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3章 明治時代の上富良野 第6節 開拓期の交通と通信

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3、郵便局等の創設

 

 郵便局開設までの経過

 前島密の創設による新しい郵便制度は、明治4年3月に東京・大阪間で施行され、北海道でも、同5年に函館郵便役所が開設された。その後、駅逓を利用しつつ、海岸線伝いに路線が広がり、同9年には全道一周路線が完成している。同8年に郵便役所は郵便局と改称され、同18年には内閣制度の確立とともに逓信省が設置されて、郵便・電信などの通信事業が一元化された(『新北海道史』第3巻通説2、第4巻通説3)。

 開拓民にとって、郷里からの便りを読み、自らの消息を伝えることは何よりの励みとなったことであろう。上富良野町域に郵便局が開設されるのは、明治32年のことであるが、同30年に入植してから郵便局ができるまで人々はどのようにして便りを手にし、また届けたのであろう。

 同31年10月までは旭川郵便電信局(同26年12月開局)から特別集配人が派遣されていたようである。しかし、郵便物は一括して三重団体に預け置かれ、移住民はわざわざ三重団体まで取りにいかねばならず、それ故、札幌発の郵便物は1週間以上たたなければ手にすることができなかった。郵便箱も1カ所だけで、恐らくこの三重団体に設置されていたものと思われる。この特別集配人も、同年11月からは廃止となり、富良野原野の移住民は遠く美瑛原野まで郵便を取りにいかねばならなくなり、非常に不便を感じ、郵便局の設置を待望するようになったという(『北海道毎日新聞』明31・12・4)。

 こうした中、三重団体の久野傳兵衛は開墾を息子の春吉に任せて美瑛との間を行き来し、住民のために通信の便を確保したという(『上富良野志』)。久野らは継立集配人と呼ばれ、1日おきに集配業務を行なったようである。しかしながら、同32年8月現在で、戸数300戸、人口1350人のところ、通常郵便物及び書留郵便物の集配数は1617通と、郵便の利用が殊の外多く、本局設置が強く望まれるようになった(『北海道毎日新聞』明32・8・25)。

 

 郵便局の開設とその後の状況

 移住民の郵便局設置の要望が高まり、富良野原野での鉄道開業が目前に迫ったのを受けて、明治32年9月1日に富良野郵便局が三等郵便局として開設されることになった。折しも、この日に旭川・美瑛間の鉄道が開業している。

 局舎は、最初、市街地(のちの上富良野駅前中町2丁目付近)に草葺きの掘立小屋を建ててそれに当てていたが、同33年12月1日に富良野村戸長役場前(現本町1丁目付近)に木造平屋建ての局舎を新築し、そこに移転した。

 初代局長は、河村善次郎で明治期を通じて局長を務めた。河村は京都府出身で屯田兵の家族として(長男康次郎が屯田兵)、旭川兵村に入植し、局長拝命に当たって上富良野市街地に転住した。市街地の鼻祖として人望を集めたという(『上富良野志』)。また、長男康次郎も下富良野郵便局長を務めている。

 開局した時の集配区域は、現在の美馬牛、上富良野、東中、中富良野、富良野、山部、東山、金山、下金山、落合までの範囲で、集配人は久野傳兵衛、池田増太郎、逓送人は原田忠久、川北辰蔵らであった。また、郵便箱は、開局時、上富良野西2線北170番地に武藤助太郎の取り扱いで、中富良野東8線北106番地、下富良野東9線南3号番外地の両場所に神田和蔵の取り扱いにより、都合3カ所に設置された。そしてこれらの場所では、郵便切手や収入印紙も販売された(上富良野郵便局「局務原簿」)。

 富良野郵便局は、明治33年7月11日に下富良野郵便局ができたのを受けて、同年9月に上富良野郵便局と改称した。また同41年4月1日には中富良野郵便局が開局し、ここに、上富良野郵便局の集配区域は、「字上富良野及中富良野の一部分」となった(『上富良野志』)。

 以下では、明治期における富良野郵便局(のちの上富良野郵便局)の運営状況を垣間見てみよう。

 『上富良野志』によれば、開業当初は通常郵便の取り扱いのみ行なったが、同32年12月1日から小包郵便、同12月16日から国内外の為替、郵便貯金の取り扱いを始めた。これらの業務の32年から41年にいたる成績は、別表(表3−21)のごとくであった。

 前述したように、明治32年8月現在の通常郵便物及び書留郵便物の集配数が1617通であったのに対して、開局時には、通常郵便物だけでも「引受」「配達」の合計が8万3014通と、その約51倍に達している。当時の新聞も、「同局(上富良野)設置以後は非常に便利を得発送受信共に大に増加したり」(『北海道毎日新聞』明32・10・3)と記しており、郵便局設置に対する人々の期待がいかに大きかったかがわかる。その後もこの表によれば、各業務ともほぼ順調に実績をあげたといえる。

 なお、この表で40年から41年にかけて数字が減少するのは、41年4月1日に中富良野郵便局が開業したためである。

 また39年に貯金の預入額が急増しているのは、日露戦後経営に必要な政府資金の拡充のために、38年に郵便貯金法が制定されたことと関係があろう。

 その他、郵便以外の業務として、明治44年11月6日に電信・電話の取り扱いを始めている(『旧村史原稿』)。

 

 表3−21 上富良野郵便局取扱高

 

通常郵便物数

小包郵便物数

引受

配達

引受

配達

明治32年

49,533個

33,581個

24個

88個

33年

56,628

70,837

125

316

34年

70,036

79,866

217

719

35年

86,826

101,984

309

827

36年

93,864

105,930

350

1,022

37年

102,559

121,117

449

1,476

38年

116,996

135,355

464

1,804

39年

124,410

168,452

655

2,626

40年

168,893

299,537

1,256

4,230

41年

148,645

268,176

1,314

3,142

 

郵便為替金額

郵便貯金金額

振出

払渡

預入

払戻

明治32年

1,951円263厘

1,768円145厘

274円710厘

36円972厘

33年

7,020 889

6,237 404

1,249 040

1,254 018

34年

11,371 593

9,794 358

1,831 225

1,638 296

35年

18,380 798

15,073 873

3,297 580

3,098 883

36年

21,163 122

14,946 012

4,598 786

3,233 265

37年

21,626 745

20,573 518

7,099 836

4,494 824

38年

28,369 695

18,848 252

10,484 607

10,591 398

39年

45,214 369

22,995 662

17,259 598

16,995 565

40年

55,125 721

28,774 482

12,901 139

15,228 859

41年

50,178 431

42,167 642

11,713 654

12,830 348

   出典 「上富良野志」

 

 電信・電話施設の創置

 日本の電信は、明治2年8月に横浜灯明台役所と横浜裁判所との間に設けられたのが最初である。北海道では、同3年に開拓使が架設計画を立て、同6年に架設が裁可され、同7年10月に札幌本道に沿って、福山・小樽間の電信線ができている。内陸部では、同26年12月に旭川に三等郵便電信局が設置され、電報通信用の電話線が引かれた(『北海道の電信電話史』)。

 富長野地方では、鉄道の敷設に合わせて電信が整備されていった。すなわち、明治32年12月に美瑛駅で最初に公衆電報の取り扱いが始まった。次いで、同33年に上富良野駅と下富良野駅で、同34年に中富良野駅で取り扱いを始めた(『北海道鉄道百年史』)。さらに同34年11月に、下富良野郵便局でも電信の取り扱いを始め、同局は下富良野郵便電信局と改称された(『北海道の電信電話史』)。

 一方、日本での公衆電話の実用化は、明治22年1月に東京・熱海間に設けられたのが嚆矢であり、翌年12月から東京と横浜で電話交換業務が始まっている。北海道では、同16年に札幌・幌内間に鉄道専用電話として設けられたのが最初であったが、これは単線式電話であった。公衆電話の利用が始まるのは、それより遅れ、同33年に札幌・小樽・函館で電話交換業務が開始され、同地に電話所が設けられてからのことである(『新北海道史』第4巻通説3)。

 北海道内陸部では、同22年11月に市来知・忠別太間に電話線が架設され、空知監獄署や上川測候所などの官衙の間で官用として使用が始まった。その後、公衆電話の設置について、旭川住民は同33年から政府への請願を繰り返し、ようやく同39年10月に開通式を迎えたという(『旭川市史稿』上巻)。

 富良野地方では、明治44年11月6日に上富良野・中富良野両郵便局で電信・電話事務の取り扱いを始めている。しかし、これは主に電報用であった(『上富良野町史』、『中富良野町史』)。