第3章 明治時代の上富良野 第6節 開拓期の交通と通信
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1、道路の開削と整備
明治以前の北海道内陸交通と富良野盆地
江戸時代、富良野盆地は十勝や上川のアイヌの人々に狩猟場として、また十勝と上川地域を結ぶ重要な交通路として利用されていたといわれる(『新旭川市史』第1巻通史1)。この富良野盆地を含む北海道内陸部に、本格的な道路が開削されるのは、明治19年(1886)に北海道庁が設置され、石狩川上流の上川地域を中心とした内陸開発が推進されて以降のことであった。
しかしながら、江戸時代後期に幕府財政が悪化し、ロシアの南下に対する脅威が強まり、北方警備や蝦夷地開発の議論が盛んになると、石狩川流域を中心とする本道内陸部への関心がにわかに高まった。やがて、文化4年(1807)に北海道全島が幕府直轄になるが、そうした中、幕吏近藤重蔵によって石狩川流域の開発や、そこを通る内陸横断道路の開削を主とする蝦夷地開発論が唱えられた。それは、彼が寛政10年(1789)から都合5度にわたって従事した蝦夷地調査を踏まえて幕府に上申したもので、石狩川流域を通る内陸横断道路を開削し、それと海岸地域を結ぶ道路網を整備して、その上で石狩川流域を開発し、そこに蝦夷地経営の拠点を置いて蝦夷地全体を開発すべしというものであった(文化4年「総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付」、『近藤正斎全集』第1)。
この近藤の構想は結局実現しなかったが、幕末に再びほぼ同じ内容の構想が唱えられることになった。それは安政元年(1854)に日米和親条約で箱館開港が決まり、幕府が翌年蝦夷地を再直轄した時で、箱館奉行となった堀利熙が、当面する蝦夷地経営の主眼として対外警備と開拓を進めるには、内陸横断道路をはじめとする道路開削と駅逓設置が急務と主張したのである(「蝦夷地へ国号御撰足並駅路御開見込之趣申上候書付」、『新撰北海道史』第5巻)。
内陸横断道路の実現には石狩川上流域の調査が不可欠で、その調査に当たったのが箱館奉行所イシカリ詰足軽松田市太郎と同奉行所雇松浦武四郎であった。このとき、両者はそれぞれ富良野地域に足を踏み入れており、これが和人が富良野地域を踏査した最初といわれている。
すなわち、松田市太郎は安政4年にその水源を見極めんと石狩川を遡り、さらに同川水系忠別川支流の美瑛川上流から「焼山」(十勝岳と思われる)に登った。また松浦武四郎は安政4・5年に富良野盆地を調査し、特に同5年には、石狩川上流域を踏査した後、アイヌの手を借りて十勝越えを試み、美瑛川から同川支流の美馬牛川に出、そこから現在のJR富良野線にほぼ沿って富良野川に達し、その後、上富良野町域の東の山側を通り、富原、東中を過ぎ、ベベルイ川を経て富良野岳南方の原始ケ原に出て十勝川に抜けている(『上富良野町史』)。
松浦はこの実地見分をもとに、石狩川流域を通る内陸横断道路を開削し、上川地域を結節点として、そこからオホーツク海沿岸や、日本海岸、太平洋岸に抜ける支道を開くことを箱館奉行所に上申した。そしてその支道の一つとして上川から富良野盆地を通り十勝に至るルートをあげている(安政5年「札幌越大新道申上書」、「西場所アツタより石狩上川並ソラチ川筋越東場所トカチえ新道見込申上書」、『旭川市史』第4巻)。
ここに初めて、上富良野町域を通過する道路が、北海道において開削すべき主要な内陸道路の一つとして注目されるところとなった。しかしながら、この富良野盆地を含む内陸中央の道路開削は、経費の問題や、当時の北海道の産業が漁業中心であったことなどから、江戸時代にはついに実現しなかった。
明治期の中央道路構想と富良野盆地
江戸時代後期に注目された内陸横断道路が本格的に検討されるのは、開拓使時代も末になってからのことである。開拓使設置以後、北海道開発の基礎事業として道路開削が急務であることは十分認識されていた。しかし、経費の問題や、開拓方針の問題もあって、開拓使、その後の函館・札幌・根室3県時代を通じて、函館と札幌を結ぶ札幌本道と札幌付近の道路が開削されたくらいで、他は刈り分け道程度にすぎなかった。この道路開削の停滞が、やがて開発の行く手を妨げ、移民の窮状を招いた。
3県時代に入ると、この開拓の行き詰まりを打開するために、内陸開発とそのための内陸横断道路の開削の必要が叫ばれるようになった。その集約された意見が、明治18年(1885)に北海道開拓の停滞を打開する方策を探る目的で北海道を巡視し、その結果を報告した太政官大書記官金子堅太郎の「北海道三県巡視復命書」に見える。すなわち、「北海道開拓事業ノ今日ニ、其成効ヲ見ル能ハズ、内部ノ尚ホ荒蕪無人ニ属スル所以ノモノ、職トシテ皆物産消流ノ路閉塞スルガ故ニアラザルハナシ」、つまり流通の未整備が開拓の進展を妨げているといい、その対策として、「其最モ急ニシテ、一日モ速カニ着手セザルベカラザルモノハ、札幌、根室間ノ道路ヲ開鑿スルニ在リ」といっているのである(『新撰北海道史』第6巻史料2)。
この札幌・根室間の道路開削が、具体的な路線を以て最初に主張されたのは、明治15年のことであった。すなわち、開拓使から原野調査、札幌・根室間道路の適地調査を命じられ、明治14年と15年の両年に東北海道を巡見した、内田瀞、田内捨六らがその復命書の中で主張したのである(『北海道道路史』V路線史編)。彼らは、そこで道路の路線として、石狩川筋から、上川平野を通り、富良野盆地を抜け、十勝平野に出るコースを提示している(『新旭川市史』第6巻通史1)。
これは、内陸横断道路を上川経由にすることで、上川平野の開発を促そうとしたものであったが、ここに、幕末から絶えていた、富良野盆地を通る内陸横断道路の必要が再び主張されたことは特筆すべきことである。
この札幌・根室間道路は、3県時代には中央道路と呼ばれ、札幌県が継続調査を進め、その結果が前述した金子の復命書に結実したのである。金子が復命書を書いた時点では、この道路の路線は、右述の上川経由でなく、空知から空知川を遡り、十勝平野に出る路線が最も便利とされていたようであるが、金子は、もっとよく調査して決めるべしと主張している。
この間、道路開発と合わせて、内陸開発、特に上川平野の開発の必要が叫ばれていた。その熱心な論者が岩村通俊であった。彼は、開拓判官時代から上川に興味をもち、明治15年には会計検査院長として、開拓使から3県への会計事務引継ぎのため北海道巡視の後、上川に本道開発の拠点を置き、そのためにそこに「北京」を建設することを内容とする建議書「奠北京於北海道上川議」を政府に提出した。また、司法大輔であった同18年には、上川視察の途次、近文山に登って上川平野を一望し、前記の内容を再度上申した。こうした岩村の上川開発意見は、やがて彼が同19年に初代北海道庁長官になってから本格的に実施に移されることになった(『新旭川市史』第1巻通史1)。
明治20年、岩村は全道郡区長会議で今後の施政方針について演説した中で、道路開削について、「然シテ、全道前途ノ大経略ニ於テハ、内部ノ中央ニ道路ヲ貫穿シ、四方ノ支道ニ連絡シテ、各地ノ交通ヲ開カザルベカララ〔ママ〕ズ。困テ、第一札幌ニ起リ、空知、上川ヨリ東釧路ヲ経テ、根室ニ達スルノ道」として、上川から十勝に抜ける道路を開削の第1にあげている(「岩村長官施政方針演説書」、『新撰北海道史』第6巻史料2)。
これが道庁のほぼ既定方針であったことは、明治24年刊行の『北海道殖民地撰定報文』に、明治20年撰定の「上フラヌ原野」の殖民地状況として、「運輸」の項に「『エホロカンベ』川ヨリ『チュッペツ』ニ至ル間ハ高原平野ニシテ其距離僅カニ十余里ニ過キサレハ中央道路ヲ開築スルニ当テハ車馬往来ニ便ナル平坦ノ良道ヲ設ケ運賃ハ都テ道ヲ『チュッペツ』ニ取ルニ若カス」と記されていることから分かる。ここに、金子の復命書で懸案とされていた、札幌・根室間の中央道路の路線は、石狩川流域から上川を通り、富良野盆地を経て十勝平野に抜ける路線に確定したのである。
この中央道路の富良野盆地内の経路については、前掲『撰定報文』の「下フラヌ原野」の「運輸」の項に、「根室ニ達スル中央道路予想線ハ原野ノ東方山麓ヲ通過スル」とある。また、この時の撰定に基づいて作成されたと思われる、『北海道庁第二回勧業年報』(明治20年、北海道立文書館蔵)の付図「石狩原野殖民地撰定概図」に、富良野盆地の両端を通る2本の「見込道路線」が引かれており(これらはアイヌの人たちの刈り分け道であった)、東側の線は、現在の上富良野市街から斜線道路を通り東9線に抜ける道筋にあたり、また西側の線はほぼ基線道路に当たっている。
これらからして、中央道路は、現在の斜線道路から東9線道路に掛けての路線を通る予定であったといえよう。
しかし、この中央道路は、明治22年に、上川から北見、網走へと抜ける路線に変更になった。富良野盆地経由の路線は距離が長く、路線が屈曲し、経費がかかり、工事が難しいというのが変更の理由であった(『北海道毎日新聞』明治22・8・17、18、20)。
結局、中央道路は富良野盆地を通らなかった。しかし、上川平野と十勝平野を結ぶという構想の重要性は大方の認めるところであり、それは、やがて内陸横断鉄道の路線として再び注目されることになる。
殖民地区画と道路予定線
明治30年、上富良野に最初に入殖した三重団体の人々は、富良野盆地に2つのルートから入った。1つは旭川経由、1つは空知川経由である。当時、空知太、歌志内までは北海道炭礦鉄道が延びていた。前者では、そこから旭川を通り美瑛までは道路ができていたものの、美瑛以奥は道がなかった。また、後者は歌志内・下富良野間道路が明治30年中に開削されるものの、入殖当時はまだできていなかった。その後、美瑛、下富良野から道なき道を進んで貸下地に入ったのである(『上富良野町史』)。
このように、入植当時は富良野盆地に道路らしきものはなかったのであるが、ここにはアイヌの人たちの通路が幾筋かあり、開拓民はそれを利用して行き来していたようである。このアイヌ道は後の幹線道路の路線の基にもなっている。
「フラヌ原野」は明治29年に殖民地区画が行なわれるが、それは、前述した、同20年の殖民地撰定の時に設定された、盆地の東西両側を南北に走る2本の見込み道路線を一つの手がかりに区画されたと考えられる。碁盤の目状の区画図に、奇異にも思える斜線の道路が上富良野市街から東9線に向かって設けられていることがそれを端的に示していよう。
「石狩国空知郡フラヌ原野区画図其一、其二」によって区画道路予定線の特徴を述べよう。まず、富良野盆地南西にある清水山を基点に、南北に基線道路、東西に零号道路が設けられ、それを基軸にして、東西南北に300間(約540b)間隔で道路を設け、東西を何線、南北を何号と名付けた。そして、基線、斜線、東9線は幅8間、その他の号・線はともに幅6間の道路が幅4間の2本の道路を挟むように計画された。すなわち、零号、3・6と続く号・線の道路は幅6間、1・2・4・5と続く号・線の道路は幅4間であった。
富良野・旭川間道路の開削
『旧村史原稿』は上富良野管内での最初の道路開削について、
始めて道路を開鑿(かいさく)せしは明治三十一年にして現町長の父田中常次郎氏が道庁より工事を請負ひ団体住民を使役して金子農場山際より二十六号に至る道路を設けたり。
と記している。このことについて、明治31年1月22日付『北海道毎日新聞』に、前年の30年に、北海道庁拓殖課が「ビエイより向ふ三里」の間の仮設道路を開削したとある。一方、『北海道庁第十三回拓殖年報』(明治31年度、北海道立文書館蔵)には、明治31年に上川支庁が施工した道路として、「美瑛『フラヌ』間仮道路延長三里工費二、四六四円四一八」が掲げられている。林顕三著『北海誌料』(冨山房、明治35年刊)第6編「交通」には、美瑛・「上フラノ」間が「五里」とある。
これらのことを考慮すると、30年か、31年かは俄に決し難いが、ともかくも、道庁による「ビエイより向ふ三里」の間の仮設道路開削の後、「上フラノ」までの「二里」、即ち金子農場(現草分)から北26号(現JR上富良野駅付近)の間を田中常次郎らが開削したということになろう。そうであれば、美瑛から金子農場付近までの道路が、上富良野管内で最初に開削された道路ということになろう。
こうして、旭川から上富良野までの道路が明治31年にできた。北26号から先については、明治33年2月2日付『北海道毎日新聞』の記事に、旭川から下富良野の筑後組合農場までの「旭川道路」が同31年11月に仮設道路として開削されたとある。また、『上富良野志』は「明治三十一年初めて村内を串通する仮設道路の開鑿あり」と記し、『上川開発史』(北海道上川支庁、昭和36年刊)は「旭川富良野間は明治三十一年に完成された」としている。これらのことから、同31年に、旭川・下富良野間の幹線道路が仮道ながら完成したことがわかる。同32年に下富良野・十勝国芽室間の道路が開削され、ここに上川と十勝が道路で結ばれることになった。
なお、開拓期の幹線道路には、移住民の通行の便をはかるため、駅逓が置かれるのが一般的であったが、旭川・下富良野間道路のうち、忠別太から下富良野の間に駅逓は設置されなかった。これは、富良野原野については、入植者の増加、道路の開削、鉄道の敷設がほぼ同時に発生したためと考えられている。ただし、下富良野については、滝川・芦別方面と、十勝方面との分岐点として交通上の必要から明治32年に駅逓が設置されている(『旭川中央郵便局100年史』)。
「十勝国道」
明治31年に開削された旭川・下富良野間の幹線道路は富良野盆地のどこを通ったのであろう。『上富良野志』は「本村交通道路中最も必要なるもの」として第1に「旧十勝国道」を挙げ、「東北より西南に向って斜に村の中央を貫通し北17号道路に至りて9線道路に合併する」と説明し、前述の「村内を串通する仮設道路」がこの「旧十勝国道」であることを示唆している。このことから、明治31年に開削された幹線道路は、富良野盆地内では現在の斜線道路から東9線に抜けるルートを通ったと考えられる。このルートは、同22年に北見経由に変更となった「幻の中央道路」のルートと一致している。
『上富良野志』はこの斜線道路から東9線に抜ける道路について、「村の中央を横断するが故に運搬往来の大部分は其便により南北より上富良野市街地に集合する最も枢要なる交通機関なり」とし、この道路が、上川と十勝を結ぶ殖民道路としてだけでなく、富良野原野に入植した人々の生活道路としても重要な役割を果たしていたことが分かる。
当時の新聞史料はこの道路を「十勝国道」と呼んでいる。当時北海道の国道は、東京・札幌間を結ぶ42号と東京・根室間の太平洋岸を通る43号の2本しかなく、「十勝国道」は俗称ということになるが、この路線が、札幌・根室間の「幻の中央道路」であったことを考えると、いかにも相応しい名といえよう。
「仮定県道」の指定
第4代北海道庁長官北垣国道の時から、開拓の効率化を図るため、鉄道を主、道路を従とし、また鉄道と港湾(海運)を結合しようとする方針が唱えられ始めた。
こうしたことを前提として、明治34年から43年に至る「北海道十年計画」が立案され実施された。これは、開拓に当たって経費を有効に使うこと、事業の地方移管によって国費抑制を図ることを主眼としていた(『新北海道史』第4巻通説3)。道路事業に関わる経費は国費である拓殖費支弁とされた。ただし、新親開設後5年は国費で修繕するが、それ以後は国道、県道は地方費支弁、その他は区町村費支弁とした。これを受けて、明治35年に北海道庁は、国費支弁道路開削工事は、これまでの支庁分任をやめて本庁直轄とし、全道を6区に分け、国費工事課派出所を設けて工事を施工させた(『殖民公報』第17号、明36・11)。
こうした中、明治34年7月18日の北海道庁告示第301号で、旭川・大津(十勝川下流域)間を結ぶ道路が準仮定県道に指定された。このとき、「空知太下富良野間」も同時に準仮定県道となった。
この旭川・大津間道路はどの路線を指すのかはっきりしない。しかしながら、明治36年作成の「上川支庁管内地形図」に、富良野盆地を貫く唯一の既成道路として、斜線道路を通る路線が太い実線で記されていること。同44年までの統計に基づく「村勢調査基楚」に掲げられている道路の最初に「上富良野市街地東九線ニ至ル旧県道」があり、この「上富良野市街地東九線ニ至ル」とは斜線道路のことであり、これを「旧県道」と呼んでいること。これらのことから、この旭川・大津間準仮定県道は、前述した斜線道路を通る「十勝国道」を指すものと考えられる。
その後、明治40年5月31日の北海道庁告示第275号によって、準仮定県道が変更されて、「興部より大津港に達する路線」仮定県道南北線となった。また、同時に空知太・下富良野間準仮定県道も「仮定県道下富良野浜益街道」に変更されている。
この仮定県道南北線の路線はそれまでの斜線道路を通った準仮定県道の路線とは異なったようで、『中富良野町史』に引用された、大正6年の中富良野村「自治一班」によると、東1線道路を通ったことが分かる。この告示が出て間もない明治42年刊行の『上富良野志』が東1線道路を「十勝国道」とし、斜線道路を「旧十勝国道」としているのは、こうしたことによるのであろう。この東1線道路は、大正8年(1919)測図の大日本帝国陸地測量部五万分之一図「下富良野」によると、殖民地区画とは異なり、中富良野市街の北の北14号で鉄道線路側(基線側)に折れ、そこから、鉄道路線に沿って南進していたことが分かる。『上富良野志』の付図「上富良野村全図」には、東1線道路は屈折せず真っすぐ南にのびている。おそらく仮定県道としての整備と関わるのであろうが、現在のところ屈折した時期は特定できない。
仮定県道の路線が準仮定県道の「斜線」から東1線に変更になった理由について、『上富良野町史』は「鳥沼付近のベベルイ川沿岸が一大湿地であったため」と説明している。これは、『北海道毎日新聞』明治36年3月29日付記事に、「美瑛川より空知郡富良野村十勝国境に至る」「十勝線の道路」について、中央道路に次ぐ要路であるが、「本道路延長の多くは湿地若くは山腹にして路面の崩壊下水埋没の為め交通殆んど遮断の模様あり」と書かれていることから、その通りであったと考えられる。このことから、この「斜線」を通る道路は、幹線道路としては重要であったが、鳥沼以南については、道路として少し問題があったのである。
一方、路線変更されて、仮定県道となった東1線道路についても、前掲の大日本帝国陸地測量部五万分之一図「下富良野」を見ると、「鹿討農場」から以南はほとんど「小径」を示す点線で記されており、やはり、富良野盆地南部では道路として不備があったようである。
このように、明治期に、富良野盆地の東西両側を走る2つの幹線道路ができたのであるが、ともに十全な道路であったとはいえず、そのため、旭川・富良野間の交通路として鉄道の果たす役割が、いやが上でも高まったといえよう。ただし、こと上富良野に関しては、幹線道路はその機能を十分果たしていたといえる。
道路網の発達
明治34年11月15日付、元富良野村戸長松下高道から現同戸長三浦忻部への事務引継ぎ文書に「地勢及運輸ノ便否」という項があり、そこに、
開村当時ハ未ダ鉄道ノ敷設ナク道路ノ開鑿ナク交通甚ダ困難ナリシモ当今ハ鉄道十勝国境迄開通シ道路モ不完全ナガラ村内ヲ縦貫シ郵便電信等ノ通信機関モ設ケラレ交通漸ク便利ヲ得ルニ至レリ
と記されている(明治34年「総代会書類」、役場蔵)。
明治34年当時、早くも「道路モ不完全ナガラ村内ヲ縦貫シ」といわしめるほど道路の発達は急であったようである。『上富良野志』はこのことについて、
明治三十三年八月に至りては中富良野に停車場の設置あり加ふるに爾後区画道路の開鑿相亜て着手せられしかば鉄道の開通と共に交通の一大発達を為すに至れり
と説明し、上富良野管内の最重要道路として順番に、1、旧十勝国道、2、十勝国道 旧東1線道路、3、基線道路、4、6線道路、5、北14号道路、6、北16号道路、7、北20号道路、8、北26号道路をあげ、東3、8、9線、西1線及び北17、18、23、24号をそれに次ぐものとしている。
明治44年ころまでに開削された上富良野管内の道路と橋について、「村勢調査基楚」は次のような名をあげている。
〔道路〕
旧県道(上富良野市街地・東九線間) |
東八線 |
基線(上富良野市街地・北一六号間) |
東九線 |
東九線(北七、八号中点・北一七号間) |
宮城団体(東一一線より経路) |
東六線(北一〇号・北二〇号間) |
橋野農場(私費) |
北一六号(基線・東九線間) |
西山より北二三号 |
北一四号(東一線・東九線間) |
渡部〔辺か〕牧場・硫黄山間 |
北一八号(西線〔ママ〕・東一一線間) |
北二六号より山中牧場ヲ経テ二七〇〇町歩ニ至ル |
北二六号 |
|
北二七号 |
西一線(県道・西川牧場間) |
北二八号 |
西二線(県道・区画外間) |
北二九号 |
西二線(分岐点・新井牧場間) |
基線(上富良野市街地・北二九号間) |
西二線(新井牧場分岐・作佐部牧場間) |
北二五号 |
西三線(北二九号・北二八号間) |
北二四号 |
東一線・北一〇号 |
北二二号 |
北一〇号分岐・下富良野村界 |
北二〇号 |
北一〇号西へ曲リ長岡牧場ニ至ル |
東一線 |
北一〇号・村木農場 |
東二線 |
北二五号分岐・村木農場 |
東三線 |
村木農場分岐・山形土佐団体 |
東四線 |
県道(上富良野市街地・豊里間〉 |
東五線 |
西二線区画外・美瑛界間 |
東六線 |
東六線踏切・東八線(私費) |
東七線 |
東一一線通り(私費) |
〔橋梁〕
橋名 |
渡 |
巾 |
橋別 |
第一レブンケウシ橋 |
九尺 |
一〇尺 |
板 |
第二レブンケウシ橋 |
四間 |
一〇尺 |
板 |
一四号フラノ川橋 |
一四間 |
一二尺 |
板 |
一四号ヌッカクシ橋 |
一二間 |
九尺 |
板 |
一四号デボツナイ橋 |
三間 |
九尺 |
板 |
一四号ベベルイ橋 |
一二間 |
一二尺 |
板 |
冷水橋 |
七間 |
九尺 |
板 |
一六号ヘヘルイ橋 |
三間 |
九尺 |
板 |
一六号ヌッカシ橋〔ク脱か〕 |
一〇間 |
九尺 |
板 |
一六号フラヌイ橋 |
九間 |
六尺 |
板 |
北一八号へヘルイ橋 |
一〇間 |
九尺 |
土 |
一八号デボツナイ橋 |
四間 |
九尺 |
板 |
一八号ヌッカクシ橋 |
一四間 |
九尺 |
板 |
一八号フラヌイ橋 |
一五間 |
九尺 |
板 |
二〇号ヌッ〔ク脱か〕カシ橋 |
七間 |
九尺 |
板 |
二〇号フラヌイ橋 |
一○間 |
九尺 |
土 |
二五号旧国道ヌッカクシフラヌイ橋 |
五間 |
一二尺 |
板 |
北二五号フラヌイ橋 |
八間 |
九尺 |
板 |
二六号ヌッカクシ橋 |
七間 |
九尺 |
板 |
二六号フラヌイ橋 |
六間 |
九尺 |
土 |
二七号フラヌイ橋 |
五間 |
九尺 |
土 |
二六号エホロカン別橋 |
一二間 |
九尺 |
板 |
二七号エホロカン別橋 |
四間 |
九尺 |
土 |
二八号エホロカン別橋 |
四間 |
九尺 |
土 |
第二エハナエホロカン別橋 |
六間 |
九尺 |
土 |
第一エハナエホロカン別橋 |
一三間 |
九尺 |
土 |
県道筋コルコニ橋 |
三間 |
一二尺 |
板 |
県道筋北二八号橋 |
五間 |
一二尺 |
板 |
上富良野市街〔ママ〕橋 |
二間 |
一二尺 |
板 |
二四号基線踏切橋 |
一間 |
一二尺 |
板 |
基線村上橋 |
五間 |
九尺 |
板 |
基線久和橋 |
八間 |
九尺 |
板 |
分部橋 |
六間 |
九尺 |
板 |
一色橋 |
一〇間 |
九尺 |
土 |
新井橋 |
一五間 |
九尺 |
土 |
ピリカ橋 |
三間 |
九尺 |
土 |
県道筋大畑橋 |
二間 |
一二尺 |
板 |
県道筋大畑橋 |
一間 |
一二尺 |
板 |
北二九号エホロカン別橋 |
四間 |
九尺 |
土 |
旧国道筋第一テホツナイ橋 |
一五尺 |
九尺 |
板 |
旧国道筋第二テホツナイ橋 |
一五尺 |
九尺 |
板 |
橋野橋 |
一○間 |
九尺 |
土 |
東九線一二号橋 |
五間 |
九尺 |
土 |
東九線八号橋 |
三間 |
九尺 |
土 |
基線水抜 |
水抜 |
五ヶ所 |
板 |
三〇号県道 |
九尺 |
一二尺 |
板 |
これらを見ると、上富良野の殖民区画道路の多くが、明治期にすでに開削されたことが分かる。
また、これらの殖民区画道路以外に、人々の生活と密接に関わったものに市街地道路がある。上富良野市街地は、明治32年7月に中・下富良野とともに、鉄道開通に合わせて区画撰定されている(『北海道毎日新聞』明33・3・13)。その市街地道路は同32年11月21日付けで工事請負の入札が公示され(同日付『北海道毎日新聞』)、同34年から35年にかけて開削された(『北海道毎日新聞』明34・10・19、『殖民公報』第17号、明36・11)。これは、同34年に始まる市街地の貸し下げに対応してのことであった(『上富良野町史』)。
開拓民と道路開削
入植当時、開拓民は道路の未整備が自分たちの生活に大きな影響を与えていることをよく知っていた。そこで、道庁によって道路の開削が始められると、人々はさまざまな形でそれと関わりをもった。
1つは、開拓民による工事の請け負いである。史料で確認できる最初の上富良野管内における請負入札の公示は、空知支庁の「フラヌ原野東六線道路開鑿工事」に対するものと思われる(『北海道毎日新聞』明31・6・10)。その後入札公示はたびたび出され、それに開拓民が応じていった。
その例をあげると、まず、明治31年に、三重団体の田中常次郎が金子農場から北26号までの開削を北海道庁から請け負っている(『旧村史原稿』)。これは、この年に起きた水害による開拓民の窮状を救うためのものであった。しかし、このときの監督官が利欲に走って、公平を欠き、その結果、請負金の支払いが滞ったようである(『北海道毎日新聞』明31・12・4)。
また、上富良野村の田丸正善、神代松次郎、中村千幹等も明治33年に旭川・下富良野間の「殖民道路」を請け負っているが、これは雑な工事であったため、まもなく廃道同様になったという(『北海道毎日新聞』明33・9・22)。こうした例は、『上富良野志』にも見え、「興信録」の「尾崎政吉」の項に、同31年にフラノ原野に入植し、その後請負業を営み、旧十勝国道、北16号、東6線、北19号及び20号道路、中富良野市街地道路、北18号道路等の請け負いを行なったと記されている。
開拓民による道路開削の出願も見られた。これについては、上富良野町所蔵の「総代会書類」の中の明治38年2月21日付「道路開鑿願出ニ付意見上申書」に見える。ここでは、移民が増え、成墾地積が増加し、農産物搬出量が拡大したことを理由に、基線から東9線にかけての北12号道路2736間(約五`b)の開削を、沿道住民87名が願い出ているのである。
『村勢調査基楚』は村民による道路橋梁修理保存について、次のように述べている。すなわち、本村は道路の延長はかなり進んだものの、その構造に問題があり、「春秋二期ハ各部落ハ貨物ノ集散ヲ杜絶シ時価ノ昇騰ニ当リテモ搬出スル機会ヲ逸スル為メ空シク下降時価ニ及ビ応需ノ愚ヲ演シ町村ノ不利固ヨリ論ヲ俟ザルナリ」という。それで、道庁も土木事業について、補助金などの活用を通じて地元の自治活動を誘発することを町村に奨励していることから、村内の里道を三等に分け、一等は町村費で、二等は「部落」の夫役と町村の補助で、三等は全面的に「部落」の夫役で行なうように計画すれば、道路の整備が進み、運送費の軽減が図られるばかりでなく、村民に副収入をもたらすことにもなると記している。『明治四十三年度村会議事録』(役場蔵)の6月20日の議事に、「道路橋梁修繕ヶ所調査委員ニ関スル件」が上程されているが、これも右記に関連した道路に対する村の取り組みの一環といえよう。
もう1つ、道路工事の請け負いが、窮民救済策の一環として計画されることもあった。これは、明治43年6月の「町村長戸長会議録 上川支庁」(役場蔵)に合綴されている、恐らく大正2年度のものと思われる「窮民救済ニ関スル協議事項」の中に見える。そこでは、「凶作ノ為メ糊口ニ困難ナル農民ヲシテ国費地方費ノ道路修繕用并ニ鉄道保線用ノ砂利採取ニ従事セシメ其労銀ニ依リテ差向キ糊口ノ資ヲ得セシメントスル」とその趣旨が述べられている。
その請け負いの方法としては、「町村内ニ於テ信用ヲ有シ且ツ公共心ニ富メル有志者一名又ハ数名」を契約当事者として行なうことが奨励されている。当時の請負事業、ましてや窮民救済を目的としたそれにおいては、右に見たような村としての取り組みもあったが、やはり個人の力量に頼らざるをえなかったといえよう。この結果、こうした請負事業を通じて村内有力者の台頭が促されたことが予想される。
以上、明治期の道路開削と村民との関わりを見たが、これらを総括すれば、道路の開削は日常生活や流通の上で重要視されていたが、一方、まだ産業が未発達な時期に手っ取りばやい副収入を得る機会としても村人から期待されていた。それで、村としてもその対策に積極的に取り組んだが、一方では、有力者の力量に頼らざるを得ないのが現状であったといえよう。