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3章 明治時代の上富良野 第4節 明治期の農業と林業

230-235p

3、牧場の開設と畜産

 

 牧場の貸し下げ

 開放により続々と移住者たちが入植し、また農場が開設された富良野殖民地だが、34年頃になると殖民区画内の山岳寄りの地域や官林解除となった山林地域などが牧畜地として大地積が貸し下げられ、牧場が次々と開設されていった。上富良野に開設された数を『富良野地方史』では大正期以降のものを含め30とするが、そのなかから明治期の牧場をこの『富良野地方史』や『上富良野町史』『上富良野志』などを参考に、開設年代順に整理すると以下の通りになる。

 

 明治34年 新井牧場(日新) 西川牧場(日の出)

   35年 本間牧場(東中) 第二本間牧場(富原)

   36年 渡辺牧場(日の出)

   37年 岡部牧場(日の出) 堀川牧場(草分) 山田牧場(旭野) 境牧場(旭野)

   38年 十人牧場(旭野)

   39年 カクヒラ牧場(富原)

   40年 時岡第一畜産牧場(東中)

   41年 第一安井牧場(富原) 西谷牧場(東中)

   42年 第二マルハチ牧場(里仁)

   43年 宮北牧場(日の出) 脇坂牧場(日の出) 神田牧場(日の出) 第一作佐部牧場(日新) 第二作佐部牧場(清富)

   44年 第二安井牧場(旭野)

   45年 霜取牧場(江花)

 

 なお、このなかで本間牧場は東中を一部に含んでいたということであり、実質的には下富良野の牧場であった。同様に時岡第一畜産牧場も中富良野の牧場である。また、上記以外にも『上富良野志』には國布田牧場、吉原牧場、岡本牧場、杉谷牧場、富井牧場、本間(鐵五郎)牧場、久米牧場、長岡牧場の記載があり、このうち國布田、吉原、富井の各牧場については「北海道国有未開地大地積貸付現在表」(『新撰北海道史』第6巻)にも貸し下げの事実が記録されている。だが、長岡牧場が中富良野の牧場であったこと以外、詳細については不明である。

 

 牧場の変遷

 上富良野に次々と開設された牧場だが、牧場地の大地積貸し下げは当初から牧畜を営む目的で貸し下げを受ける場合はまれで、多くは資産家による土地への投機、あるいは造材が目的だったといわれている。そのため材木を切り出した後は放置された状態の牧場も多く、返地処分や転売によって牧場主が代わる場合も少なくなかった。

 明治期における主な牧場の変遷を『富良野地方史』や『上富良野町史』をもとにたどると、36年開設の渡辺牧場は翌37年には岡部牧場と境(酒井)牧場に分化、さらにこの岡部牧場の一部に脇坂牧場と宮北牧場が43年頃開設され、37年開設の山田牧場も翌38年には十人牧場に所有が代わっている。なお、『郷土をさぐる』(第3号)では十人牧場について「明治四十一、二年頃、父が十人の仲間と共同で牧場を経営し付与検査をうけた」(伊藤勝次「七十年の歩み」)とある。また、38年開設のカクヒラ牧場は41年に第一安井牧場へと所有が代わっている。

 ただし、『上富良野町史』などに記されている牧場の変遷には、いくつかの疑問も残っている。例えば渡辺牧場は、「北海道国有末開地大地積貸付現在表」によると、36年に千葉県印幡郡本郷村の渡辺彦七に対しベベルイ川上流、牧場53万8400坪の貸し下げの記録があり、『上富良野志』にも同じ面積で記載がある。

 また、44年の「上川民有牧場」と題する『小樽新聞』の記事(明44・2・26)、あるいは翌年の同紙記事(明45・3・23)にも渡辺牧場の名は記載されており、『村勢調査基楚』にも渡辺幸平牧場という名の記載がある。ところが『上富良野町史』はこの渡辺牧場を引き継いだ岡部牧場について、札幌の岡部熊次郎が「渡辺牧場がほとんど牧場らしい施設もせずにすてたところを明治三十七年(か八年)に貸下げをうけて」開設したとするのである。

 大地積貸し下げを定めた明治30年公布の北海道国有未開地処分法は、41年に改正されるまで、耕作地や牧畜地については無償貸し付けと成功後の無償付与を原則としていた。そのため運用にあたっては、付与される前の貸し下げ地を担保とすることはもとより、転売や譲渡することを一部の例外を除き禁止していた(『新撰北海道史』第4巻)。とするなら、岡部牧場は返地処分された土地を改めて貸し下げられたことになるが、なぜか『小樽新聞』の記事や『上富良野志』『村勢調査基楚』など明治後期における公の記録のなかに、岡部牧場の名は記録されていないのである。

 山田牧場と十人牧場との関係にも同様のことがいえる。

 聞き取り調査などをもとにしたと思われる、岡部牧場に関する『上富良野町史』の記述は具体的で、30年代にこの牧場が開設されたことはほぼ間違いない事実と考えられる。つまり、ここから推定できるのは、当時、法の建前はさておき、貸し下げ地の転売や譲渡、あるいは名義貸しなどが、半ば公然と行われていたということである。これを前提とすると、述べてきた疑問も解けるのではあるまいか。おそらく渡辺牧場の例は氷山の一角であろう。

 

 『村勢調査基楚』の報告

 こうした当時の大地積貸し下げをめぐる問題や不正については、北海道史に関する多くの文献が指摘してきたことであり、それが41年の北海道国有未開地処分法改正にもつながっていったのだが、それを裏付ける史料がある。『村勢調査基楚』では、45年(大正元年)当時における上富良野の牧場を主とした大地積貸し下げ地の実態と問題について、きわめて率直に報告している。多少、分かりにくいところもあるが、貴重な史料である。以下にその主要部分を原文のまま引用する。

 

 本村三十有余ノ農牧場ノ経営方針ヲ現実的ニ観察スルニ、本道拓殖経営の速成ヲ期スル為メ、大体区畫以外ノ山野ヲ或ル規定ノ元ニ貸下、又ハ売払ノ方針ニ乗シ、機ニ投シ、有力者ノ名義ヲ籍リ、或ハ資産家ノ財産証明ヲ借り、規定ノ不備ヲ利シ、手段ノ有ル限リヲ盡シ、輸出木材ノ盛期ニ当り、蒼鬱タル山野ニ斧斤ノ音ヲ聴カザルナシ。之等ノ多クハ□□牧場ノ名義ニ、陽ニ拓殖経営ヲ畫シ、陰ニ材木ヲ盗伐シ、巨大ノ利ヲ占メ、土地ハ二束三文ニ譲渡スニ至ル。其譲受人ハ固ヨリ潤沢ナル資本ノアルニアラズ。成功検査ニ間合フ程度ニ経営□□シ、牧場経営ニハ多クハ牛馬ノ頭数ガ成功検査ニ必要ノ為メ成ハ、付近農家ヨリ検査中牛馬匹ノ借入シ、一時自己ノ名義トナシ場内ニ牽入シ、或ハ虚偽ノ届出ヲ為シ実物ナキ牛馬ヲ牛馬籍上ニ現シ、瞞着手段ヲ取ルモノ少カ(ラ)ズ。故ニ付與后ノ経営ハ、寂ニシテ人影否牛馬ノ足蹟ヲ認メズ。(中略)故ニ空シク荒廃ニ帰スルモノ頻々クリ。或ハ牧場経営ヲ変シテ農地トナシ、微々経営ヲ為スモノアルモ、甚シキハ毎ニ納税ノ義務ヲ欠キ、公載押収ノ醜態ヲ演ジ□町村ノ手続ヲ要スル又尠少ナラザルナリ。小農場経営ニアリテハ起業方法ノ完備セル為メ、経営者ノ覚悟ニ於テ、資金ノ準備ニ於テ、先ノ土地喰主義ニテハ到底事業ヲ施設スルヲ得ズ。又地勢ニ於テ純農場ヨリ山岳比較的不利益ナルヲ以テ、其ノ方法ニ依ルモノナク。故ニ小農ハ今日大ニ見ルベキモノモ少シトセズ。以上ノ概状ヲ以テスルモ、無資力者ノ大地積ヲ有スルハ甚ダ拓殖上発展ヲ妨害シ、本村ノ如キ七千有余町ノ山野ヲシテ未墾ノ地ニ帰スルノ状体ナリ。

 

 この報告からは当時、牧場の貸し下げや成功検査において、いかに多くの不正が行われていたかがよく分かる。また、樹木を切り出した後の土地を入手したものの、牧場経営の資金的裏付けや確とした経営方針もなかったため、開墾が停滞している様子も率直に述べられている。結局、こうした貸し下げ地の多くは大正期の豆景気の時期を経ることによって、ようやく本格的な農地化への取り組みが始まるのである。

 

 上富良野の馬産

牧場の経営基盤がこのように脆弱で、農家も原野の開墾に追われていたなかにあって、明治期における上富良野の畜産は、やがて有力な馬産地として成長していくためのまだ助走段階にあった。まず、牧場に関しては『小樽新聞』(明45・3・23)が、明治44年における中富良野を含む各牧場の牛及び馬の放牧数を次のように伝えている。

 

名称

名称

長岡牧場

50

1

西川牧場

1

宮北牧場

22

西谷牧場

10

第一安井牧場

1

3

第三安井牧場

8

新井牧場

21

12

渡連牧場

10

作佐部牧場

20

時岡牧場

2

霜取牧場

 

 

 

 

 一方、上富良野(中富良野を含む)全体では上川支庁調査による43年末現在の「町村別家畜頭数調」(『上川開発史』)がある。

 これによると飼育されていた馬の頭数は941頭、そのうち内国産馬が657頭を占めていた。また、雑種は280頭と増える傾向にあったが、外国種はわずか4頭に過ぎない。これらのことからも多くはまだ造材などの運搬や農耕など使役目的が中心であり、牧場や農家における繁殖・育成目的の飼育はごく一部に限られていたと考えられる。

 ところで、運搬や農耕など開拓期には欠くことのできなかったこうした馬の移入に際し、当時、大きな役割をはたしていたのが牛馬商であった。「生後一ヶ年半ほど育成した馬を明二才といい、これを調教して翌年明三才から農耕に使用した。牛馬商は、この需要に応えるため産地から馬を買い集め、農家に売り捌いていた」(加藤清「上富良野開拓と馬の普及」『郷土をさぐる』2号)のである。「明治三十三、四年頃松原勝蔵、伊藤喜一〔ママ〕等により盛んに日高十勝地方より移入して、之を一般に頒布交流育成の途を開けり」(『旧村史原稿』)とあるように、明治期に活躍した上富良野の牛馬商としては、松原勝蔵、伊藤喜一郎といった人たちが知られている。

 

 酪農の始まりと家畜

 乳牛の導入など明治期の酪農は、詳細について不明なところが多い。牧場で放牧される牛の頭数については前項で紹介した『小樽新聞』の記事のなかに、新井牧場21頭などの記録があるが、上富良野(中富良野を含む)全体では上川支庁調査による明治43年末現在の「町村別家畜頭数調」(『上川開発史』)に、内国種が1頭、雑種が23頭、外国種が1頭の合計25頭の牛の飼育が記録されている。

 しかし、これを乳用牛に限ると、45年の『小樽新聞』(2・23)では頭数が2頭、牛乳の生産を4石、価格160円と伝え、45年(大正元年)の上川支庁調査による「牛乳生産調」(『上川開発史』)では、搾乳戸数2戸、乳牛2頭、搾乳量6石、価格240円と記録している。一方、『旧村史原稿』は

 

 明治の末期北海道庁に於て北米のエーアシア種〔ママ〕の飼育を奨励する案あり。本村は明治四十年道庁の斡旋により之を移入し一時相当の飼育を見るに至りたるも、日露戦後の経済反動に依り収支償はず自然減退の状態を呈するに至れり。

 

と記すのである。また、当時の乳用種はエアシャ、ホルスタイン、ジャージーなどだったが、この時期、純粋な品種は少なく、短角やヘレフォードなど肉用種との交配による一代雑種が主流を占めていたといわれる(『新北海道史』第4巻)。先に触れた「町村別家畜頭数調」では雑種を113頭とするが、こうした理由からも乳牛の割合を判断することは難しいのである。

 飼育者についても史料は限られている。『郷土をさぐる』(第5号)の加藤清「市乳の始まり」では、元町長の海江田武信からの話をもとに「第二本間牧場は今の富原のホップ園の処に、事務所、畜舎等があり、乳牛も十余頭飼育していました。(中略)推測しますと明治四十年か四十一年頃の事ではないでしょうか」と記している。第二本間牧場については、『郷土をさぐる』(第3号)にも乳牛飼育に触れた文章(伊藤勝次「七十年の歩み」)があり、上富良野では最も早く酪農に取り組んだ牧場のひとつであったことは間違いない。ただ、雪印乳業上富良野集乳所の沿革をもとにした『上富良野町史』は、第二本間牧場の乳牛導入時期を大正7年とする。

 馬と牛以外の家畜については、豚、鶏、羊など、当時はいずれも自家用ないし副業目的の飼育だったと考えられる。明治43年末現在の上川支庁調査による統計(『上川開発史』)では、豚が187頭、また鶏は飼育戸数130戸、成鶏400羽、雛1000羽、産卵数3万個の記録が残されているが、羊についての詳細は不明である。

 なお、『村勢調査基楚』のなかに「空知郡上富良野村統計表原稿」があり、ここには上川支庁調べとは異なった家畜に関する統計が残されている。そこで、参考までに馬(表3−11)、牛(表3−12)、豚(表3113)、家禽(表3−14)と4つ統計を紹介しておく。

 

 表3−11 馬匹数(単位頭)

内国種

雑種

外国種

明治42年

554

96

2

652

明治43年

523

170

3

696

明治44年

536

319

10

865

 

 表3−12 牛頭数(単位頭)

内国種

雑種

外国種

明治42年

0

69

1

70

明治43年

0

124

1

125

明治44年

5

38

2

45

 

 表3−13 豚頭数(単位頭)

内国種

雑種

外国種

明治42年

0

200

0

200

明治43年

0

299

0

299

明治44年

0

295

0

295

 

 表3−14家禽数

飼育戸数

養鶏

産卵

成禽

価格計

個数

価格

明治42年

100

300羽

900羽

360円

27000個

540円

明治43年

130

400

1000

260

30000

600

明治44年

240

1500

1500

1144

5625

112.5

明治45年

268

1670

167

1482.6

10688

269.4

   出典 『上富良野村統計表原稿』