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3章 明治時代の上富良野 第3節 明治期の村政

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3 二級町村制の施行

 

 北海道二級町村制

 明治11年に府県会規則、21年に市制及び町村制、22年には大日本帝国憲法の発布と同時に衆議院議員選挙法が公布され、制限付きではあるが日本の政治は国民の参政権、地方の自治権が形成・整備されていく方向にあった。しかしながら、上記の規則・法はいずれも北海道と沖縄は適用外とされており、北海道は参政権と自治権において不公平と差別下の現況にあった。このために明治24年頃から北海道でも、衆議院議員の選出・選挙、道議会の開設を求める運動が盛んとなっていた。

 その結果、政府でも北海道における参政権と自治権の必要を認め30年5月に、北海道区制(札幌・函館・小樽区に32年10月に改正の上施行)、北海道一級町村制(33年7月に改正の上施行)、北海道二級町村制(35年4月に改正の上施行)の3制度が公布されてまず町村自治の道が開かれた。これらは民度が低く、財政的に独立できない北海道の区町村に対しての便法とされ、道庁による「官治」の性格の強いものであり、制限的な自治権付与の制度であった。続いて33年3月に衆議院議員選挙法の改正により議員の選出(3区は35年、郡部は37年の総選挙から実施)、34年4月に北海道会法の施行(8月10日に第1回道会議員選挙)により北海道の参政権と自治権が確立をみたのである。

 こうした中で39年2月2日に上富良野村ほか72村が北海道二級町村制の施行地に指定され、4月1日に施行となった。二級町村制とは町村長は道庁長官が任免し、収入役は町村会の推薦で支庁長が任免(任期4年)で、助役は認められていなかった(村長の給与は道庁の地方費負担、収入役は村役場の村費負担)。また町村会の議員は4〜12人の定員で設置でき、任期は2年となっていた。選挙権は1年以上居住し、地租は10銭以上、国税は50銭以上の納入者、耕地は1町歩以上、宅地は100坪以上の所有者となっていた。

 二級町村制の実施により上富良野村は間接的ながらも地域自治を実現できるようになり、村としての体裁を整えていくことになったのである。

 

 村長

 二級町村制の施行となった明治39年4月1日に、初代の村長として草浦耕蔵が赴任してきた。草浦村長は42年3月8日に退職し、後任には菅原直次郎が4月1日に任命された〔『北海タイムス』明42・4・3〕。菅原村長は上名寄村書記からの昇任であったが、わずか5カ月後の9月14日に、「故アリテ免職」と退任している。新聞報道によると上名寄村書記在任の時に、村長と共に公金を費消した嫌疑により警察に拘引されており(『小樽新聞』、明42・9・16)、この件で免職になったものとみられる。

 後任として9月30日に来海実が任命となった。来海実は安政6年(1859)の熊本市生まれ。熊本で小学校教員を務めた後、上京して新聞記者となったが、明治32年に札幌の北門新聞社の記者となり来道した。33年に旭川支社勤務となるが、この年に私立旭川中学校の校長となる。その後、官界に転じ鷹栖村、美瑛村の村長を歴任して上富良野村村長に赴任したものであった(『上富良野志』明42)。

 来海村長は44年1月31日をもって退任し、同日に塙浩気が村長に任命となった。後任の塙村長は大正8年3月31日に退任するまでの8年2カ月にわたり、二級町村制下の上富良野村の村政に尽力することになる。

 

 写真 初代村長の草浦耕蔵

  ※ 掲載省略

 

 収入役

 二級町村制と共に村役場には公金を管理、取扱する収入役も置かれるようになった。収入役は村議会の選挙・推薦により選ばれ、道庁から発令されることになっていた。初の収入役とされたのは福屋新であり、39年7月に選ばれた(『明治39−41年親展書類』役場蔵)。

 福屋新は山口県玖珂郡横山村の出身であり、26年に屯田兵として当麻兵村に移住していた。34年から36年まで当麻村役場書記を務め、37年1月に上富良野市街地に転住して来ており(『上富良野志』)、かつての役場書記という経歴をかわれての収入役就任であったろう。

 福屋新はこれ以降、15年にわたる長期間、収入役を務めあげ、大正8年6月13日に一級町村制の施行を機にして辞職をした。

 

 写真 初代収入役の福屋新

  ※ 掲載省略

 

 役場庁舎

 二級町村制にともない従来の戸長役場庁舎が、上富良野村役場庁舎として道庁から村へ移管、引き継がれることとなった。村では明治39年7月30日に庁舎及び敷地の無代価付与を上川支庁へ申請したが、その内訳は以下のようになっている(「総代会書類」)。

 

 一、戸長役場建物  一棟木造柾葦  建坪三三坪

 一、外厠       一棟  五合

 一、掲示場      木造柾葺     壱ヶ所

 一、井戸屋形     壱ヶ所

 一、門        木造  壱ヶ所

 一、垣矢来      木造  九十間

   右同所

 一、戸長役場敷地  壱千七百四十二坪

 

 この申請は8月3日に許可となったが、役場庁舎の維持管理も村の責任となり、それだけの財政負担となっていくのである。敷地の内10戸分は4年4月に貸下げに出され、基本財産の造成に一役かうことになる。

 

 村の財政

 上富良野村の36年から43年までの町村費、町村税の推移をみると以下のようになる(『上川支庁管内統計一班』明39、『上川支庁統計』明43)。

 

年度

町村費

町村税

36年

4,591円

3,226円

37

2,498

2,009

38

5,001

3,419

39

不明

5,737

40

10,342

8,677

41

11,723

11,236

42

13,820

12,112

43

13,266

11,835

 

 町村費は40年から急速に上昇しているし、それと並行して町村税も増加している。これは39年に二級町村制を施行したことと関係をもつ。二級町村制が財政に及ぼす影響は、役場費が町村の負担となったことである。町村長、書記など給与、旅費は道庁の地方費で支弁されたが、役場庁舎、収入役及び下級吏員の給与は町村費でもつこととなり、それだけ財政負担が増大することになった。

 例えば、明治41年から43年度までの村予算は以下のようになっていた(『上富良野志』『上川支庁要覧』)。

 

費目

41年

42年

43年

歳入

村税

11,256円

12,110円

11,835円

その他

2,590

1,703

1,431

合計

13,846

13,813

13,266

歳出(経常費)

役場費

2,320

2,918

2,719

土木

200

200

400

教育

8,085

9,096

8,932

衛生

58

88

153

その他

707

719

744

合計

11,370

13,021

12,948

臨時費

2,139

798

318

総計

13,509

13,819

13,266

 

 ここで分かるように二級町村制となり、まず役場費が計上されるようになった。歳出(経常費)の2割前後を役場費が占めており、二級町村制を施行するにはそれだけの負担が必要となっていた。その分、村税が増額され、村民負担が増えるわけである。

 ただこの時期には、村医費がなくなっている。市街にて医師が開業するようになり、村役場で医師(村医)を雇用することが不要となったからである(42年3月に廃止)。歳出での大部分を占めたのはやはり教育費であり、例年70l前後の割合となっていた。

 

 人口の推移

 明治36年に上富良野村が設置となってから44年までの人口の推移は以下の通りである(『北海道戸口表』)。

 

戸数

合計

36年

520戸

1,715人

1,445人

3,160人

37

607

1,801

1,581

3,382

38

637

2,179

1,833

4,062

39

874

2,497

2,228

4,725

40

1,056

2,859

1,896

4,755

41

1,304

3,455

2,767

6,222

42

1,472

3,684

3,043

6,727

43

1,792

4,226

3,512

7,738

44

1,984

4,672

3,687

8,350

 

 上富良野村は当初は520戸、3160人の人口で出発するが、その後も順調に増加をみせていた。とくに画期となったのは41年であった。人口は前年比で一挙に1・3倍の6222人となり、前年より1500人も増えたのである。この激増の要因となったのは40年における新殖民区画地の開放であった。村北部の里仁、静修、江幌、江花地区、さらには東部のベベルイ地区が相次いで開放となり、続々と移住者が入地したことにより、人口の激増となったのである。

 この後も人口は毎年、コンスタントに増え続けるが、上記の開放ともう一つ重要な要因は、中富良野に大地積を占めていた湿地帯が造田化により、入植者を吸引していったことである。これも人口増加の大きな要因であった。こうした傾向は大正前期も続き、人口も1万6000人に達するようになる。

 

 町村会の開会

 二級町村制の町村会は極めて自主的な権限の弱いものであった。まず、町村規則の設定と歳入・歳出予算の決定については議決権が認められていたが、町村条例の制定、町村費による事業の議決権は認められておらず、道庁の監督権限に属していた。次に、町村会議長は町村長が就くことになっており、議会の招集権も町村長がもち、「軽易ノ事件」は書面審議という方法もあり、町村長が町村会を主導する体制であって、議会による行政の監視という役割をはたせない構造となっていた。しかも、町村長が道庁からの派遣官吏であったから、町村自治も半ば以上は道庁の「官治」であったわけである。それでも町村会の開会と議員選挙は、町村自治の第一歩を踏み出したのであり、その意義は大きかったのである。

 

 村会議員の選挙

 上富良野村では二級町村制の施行にともなう村会の開会により、明治39年6月1日に初の村会議員の選挙が行われた。この折の議員定数は10人であったが、以下の10人が当選をはたした(『北海タイムス』明39・6・6)。なお、任期は2年とされていた。

 

 湯浅勇作   泉川義雄     伊豆本栄次郎  吉田貞吉     松岡源之助

 田中米八   安井新兵衛   多津美仲蔵   高田治郎吉   樋口和三郎

 

 以上のうち多津美仲蔵、湯浅勇作、伊豆本栄次郎、安井新兵衛などは中富良野からの選出議員であった。吉田貞吉、高田治郎吉は草分の三重団体、田中米八は田中農場主、樋口和三郎は富原の永山農場、松岡源之助は東中であった。これら第1期の議員は、41年5月31日で任期が満了した。

 第2回目の村会議員選挙は41年6月1日に行われ、以下の10人が当選した(『上富良野志』)。

 

 多津美仲蔵  住友与平     越智発太郎   増田嘉太郎   時岡観純

 川仁高太郎  中野常蔵     中原茂七     宮北忠平     田中亀八

 

 なお、『北海タイムス』(明41・6・8)では定員9人とし、宮北忠平を欠いている。以上のうち多津美仲蔵、越智発太郎(西中の江藤農場管理人)、時岡観純(牧場主)、川仁高太郎(福原農場管理人)は中富良野からの選出議員であった。上富良野側では中野常蔵、中原茂七、宮北忠平が市街地、増田嘉太郎は三重団体、田中亀八(田中米八の兄)、住友与平は東中となっており、この折の選挙では中富良野が4名、上富良野側が6名の議員を出していたことになる。

 以上の議員は43年5月31日で満期となり改選を迎えるが、この年3月9日に住友与平・田中亀八の2人が辞任している(『親展書類』)。

 続いて第3回目の村会議員選挙は43年6月1日に行われたが有権者数は403人、投票総数は397票で、投票率98・5lという高率であった。この時から定数は12人となり、以下の人々が当選した(『小樽新聞』明43・6・5、人名の誤植は訂正)。

 

 四方勇吉   梶野才市     湯浅勇作     安井新右衛門  尾崎政吉

 松岡宗次   多津美仲蔵   伊豆本栄次郎  神田和蔵     金子庫三

 浜村菊蔵   吉田貞次郎

 

 以上のうち四方勇吉(雑貨・荒物商)、梶野才市、湯浅勇作、安井新右衛門、多津美仲蔵、伊豆本栄次郎は中富良野の選出、金子庫三、神田和蔵(共に雑貨商)は上富良野市街、浜村菊蔵、吉田貞次郎は三重団体、尾崎政吉(請負業)、松岡宗次は東中であった。

 今回は後に(大正8年)村長となる吉田貞次郎(父貞吉は元村議)が26歳の若さで当選し、新風を吹き込んだ選挙であった。45年5月31日に満期となる。

 明治最後の第4回目の村会議員選挙は45年6月1日に行われ、以下の12人が当選した(『小樽新聞』明45・6・5、人名の誤植は訂正)。

 

 荻子信次   広浜伊蔵     後藤貞吉     吉田貞次郎   北原虎蔵

 須藤才八   中野常蔵     大野藤太郎   西谷元右エ門  伊豆本栄次郎

 神田和蔵   加藤源太郎

 

 以上のうち伊豆本栄次郎、須藤才八、加藤源太郎(運送業)は中富良野の選出であり、広浜伊蔵(旅館業)、中野常蔵、神田和蔵は上富良野市街、吉田貞次郎は三重団体、荻子信次は日の出、後藤貞吉は江幌の岐阜団体、北原虎蔵は島津、西谷元右エ門(牧場主)は東中であった。西谷元右エ門はこの時に初当選をはたして以来、昭和22年まで実に35年間にわたり村政に貢献することになる。また、昭和3年まで連続当選をはたす後藤貞吉も初の当選となり、今回の選挙は後に上富良野の三羽烏と呼ばれる吉田貞次郎、西谷元右エ門、後藤貞吉の3人が揃踏みした選挙であった。大正3年5月31日に満期となる。

 

 写真 第1期村会議員と草浦村長

  ※ 掲載省略