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3章 明治時代の上富良野 第4節 明治期の農業と林業

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5、明治期の農業団体

 

 富良野村農会

 明治33年、富良野地域としては初めての農業団体である富良野村農会が発足している。これは道庁、上川支庁など官庁の強力な指導による設立であった。

 北海道では明治14年に勧農協会(26年に北海道農会と改称)が設立され、有志団体ながら行政の保護のもと農業技術指導など様々な活動を行ってきたが、32年に農会法、翌33年に農会令が発布され、全国的農会系統化の流れのなか、同会を発展的に解消するかたちで法定農会に改組されるに至っている。一方この時期、法定北海道農会の設立に先立って、全道に系統化が推し進められていた。まず、132の町村農会が設立を申請、続いてこの各町村農会を会員に上川郡農会など14の郡農会を設立、法定北海道農会はこれらを統括する組織として、14郡農会長の連名で設立認可申請が出されるという方法がとられたのである(『新北海道史』第4巻、昭48)。

 ただ、官庁の強力な指導による設立だったためか、農会をめぐっては組織的に未熟な側面もあったようである。『北海道毎日新聞』(明33・11・14)は「所謂農曾なるもの」と題して、次のような記事を掲げている。

 

  農會法発布以来始め〔ママ〕て系統なるを組織するを得、村には村農會、郡には郡農會を設くるに至りたるは既に世の知る所なるが、多くは是他動的、即ち強制的に農會を設けたるものに属す。去れど其既に組織されたる以上は他動と自動との区別を間ふの要なく、立派に其實効を奏するを緊要となすと雖ども、恨むらくは上川支庁管内に於ける農會は果して何等の實動をなしつヽあるか、寂として見るなく聞くなく唯其名を組織したるが如き観あるのみ

 

 富良野村農会の設立にはこうした背景があったわけだが、詳細については不明な点が多い。現在、確認できるのは当時の新聞記事のなかの断片的な事実だけである。

 まず役員については、上川郡農会総会の記事に「昨日午後二時より開会せしが東川朝倉延次郎、東旭川江藤三六、七條元治、富良野田丸正善(略)等の諸氏出席」(『北海タイムス』明35・11・19)、あるいは農事通信委員嘱託の記事のなかに「富良野村農会長田丸正善」(『北海タイムス』明36・8・20)とあることから、田丸正善が会長だったことが分かる。彼は中富良野の福井団体副団長で、一時、村総代を努めていた人物である。また、別の郡農会総会の記事では富良野村からの出席者として岩崎虎之助(『北海タイムス』明36・8・22)と岩崎虎作(『北海タイムス』明38・2・1)の名前を確認できる。岩崎虎之助は中島農場管理人であり、彼もまた農会役員の1人であったことは間違いないと思われるが、岩崎虎作については不明である。

 なお、ここで注目したいのは、下富良野村との分村以降にも、彼らが富良野村農会の代表として総会に出席している点だ。つまり、分村によって富良野村農会は直ちに解散したのではなく、後述する上富良野村農会の発足まで名目のみであっても暫定的に存続していた可能性が高いと考えられるのである。

 ほかに富良野村農会の活動として確認できるのは、明治35年3月、旭川で開催された郡農会主催の上川農産物品評会への出品である。富良野村からは50点の出品が記録されている(『北海タイムス』明35・4・1)。また、各町村農会への種子代補助に関する記事(『北海タイムス』明36・7・26)もある。

 

  石狩国上川郡及び空知郡富良野村方面の昨三十五年に於る農作一般の不況なりし為め、各村落の中には貧困にして種蒔をなす能はざるものあり。依て之れが救済の目的をもって補助金交付の儀を過般来上川郡農会より其筋へ向け申請し居りしが、今回同会全部に対し種子代補助として金三百四十円を交付せしに付き、同会にては各町村農会より予て提出し居れる調書に基き参考商議の上漸く左の通り分配する事となれり

 

 このとき上富良野の被害は軽微だったとみえ、富良野村農会へは均等割額として38円余りの補助金支払いが伝えられている。

 これらから当時の農会活動の一端はうかがうことができるのである。

 

 大農同盟会

 明治36年4月ということは下富良野分村の直前になるが、富良野地域には大農同盟という農業団体の設立が記録されている。次に掲げるのは、設立を伝える『北海タイムス』(明36・4・7)の記事である。

 

  富良野村神代村次郎、新井鬼司等の諸氏二十余名は同村各農場及び各牧場共通の利益若くは小作人保護奨励法等を講究し、且つ相互の親睦を図る為、去月十八日下富良野駅處所〔ママ〕に會し始めて大農同盟會を組織し、爾後一両回開會の上會長には神代村次郎氏、幹事には新井鬼司、岩崎虎之助両氏當選せしが、會員は何れも各農場主各牧場主並に管理人等にして、近來郡村農会の施設に關し兎角捗々敷運用せざるを慨嘆するの餘り組織したるものヽ由にて、将来大に斯道の為活動する都合なりと云ふ

 

 上富良野からは新井牧場主の新井鬼司、中島農場管理人の岩崎虎之助の参加していたこと、組織の性格も各農場・牧場を経営する地主団体であったことなどが分かるが、注目したいのは記事のなかの、「近来郡村農会の施設に關し兎角捗々敷運用せざるを慨嘆するの餘り組織したるもの〜由」という農会への批判部分である。

 村内の農場・牧場経営者たち地主と村農会との間に、何らかの対立があったことを窺わせる。また、既に述べたように農会役員の一人であったと思われる岩崎虎之助が参加していることも、事情の複雑さを示唆している。

 大農同盟設立を伝える記事に続き、『北海タイムス』(明36・4・8)は翌日も総会の決議について次のように報道している。

 

  富良野村有志者神代村次郎氏を始め其他各農場主各牧場主等の設立に係る大農同盟会にては、過般の本紙にも掲載せし如く、落合方面若くは富良野方面より木材商の鉄道輸送に比して河流しの運賃低廉なる為め続々之れをなすものあり、沿岸の農民非常に迷惑し居る折柄、今回同会総会に於て北海道庁令第三十六号河川取締法の主旨は、就中同村区域内を流過せる各河川堤防敷地、及び其の接続畑地、並に水田保護の上刻下最も緊要適切なるを以て、此際厳かに之れが実行を図るべしとの決議をなしたり。尚ほ同会は会員所有畑及び水田の小作料は、金納を廃止し農産物を以て之れに代ふるの方針を採る事との決議をもなしたりと云ふ

 

 大農同盟のその後の消長については全く不明である。だが、この決議にある小作料に関する取り決めなど、地主たちが利益保護のため各農場・牧場間で連絡を取ろうとしていたことは明らかであり、35年頃から大正年間にかけて上富良野にあったという地主会(『富良野地方史』)との関連でも注目される。

 

 上富良野村農会

 上富良野村農会が設立されたのは、下富良野村の分村から3年後の明治39年である。既に述べたように、分村以降も富良野村農会は名目上存続していたと思われるが、役場では分村の翌年である37年には新農会設立の準備を進めていた。これは38年2月の「事務引継書類」(『自明治三十四年・引継書類綴』役場蔵)のなかに、37年度の未了事件として「上富良野村農会設立ニ関スル件」という以下の記述があることから分かる。

 

  右ハ上富良野村農会設立ニ関シ会員募集方當場ニ於テ斡旋目下各組ニ就キ夫々示達名簿調整中ニアリ

 

 役場が上富良野村農会設立と会員募集を斡旋するため、村内の各組に指示して名簿を調製させているというのである。また、38年に農会を法人とする農会令の改正があり(『新北海道史』第4巻)、これに対応する準備も必要であったと考えられる。こうした作業を経て39年3月12日創立総会を開き、上富良野村農会は正式に発足することになったのである。以下は『上富良野志』に掲載されている「会則」の総則と事業を抜粋したものである。

 

   第一章 総則

 第一条 本会は上富良野農会と称す

 第二条 本会の区域は上富良野村一円とす

 第三条 本会事務は上富良野戸長役場内に置く

 第四条 本会に名誉委員を置き農事に功労あるもの又は学識経験あるものを総会に於て推薦す但し議決権を有せず

 第五条 本会に代表者及副代表者各一名を置く

 第六条 代表者及副代表者は総会に於て役員中より之れを選挙す名誉会員より選挙せ られたる役員は前項の代表者及副代表者たることを得す

     代表者は郡農会に於て本会を代表す

     副会長代表者事故ある時之れを代表す

     代表者及副代表者は名誉職とす

 第八条 代表者及副代表者の任期は事業年度に従ひ三ヶ年とす但補欠の為め選挙せられたる者の任期は前任者の職任期間とす

   第二章 事業

 第九条 本会の実行すべき事業概ね左の如し

  一、農事に関する講話及品評会種苗交換会等の開設

  二、簡易なる農事試験を行ふこと

  三、農事調査を為すこと

  四、蚕業の普及を計ること

  五、塩水選種、共同苗代の設置、通し苗代の廃止、稲の正条植、緑肥の栽培、及び桑園の特設を普及すること

  六、農事に関する共同事業を奨励すること

  七、病害虫の予防に関すること

  八、霜害の予防に関すること

  九、牛馬耕の普及を計ること

  十、種苗、種畜、肥料、農具等の購入分配に関すること

  十一、農家の副業に関すること

  十二、農家の風紀及勤倹貯蓄に関すること

  十三、其他農事改良上必要なる事項

   (以下略)

 

 『上富良野志』によると設立にあたってはまず、「会則」議決のため仮役員を選出し、創立総会で正式に役員を決定した。初代役員は以下の通りである。

 

  農会長 安井新兵衛  副会長 川仁高太郎

  評議員 田中亀八 増田嘉太郎 中野常蔵 多津美仲蔵

      向家常次郎 湯浅勇作 志賀久兵衛

 

 また、「会則」による3年の任期を経て42年に役員改選が行われているが、選任されたのは次の人々である。

 

  農会長 田中亀八  副会長 多津美仲蔵

  評議員 増田嘉太郎 多津美仲蔵 向家常次郎 志賀久兵衛

      湯浅勇作 安井新右衛門 田中亀八

 

 なお、『旧村史原稿』とこれを参照したと思われる『上富良野町史』には、43年4月に吉田貞次郎が農会長に就任したとの記述がある。しかし、実際の就任は次の改選期である45年4月で、以来昭和に入って農業会が設立されるまで、農会長を務めたのである。

 

 農会の活動

 農会は「会則」の事業内容からも分かるように、農事指導機関であると同時に、設立の経緯から農政に関する行政の補助機関的性格を強く持っていた。そのため事業費も役場に依存しており、村予算には村農会補助費として41年度200円、42年度300円が計上されている(『上富良野志』)。また、明治43年には農会法と農会令がそれぞれ改正され、帝国農会を頂点とする系統化が完成するとともに、農民の農会への全員加入が原則となった(『新北海道史』第4巻)。これにより農会は農政に関する伝達・指導機関としての性格がより一層、強化されることになるのである。

こうしたなか42年11月には、上富良野村農会主催による初めての農産品評会が開催されている。

 

 空知郡上富良野村農産品評会は一日より三日迄開会し、同賞品授与式は二日午前十一時三十分富良野尋常高等小学校内に於て挙行せり。先づ田中会頭の式辞に次いで来海事務委員長の事務概況報告及高野審査委員長の審査報告あり賞品授与を行ひ、進藤支庁長代理、来海村長、高橋道庁技手、富良野小学校長等の祝辞演説あり。次に中郡農会技術員の祝辞、出品人総代の答辞ありて、午後一時三十分式を終へ、夫より会長の案内にて来賓一同会場を巡視し別席に於て茶菓折詰の饗応あり。午後四時散会せるが、来会者四百余名にて盛況なりし。尚ほ出品総点数は二百七十五点、内重なるは米三十点、小麦二十二点、裸麦二十一点、燕麦二十八点、小豆二十点、玉蜀黍三十四点、菜豆四十九点等にて、受賞せるは優等(米)一点、一等三点、二等十二点、三等二十点、褒賞五十六点にて計九十二点なり。(『小樽新聞』明42・11・5)

 

 農産品評会は村を挙げての一大行事だったことがうかがえるが、ほかに農会の主要活動としては郡農会主催の農事講習会が各町村を巡回するかたちで行われていた。これについては「上川外三郡農会主催の(略)上富良野農事講習会は二日より一週間開会する由にて本日盛大なる開会式を挙行せり」(『小樽新聞』明45・2・4)とあるように、45年の開催などが記録に残されている。

 

 燕麦共同販売会

 明治33年産業組合法が発布されたが、開拓期にあった当時の北海道の場合、農民たちの経済的基盤や団結力も弱く、農業同体としては産業組合や購買販売組合より道庁などの指導のもと農会が先行し、農会活動のなかには産業組合に類似した事業も含まれていた(『新北海道史』第4巻)。そのひとつが上富良野にも設立された燕麦共同販売会であった。当時、上川管内における燕麦共同販売会設立をめぐる動きについて、『北海タイムス』(明36・7・15)は次のように伝えている。

 

  上川支庁管内に於る燕麦の昨年度生産額は約三万五千石程ありて、其の産出随分少なからざる上に、本年は彼の第七師団の需要に供給せんとする目的にて、昨年よりも四五割方の増産に見るべく、就中鷹栖村の如きは彼此六七割方の上り高に及ぶとの由なれば、其の産額を以てしても優に師団の需要を充たすに足るべき有様なり。然るに従来師団の之れが買入をなすには、多くは彼の御用商人の手を経るを以て常とするが故に、御用商人の移大なる利益を占めて之を師団に納め居れるに拘らず、彼等生産者は殆ど吾子に名を付けらるヽが如き安相場を以て売払はざるべからずの境遇なるに依り、今回各村の生産者並に重立ちたる向は何とか救済の途を講ぜんとて、一両日前右三十余名は旭川に会し協議する所ありしが、折柄道庁よりも技師一名出張し種々協議を重ねたる末、成るべく各村に販売組合を設け、上川郡農会所在地には聯合組合を設け、此処にて各村の販売組合より送付したる品物を一緒に取纏め、更に該聯合組合より直接師団に買上を願ふ事となせば、生産者も従来の如く安価にて殆ど投売するが如き憂なく、且つ師団に於ても亦た従来の如く高価なる品物を購入するに及ばず、双方両為めなりとの事に決し、尚ほ道庁は直接師団に交渉を遂げ便宜を取計ふ方針なるを以て早晩事実となりて現はるべし。因に記す同組合の事業は単に燕麦のみに止めず、牧草も同様取扱ふ見込みなりと云ふ

 

 御用商人の暴利に対抗するため各町村に販売組合、さらに都農会所在地には連合組合を設立し、燕麦生産者が旭川の第七師団へ直接、販売しようというのである。背景にはこの時期、陸軍省が軍馬飼料を大麦から燕麦に代え、安定供給を得るために北海道の生産者から直接、購入しようという意向をもっていたこともあったのだが、こうした動きは道庁や農会の指導のもと、37年の北海道燕麦共同販売会の設立につながっていったのである。ただ、この北海道燕麦共同販売会は「一石について五〜六銭の割高で積極的に集荷」(『上川開発史』)した御用商人たちとの軋轢(あつれき)や、需要そのものの減少のため、40年には一度、解消される。だが、41年に陸軍糧秣本廠札幌派出所が置かれ、全国各師団向けに購入の安定が図られた結果、44年には再び北海道燕麦生産代表者聯合会が設立されるのである(『新北海道史』第4巻)。

 37年の北海道燕麦共同販売会発足時は、分村のため農会活動が停滞していた時期と重なっている。そのため上富良野における燕麦共同販売会の設立は大きくずれ込んだと考えられる。『旧村史原稿』では燕麦共同販売会について、次のように記している。

 

  此の頃燕麦共同販売会組織せられ農会の付属事業として陸軍糧秣廠に軍用燕麦の納入を図り、農家の共同事業として経済進展に一指を染むることヽなりその業績逐年発達し今日本村が麦類を基幹とする農業経営方式の決定を促す基礎を作れり。蓋し農会長田中亀八氏軍用燕麦共同販売会理事吉田貞夫〔ママ〕氏等活躍に負う所多し。

 

 既に触れたように、陸軍糧秣本廠札幌派出所の設置は41年であり、田中亀八の農会長就任は明治42年である。『上富良野町史』の年表は燕麦共同販売会の組織を39年とするが、これらのことを考えると上富良野におけるの事実上の組織化ないし本格的活動は、44年の北海道燕麦生産代表者聯合会設立に近い時期までずれ込んだと思われるのである。

 

 上川牛馬産組合

 技術・経営指導、融資、購買、販売事業の系統化を目的とする産牛馬組合法が明治33年に公布されたが、上川地方において上川産牛馬組合が設立されたのは、40年になってからであった。

 設立後間もなく旭川の旭橋附近の石狩川堤防地で牛馬せり場を開くなど、牛馬の売却斡旋を主な事業としていたが、初代組合長が上川支庁長の渡辺佳介だったことからも分かるように、この組合は道庁主導によって設立された団体でもあった。多くの畜産家が組合に組織化されるのは、加入が義務づけられた大正4年の畜産組合法施行以降のことになるが、明治期において上富良野からの加入が確認できるのは、上川産牛馬組合総会記事(『小樽新聞』明44・4・3)のなかに、主なる出席者として名前が記載されている新井牧場主の新井鬼司だけで、加入者は一部に限られていたと考えられる。