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3章 明治時代の上富良野 第5節 市街地の形成と諸産業

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3、明治期の工業

 

 製造業の創始者たち

 大正元年(明治45年)末現在の上川支庁調査による「産業別生産額調」(『上川開発史』では、上富良野(中富良野を含む)の生産額合計は85万3193円。その内訳を示すと農産が65万2645円、畜産が2027円、林産が19万7864円、そして工産は675円と全体に占める割合はわずか0.01lにも満たない。明治期における上富良野の製造業及び工業は、まだまだ黎明期にあったといえるだろう。

 そうしたなか、この地に製造業や工業が根付くきっかけとなった創始者たちを、先に取り上げた「営業別創始者」(『旧村史原稿』)から、商業の項と重複しないかたちで紹介すると次のようになる。

 

 製造販売業

  柾 明治三十二年、戸田松治氏現在小川飲食店の所に開業。

  農具 同三十四年五月、杉山九市氏現在の所に開始す。

 木材業

  明治三十四年、西川竹松、横山力弥両氏相ついで木材の手挽販売を、現在伊藤木工場の場所にて開始す。

 鍛冶業

  明治三十一年、牧野吉蔵氏東中に、松井市次郎氏三重団体に於て各蹄鉄場兼業にて開始す。

 精米業

  明治三十五年杉山力〔ママ〕三郎氏市街はづれにて開業す。

 

 また、ここでは取り上げられていない主な製造業の創始者としては、35年に東中で田畑浅吉が澱粉工場を開業(『上富良野町史』)、また、同じ年、和田兵九即が市街地で味噌醤油工場を始めたこと(『郷土を探る』9号、10号)などが記録には残されている。以下、明治期において製造業に携わった人々の足跡を主要業種ごとにたどってみよう。

 

木工場

 明治期の上富良野で林業は農業に次ぐ主要な産業だったが、第4節「明治期の農業と林業」で既に述べられているように、造材が本格化したのは新井牧場をはじめ牧場の貸し下げが開始された34年以降のことである。『旧村史原稿』で創始者とされる西川竹松、横山力弥の2人それぞれが木材の手挽販売を始めたのは、まさにこの時期に当たるわけである。

 創始者の1人である西川竹松は、第4節の牧場開設の項目でも紹介されているが、「神戸から北海道のドロ材を買いにきた」(『上富良野町史』)人物とされ、34年には木材手挽販売の開始と同時に造材目的と思われる西川牧場を開設している。さらに、40年には「斎藤彌三郎、西川竹松両氏の合資経営にかゝる上富良野木工場にては、昨三日午後一時盛大なる開業式を挙げ、来賓七十餘名ありたり」(『北海タイムス』明40・11・6)と、後述する上富良野木工場の経営にも参画している。なお、『上富良野志』には「君は三重県河藝郡玉垣村に生る。商業に従事せり。然るに明治三十一年を以て現在地に移住」とあり、三重団体関係者であった可能性も否定できない。

 もう1人の創始者である横山力弥については、『旧村史原稿』以外の記録は確認できないが、『上富良野志』には同じ34年から木材業を始めた人物として横山丈太郎の名前がある。「明治三十四年四月七日現市街地に来住。翌三十五年三月まで木村常一氏方に下宿し木挽業を継続す。翌三十五年三月〔ママ〕同市街地田中米八氏所有の家屋を買ひ取り、爾来一家を経営し木材業を為すに至る」というのである。事業開始時期のことなどを考えると、同一人物であったようにも思える。

 また、明治期に最も大きな規模で操業されていたのが、既に紹介した上富良野木工場である。『明治四十三年八月・上川支庁管内一班』によると、創業は40年11月、15馬力の蒸気機関を1台備え、挽材・賃挽を主要製品としていた。42年1カ年の生産5000石、1万2000円、職工数は男7名と記されている。

 一方、大正元年(明治45年)上川支庁調査の「工場調」(『上川開発史』)によると、挽材を主要製品とし1カ年の製造高は1000石、2万4500円、職工数は男2名、女6名と記され、生産数量に多少の違いがみられる。

 なお、先の新聞記事では「斎藤彌三郎、西川竹松両氏の合資経営にかゝる上富良野木工場」とあり、『上川支庁管内一班』でも上富良野木工場の名前が使われているが、「工場調」の方では工場名が「斉藤木工場」に変わっている。この段階で経営権は斎藤彌三郎に全て移っていた可能性が高い。経営者の斎藤彌三郎は「南富良野落合で造材業者として基礎を築き、旭川市で斉藤木材株式会社を起こして成功」(『富良野地方史』)したとされ、その後、上富良野以外にも43年に布部の上島、大正14年には下富良野などにも木工場を設立している。

 明治期に木材業に従事した人たちとしてはほかに、『上富良野志』では34年に三重団体の大畑仙松、35年に東中の松岡源之助、36年に市街地の山本一郎、また『上富良野町史』では37年頃、東中の尾岸喜右衛門、42年に同じ東中の松井才次郎などの名前が記録されているが、このなかで『東中郷土誌』(昭27)では松井才次郎について「明治四十二年精米業の傍、動力を利用して自家用製材を、想い、丸鋸を購入致し、手押しで挽き、後三年目には運台車も造り、家族と共に、賃挽を主として開業する」と記している。ここでの動力は水車と思われるが、精米との兼業、家族経営による賃挽きなど、当時の木工場の一般的状況を具体的に示す記述として興味深い。

 

鍛冶・蹄鉄

 開拓が進み農業の本格化、あるいは造材が盛んになるにつれ、次第に需要が高まっていったと考えられるものに鍛冶・蹄鉄といった職人たちの仕事がある。とくに上富良野において馬の使役は欠かせないものであり、先の「営業別創始者」にもあるように、開拓も間もないかなり早い段階で鍛冶・蹄鉄など職人の人たちが移住している。

 明治31年、東中で鍛冶業を開業した創始者の1人、牧野吉蔵は『東中郷土誌』には「当時の開拓の農具馬耕の蹄鉄に農家の唯一の工場として、存在してゐた」と記されており、35年には市街地へ移転、職人を雇い入れるなど、当時の上富良野では最も有力な鍛冶・蹄鉄工として活躍した。『上富良野志』では経歴などを次のように記している。

 

  君は長野県下伊那郡座光寺村に生る。鍛冶業を修めて同郡飯田町に居住せしが、明治三十一年十月二日〔ママ〕渡北、当村中富良野中島農場に入る。同農場移住者の第二番目なりと云ふ。以来鍛冶業に従事して三十五年まで住居す。次て同年十二月を以て当所(注・市街地)に転住し、爾来蹄鉄の業を兼ねんが為め該科目を研究し、桔据勉励の末、首尾よく三十六年九月蹄鉄工試験に及第し、今や数名の職工使役し、業務益々盛大となれり。

 

 ただ、職人の移住については、ほとんどが個人移住あるいは移転であり、その目的や形態については分からないところが多い。

 牧野吉蔵の場合、31年に中島農場に入ったとある。同じ『上富良野志』には中島農場の事務所設置は32年とあるので、移住時期には若干のずれが見られるが、出身地は農場主の中島覚一郎や管理人であった岩崎虎之助と同じ長野県下伊那郡であり、農場主が最初から鍛冶職人として郷里から招致したものと考えられる。もう1人の創始者である松井市次郎も三重団体の一員としての移住だったが、入植後間もなく鍛冶・蹄鉄の仕事を始めている。

 これらのことを考えると、農場が職人を募集すること、あるいは団体移住などに帯同するかたちで職人が移住する場合もあったということなのだろう。

 そのほか、『上富良野志』では蹄鉄及び鉄工場を営んでいた人たちに、牧野吉蔵以外にも「松岡、多胡、中西、宮本、吉野等あり」と記している。

 

馬車・馬橇

 鍛冶・蹄鉄同様、開拓の本格化とともに次第に需要が高まっていったと考えられるものに、農具や馬車・馬橇など運搬具があるが、農具の製造で『旧村史原稿』に創始者として名前の掲げられている杉山九市も、上富良野の製造業に多くの足跡を残した1人である。明治34年の創業というのが、本業である大工の開業を示すのか、馬車・馬橇の製造開始を示すのか分からないが、造材の本格化は34、5年頃からであり馬車・馬橇など運搬具の需要も急増したであろうから、この時期には製造に取り組み始めていたと考えていいのだろう。

 杉山九市については、長瀬勝雄「上富良野地方の馬車と馬橇」(『郷土をさぐる』5号)のなかに経歴などが触れられている。それによると、岐阜県の出身で「現在の錦町に居住、大工である本業の傍ら、開拓者の要請に応え、馬車・馬橇の製作に取り組むことになった」とある。さらに同じ『郷土をさぐる』の文章では「当時彼を慕って川田清作、坂弥勇、私の父長瀬要一が弟子入り」したことも記されており、このなかの坂弥勇と長瀬要一は、後にそれぞれ独立し軽車両製作所を開業することになる。その意味で杉山九市はまさに、上富良野に製造業を根付かせる先駆者となったのである。

 これに関連して述べると、杉山九市の本業が大工であったように、この時期、市街地の建設が進むなかで、彼以外にも多くの専門的技術をもった職人たちが移住あるいは移転してきたと考えられる。残念ながらこうした人たちに関する史料はほとんど残されていないが、『東中郷土誌』には大工業、指物大工業として31年頃、東8線北19号に開業した丸山造はじめ明治期では7名、また桶職人である千田要次郎などの記録があり、その一端を窺うことができる。

 

精米工場

 農産物加工関係では、この時期の代表的なものとして精米工場の開業がある。ただ、明治期の上富良野における稲作の作付けはまだ限られていた。工場のなかには精麦や稲黍づきなど雑穀を扱うところも多く、規模も「家族経営の賃づきを中心としたもの」(『上富良野町史』)がかなりの部分を占めていたものと思われるのである。

 『旧村史原稿』では明治35年に開業した杉山嘉三郎を創始者とするが、『上富良野町史』ではそれより早い33年に、東中で櫻坂源七が始めたことを記している。櫻坂源七は31年に東8線北15号で雨紛から赤毛種1斗を移入して約2反歩の試作を行い、反当たり1石2斗の収穫を上げたことで知られる富良野盆地の稲作創始者だが、もともとは中富良野の人間である。

 また、『上富良野町史』は櫻坂源七以外にも、東中で37年に河口弥三郎(弥三次郎)、44年に美濃喜太郎が精米工場を開業したことにも触れている。『東中郷土誌』を参照したものであろうが、そこでは河口弥三郎について「明治三十七年頃、ベヾルイ川の水を利用し、水車にて、十本の杵臼にて、開業」、美濃喜太郎については「明治四十四年、デボツナイ川の水を利用して水車により、八本の杵臼を用いて、又木の歯車(俗称キク)にて石臼を廻し併せて製粉業も行う」と紹介している。

 一方、『上富良野志』では41、2年頃の精米場について、次のように記している。

 

  精米業者としては金子庫三、田中米八、松井才次郎、杉山嘉三郎の四氏あり。何れも水力を応用し水車を廻転するものなり。金子氏の工場は上富良野島津農場内にて富良野川の水を引き、田中氏の工場は同上富良野市街地の南に在りヌッカクシ、フラヌイ川の水を応用す。松井、杉山の両者は中富良野なり。何れも相応なる経営を為せり。

 

 このなかで金子庫三については、42年に「今の光町一丁目のあたりに水車の精米工場」が設立されたことを、金子全一「大正時代の市街地」(『郷土をさぐる』4号)を参照して商業の項で既に触れたが、『郷土をさぐる』の文章では続けて次のように記されている。

 

  父の日記によると、「八月十三日初搗き裸麦一俵、八月十五日内地玄米一車入荷」となっている。水車の臼は十五くらいもあっただろうか。昼夜兼行で動いていた。

 

 初搗きは裸麦であり、臼が15というのだから、この段階ではまだ決して大きな規模の精米工場とは思えない。金子庫三の精米工場が後にマルイチ特選米として十勝、釧路方面に多くの上富良野米を送り出し、声価を集めるようになったというのは、大正5年「木炭ガスの動力によるものを今の山崎歯科の所に建設した」(同)以降ということになるのだろう。

 なお、上富良野村農会長などを務めた田中亀八の弟で、東中にあった田中農場の実質的運営者であった田中米八の精米工場については、具体的記録はほとんど残されていない。おそらく「四十年六月一日現住居(注・東2線北143番地)に移り、水車業を営めり」(『上富良野志』)というのが、その工場のことを示すのであろう。

 また、松井才次郎を『上富良野志』では中富良野としているが、実際の場所は東8線北16号(『東中郷土誌』)であった。このことからいうと現在では上富良野ということになる。杉山嘉三郎も同様に中富良野と記されている。『旧村史原稿』は「市街はずれ」(三重団体)に35年の開業としていることからいうと、この間に移転したものか、2カ所にあったということなのか、詳細は分からない。

 明治期のこれら以外の精米工場としては、『上富良野町史』が44年に江幌でカネキチ農場精米工場が開業したことに触れている。

 

澱粉工場

 農産物加工に関しては、開拓期から道内各地で製造されたものに、馬鈴薯を原料とする澱粉がある。しかし、上富良野においては明治期の澱粉工場に関する記録は意外に少ない。ひとつは創始者として既に紹介した田畑浅吉の工場だが、『上富良野町史』が古老からの聞き書きとして記しているもので、詳細については分からないところが多い。また、44年に江幌でカネキチ農場に精米と併設されたことが『上富良野町史』に記されているが、これについても詳細は不明である。唯一、具体的に操業の様子が分かるのは、37年に東中に開業されたとされる尾岸喜右衛門の工場だけといってよい。この工場について『東中郷土誌』では次のように記している。

 

  明治三十七年頃、富良野線には工場らしきものは無く、札幌の親戚の人来りて、澱粉製造の有利なるを奨められ、種子機械等を札幌より購入致して、種子薯に二ヶ年を要し、以来十五ヶ年耕作致し澱粉を製造する。

 

 ところで、明治期における商工業の動向を記述するために、ここまで主要な史料として参照してきた『上富良野志』だが、澱粉工場に関してだけはなぜかほとんど触れられていない。これはおそらく尾岸澱粉工場の例でも分かるように、上富良野で澱粉が製造されていなかったということではなく、少なくとも『上富良野志』が刊行された明治42年頃までは、澱粉に関する商品価値がそれほど高いものではなかったということが理由だと思われるのである。それを裏付ける史料の一つが道庁内務部の『馬鈴薯澱粉ニ関スル調査』(大6)である。ここでは明治期の道内における澱粉製造業の始まりを「当時は何れも自家用の目的を以て製造したるもの」と報告されているからである。

 これに対し大きな変化が現れたのは、明治も大正期に近くなってからである。日本の織物産業が急成長するなかで、モスリンの生産に馬鈴薯澱粉が最も適していることから澱粉市場が急激に拡大、商品価値も見直され、道内における澱粉工場の開業も急増をみせることになったのである(『北海道農業発達史』上巻)。

 明治期の上富良野(中富良野を含む)における馬鈴薯澱粉生産高をいくつかの統計史料にあたってみると、『明治四十三年八月・上川支庁管内一班』には製造家数を含め記載がなく、『上富良野村統計原稿表』では明治44年度の物産として生産高1万3200斤、価格673円20銭、大正元年(明治45年)上川支庁調べの「工産物」表では、製造戸数1戸、製造高1万3500斤、675円と、明治も終わりに近くなってはじめて記載を確認できる。この統計にある製造戸数1戸というのは、尾岸澱粉工場であった可能性が高いが、いずれにしろ上富良野における澱粉生産が本格化するのは、第一次世界大戦の勃発によって澱粉市場がさらに世界まで拡大され、需要が大きく広がった大正に入ってからと思われるのである。