった。また、上富良野尋常小学校の開校と同時に上富良野簡易教育所の通学区域が変更され、西2線北26号を南北の境として両校の通学区域が分割されることとなった。
写真 上富良野尋常小学校の卒業記念写真
※ 掲載省略
簡易教育所の継続
上富良野尋常小学校の開校準備が進められている間にも、簡易教育所の尋常小学校への変更に向けた計画は進行しつつあった。明治35年3月31日には、上富良野簡易教育所の新校舎が西3線北28号の共有地に落成した。この校舎は32坪8合で、工事費220円はすべて地域住民の寄付によるものであった。
ところが当初の期限であった3カ年、すなわち明治36年になっても、簡易教育所の尋常小学校への変更は結局実現しなかった。3月26日には道庁より上富良野、西中富良野、東中富良野、下富良野の簡易教育所の継続が認可されている。このとき道庁に提出された「上富良野簡易教育所外3ヶ所之簡易教育所設置存続認可申請」(『総代会書類』)は、尋常小学校を設置できない理由を次のように説明している。
今四个ノ教育所ヲシテ一時ニ尋常小学校ニ変更スルニ於テハ、従前ニ比シ経理ノ費用ハ殆ンド倍額以上ヲ要スルニ至り、本村刻下ノ状況タル低位ノ民力ヲ以テ到底実行スヘカラサルモノニ有之候。
すなわち、4つの教育所を一時に尋常小学校に変更することは、義務教育普及の主旨に添う計画ではあるものの、従前に比べ経費が倍額以上必要となり、本村のような「低位ノ民力」では到底不可能であるというのである。また、
富良野村上富良野外三地方ハ、去ル明治三十二年以来、漸ク移住民ヲ見タル次第ニシテ、其部落民ノ体面ヲ作ルニ至リシハ最近ノ事実ニ有之、一般住民ノ資力ハ漸ク糊口ヲ凌クニ止リ、由来若村ノ常トシテ昨年ノ不作ハ殊二民力ノ疲弊ヲ増加シ、到底四个ノ尋常小学校ヲ設置之費用ヲ分担スルノ資力ヲ有セズ、仍而簡易教育所設置方認可ヲ乞フ所以ナリ。
つまり、4つの簡易教育所を尋常小学校に変更した場合の費用の負担増と前年の不作による「民力の疲弊」が、簡易教育所継続の理由だというのである。確かにこれに関しては、開村当時の村費徴収は1戸平均年額89銭であったのが、明治36年度には平均年額2円97銭以上になったという事実があり、その大幅増徴の原因の1つが学校の設備の拡充であったといわれている(明治36年10月1日「事務引継演述書・戸籍之部」『自明治三十四年引継書類綴』)。
また明治34年以降、毎年教員俸給補助の名目で国庫より教育補助費が交付されているものの(『総代会書類』)、尋常小学校への変更が実現すれば必然的に正教員の確保や人数、校舎設備の拡充が必要となり、校舎建築は寄付でまかなうにしても、村費の増徴による費用捻出は免れない。結局この1件により、上富良野は教育拡充への欲求と村財政への負担増という難問に初めて直面したのであり、両者のバランスをとって、いかに学校教青を充実させていくかが今後の課題となったのである。
表3−22 上富良野における学齢児童数と就学率
年 |
学齢児童数 |
就学児童数 |
就学率 |
上川管内における就学率 |
北海道内における就学率 |
|||
男 |
女 |
男 |
女 |
男 |
女 |
|||
明治33 |
|
|
|
67.8% |
70.40% |
|||
|
|
|
|
|
|
|||
明治34 |
|
|
|
70.70% |
76.99% |
|||
|
|
|
|
|
|
|||
明治35 |
755 |
550 |
72.85% |
81.35% |
82.23% |
|||
|
|
|
|
|
|
|||
明治36 |
|
|
|
91.86% |
88.68% |
|||
|
|
|
|
|
|
|||
明治37 |
539 |
482 |
89.42% |
92.66% |
92.65% |
|||
287 |
252 |
269 |
213 |
93.73% |
84.52% |
|||
明治38 |
603 |
|
|
93.45% |
94.92% |
|||
321 |
282 |
|
|
|
|
|||
明治39 |
|
|
|
91.30% |
95.85% |
|||
|
|
|
|
|
|
|||
明治40 |
|
|
|
94.47% |
96.72% |
|||
|
|
|
|
|
|
|||
明治41 |
|
|
|
97.65% |
97.70% |
|||
|
|
|
|
|
|
|||
明治42 |
1,049 |
949 |
90.47% |
96.95% |
97.96% |
|||
578 |
471 |
527 |
422 |
91.18% |
89.60% |
|||
明治43 |
1,033 |
979 |
94.77% |
97.67% |
98.31% |
|||
566 |
467 |
541 |
438 |
95.58% |
93.79% |
|||
明治44 |
1,741 |
1,527 |
87.70% |
98.29% |
98.24% |
|||
|
|
|
|
|
|
|||
明治45 |
1,683 |
1,587 |
94.30% |
98.57% |
98.51% |
|||
919 |
764 |
899 |
698 |
97.82% |
91.36% |
出典 『北海道庁統計書』、『北海道庁学事年報』、『村勢調査基楚』、『総代会書類』、『北海描毎日新聞』