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3章 明治時代の上富良野 第3節 明治期の村政

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2 戸長役場の移設と上富良野村の設置

 

 富良野戸長役場の移設

 戸長役場を地元に移設するという要望は、「本村は歌志内戸長役場の所管に属し役場との距離十五、六里を隔て居るより村治の上らさる一にして足らず。依って村民は戸長役場の急設を切望し居るなり」(『北海道毎日新聞』明31・12・4)との報道にも現われていた。その結果、明治32年5月10日の告示をもって、「歌志内村外一箇村戸長役場所轄ヲ割キ、富良野村戸長役場(略)ヲ置ク」こととされ(道庁告示第115号)、5月27日には富良野村戸長役場が6月25日より開庁することが告示された(道庁告示第25号)。

 新たに独立した富良野村戸長役場の開設につき、以下の理由が述べられている(『北海道毎日新聞』明32・5・21)。

 

  石狩国空知郡富良野戸長役場(既設)空知郡歌志内村他一村戸長役場所轄の内更に富良野村を割き二戸長役場を新設したるは、右富良野村は従前富良野原野と称し滝川村役場の所轄なりしも、土地頗る遠隔且つ漸く拓殖の歩を進め貸下地積三千五百万坪に達し、移住者を増すの傾きあるを以て昨三十一〔三十の誤り〕年七月中新に一村を構成し今の歌志内村戸長役場の所轄に移せしものなり。然れとも尚ほ現戸長役場を距る最近四里、最遠十五里ありて施政上周到を欠く尠(すくな)からす。依て地形上先つ二戸長役場を新設し一般の便利を図らんとするものなり。

 

 これによると開設理由は第1点は歌志内村との遠距離、第2点は「一般の便利を図」ることにあった。こうして開設された戸長役場の庁舎は、上富良野の西1線北26号仮設道路の右傍の民家を使用したという(『上富良野志』)。間もなく東1線北25号に庁舎が新築された。『北海道毎日新聞』には32年5月16日付で上川支庁の富良野村戸長役場庁舎の入札広告が出されているが、再度、7月4日付でも出されている。前者が不調であったためなのだろうか。

 

 写真 明治33年建築の役場庁舎

  ※ 掲載省略

 

 戸長の赴任

 32年6月に上富良野に開設された富良野村戸長役場に、初めて赴任してきた戸長は松下高道であった。役場には事務をとる筆生2人が任用された。松下戸長の時期は鉄道開通、市街地の建設、続々と移民が入植するなど活況を呈した時であったが、34年11月2日に神楽村外1ヵ村へ転任となった。

 後任として赴任したのは三浦忻郎であった。三浦戸長の時期は下富良野村の分村問題、学校・教育所の建設など多難な時期であった。この折に「戸長役場の不親切」(『北海タイムス』明35・9・30)と題して、「農民に対する頗る不親切にて目下、戸長不信任問題持上り居る」と報道されており、戸長役場の官尊民卑のあり方が反感をかっていたようである。三浦戸長は上富良野村となってからも戸長を留任し、38年1月28日に上名寄村外2ヵ村戸長役場へ転任する。その後旭川町助役となる(明治42年7月28日〜大正2年7月27日)。

 その後任となったのは和井内喜之助であった。和井内戸長は上富良野村が二級町村を控えた39年3月に、愛別村戸長役場へ転任することになる。

 

 富良野村の人口

 『北海道戸口表』による明治30年から36年までの富良野村の戸数・人口は、以下の通りであった。

 

戸数(戸)

男(人)

女(人)

総計(人)

30年

70

300

31年

33

96

59

155

32年

319

618

466

1,084

33年

500

985

822

1,807

34年

710

1,508

1,366

2,847

35年

913

2,123

1,882

4,005

36年

520

1,715

1,455

3,160

 

 30年と31年の数値に不審な点があるが、30年の三重団体、31年の石川・福井団体の入植、佐々木(筑前組合)農場、島津農場の開場などにより移住者が到来し、毎年200戸、1000人規模で急速な増加をしていたことが判明する。

 なお、男女の人口構成をみると、男が女より多くなっている。これは開拓地の特徴であり、男が単独で出稼ぎに来ているケース、ないしは入植準備に当たるケースが多かったからである。

 

 富良野村の財政

 戸長役場の財政構造は戸長、書記などの吏員の給与、及び庁舎などの役場費は道庁が支出するが、村内の土木、教育、衛生費などは協議費として村民が負担することとなっていた。戸長から協議費(村費)の諮問に与るのが総代人の役目であり、また協議費の賦課・徴収を担当したのが組長であった。

 富良野村では明治32年4月から初めて村費を賦課した。これにより32年に至り初めて村内に総代人、組長が設置されたわけである。32年度から34年度までの賦課額は以下の通りであった(『引継書類綴』役場蔵)。

 

32年

749円68銭

1戸平均負担2円51銭1厘

33年

1201円42銭5厘

3円16銭

34年

2659円(国庫補助申請分528円)

1円26銭

 

 ただし実際に「三十三年度村費収支対照表」(『引継書類綴』)をみると、33年度の場合、村費賦課額が1232円、国庫補助が316円、雑収入が6円で合計1554円であった。支出は会議費32円、教育費621円、衛生費18円、村医費320円、その他316円、合計1307円となっていた。これから支出をみると教育費が48l、村医費が24lと高率であり、両者で70l以上を占めていたことが分かる。

 この時期の教育費は校舎の建設・維持費、教員給与からなっており32、3年は東中、西中、上富良野、下富良野に簡易教育所が相次いで建設される時期であり、多くの教育費を要した時期であったと思われる。34年には上富良野尋常小学校の建築が行われるが、多額の建築資金は村費でまかないきれず、通学区父兄の寄付及び国庫補助を申請してやっと建築に至っている。教育費の割合は通例なら6割前後であり、33年度は低い方であるといえる。

 村医費は村医の年額給与であったがさすがに高く(34年には年額360円に増額)、やがて一部が国庫補助がなされるようになる。

 1戸平均の負担額は32年が2円51銭1厘、33年が3円16銭と高額となっていた。34年度は戸数の増加、国庫補助申請によりかなり軽減となっている。ただ、現金収入の少ないこの時期の農家にとっては、税負担はかなりの重荷であったことは確かであろう。

 36年の松下高道戸長の引継文書では、村費の徴集状況について以下のように述べている。

 

  開村ノ始メハ一戸平均年額八十九銭ナリシガ、爾来学校ノ設備、其他村ノ経営スベキ事業年々多キ加フルノ結果、三十六年度ハ平均額弐円九十七銭以上ニ達スルニ至レリ。之ヲ他村ニ比スレバ決シテ負担堪ヘザル多額ニアラズト雖モ、(略)往々不平ヲ訴フルモノアリ。為メニ納期内ニ完納セシコト開村以来未ダ曾テアラサル所ナリ。

 

 ここでは年々負担が重くなっていく村費に対して、村民の多くは「往々不平ヲ訴フルモノアリ」という具合にそれなりの重税感をもっていたのであり、それが滞納と納税率の低下となってあらわれていたのであった。ちなみに、36年度前期の賦課額2104円74銭9厘に対して徴収高は1573円68銭7厘であり、徴収率は75lという低率であった。これ以降、納税組合が組織されて完納が目指されていくこととなる。

 

 総代人

 この時期、戸長の諮問機関として総代人会が設けられていた。

 総代人会は戸長が議長となって協議費の予算、使途について総代人などに諮問するもので、簡易な村治機関であった。協議費は役場、衛生、教育、土木費などの村財政費をいい、村民から村税として戸別、反別に徴収されていた。

 総代人は開拓使時代の明治11年6月に、1町村毎に選挙で2人を選ぶ規則が設けられ、その後、戸長役場制度下でも継続されていった。選挙人は20歳以上の男子で、町村に本籍をもち、支庁管内に100円以上の地券を有する者とされていた(被選挙人も同様)。総代人の役割は、「金穀公借共有物取扱、土木起工ノ事ニ預ルヲ以テ本務トナスト雖モ、時宜ニ依リ人民ノ利害得失ニ関スル事ハ区務所ヨリ協議スルコトアルヘシ」とされていた。すなわち、協議費に関係する事項に関して戸長の諮問を受けることが「本務」とされ、戸長という「官治」の補助機関の役割として位置付けられていたのである。任期は2年であり(毎年、半数改選)、無給の名誉職の扱いであった。

 明治31年7月に加藤尚之戸長が初めて富良野を視察巡回に訪れた際に、総代人・組長の選挙が行われたが、村総代には田中常次郎、荻野直吉が選ばれた。田中常次郎は上富良野に入植した三重団体の副団長であった。その後、役場簿書から確認できる総代人は以下の通りである。

 

33年3月

田丸 正善

中村 千幹

  12月

34年3月

田中常次郎

  4月

中村千幹

  8月

時岡 観純

  10月

吉田 貞吉

  12月

35年12月

神田 和蔵

 

 田丸正善は中富良野、中村千幹は下富良野の佐々木(筑後)農場の管理人、時岡観純は中富良野の江藤農場の管理人であり、後に中富良野市街で商店を経営(後に村議)、吉田貞吉は上富良野の三重団体の一員である(長男の貞次郎は後の上富良野村長)、神田和蔵は上富良野の雑貨商であった。

 『旧村史原稿』は、明治33年の総代人選挙として7人の氏名を挙げている。総代人選挙は1村にて2名から4名のはずであり、人数的に多すぎる。これらは『上富良野町史』(115頁)が列挙する評議員の氏名に一致するので、評議員の誤りである。また、明治37年5月31日の「総代人選挙」として、10人の氏名を挙げているが、これらは39年の村会議員の誤りである。

 その後36年9月1日に上富良野、下富良野村に分立するが、上富良野村となってからの総代人は、

 

36年9月

神田 和蔵

森川 房吉

37年11月

時岡 観純

38年2月

  4月

神田 和蔵

 

となっており神田和蔵、森川房吉、時岡観純の3人が選ばれてつとめていた。森川房吉は三重団体の一員であった。「本村ノ理事法ハ総代人二名ヲ置キ村ノ事業ニ関スル事項ヲ評定セシメ戸長コレヲ決定ス」(『事務引継演述書』役場蔵)とされているように、村事業に関する戸長の諮問役をはたしていたのであった。

 

 評議員

 この時期には評議員も別に置かれていた。評議員制の実際については不明であるが、少なくとも戸長役場のもとで公的に設置されていたわけではなく、戸長の私的な諮問機関として設けられていたようである。評議員は各地域の有力な移住団体、農場移住者の中から選任され、戸長が任命したようである。各地区の組長を評議員として総代会の議事に参与させていたものかもしれない。

 評議員制は各戸長役場で一様に取り入れていたものでもなく、むしろ富良野村のように評議員の制度をとっていた方が珍しいくらいである。『上富良野町史』(115頁)には総代会に参与していた評議員の人名をあげている。

 

 明治33年

 砂山彦助(中富良野、石川団体) 青山栄松(中富良野、福井団体) 田村栄次郎・大畑千松・鈴木金次郎(上富良野、三重団体) 岩崎虎之助(中富良野、中島農場) 神田和蔵(上富良野、雑貨商) 田中米八(上富良野、田中農場)

 

なお、先述した『旧村史原稿』は明治33年の「総代人選挙」として田中米八を除く7人の氏名をあげている。

 『上富良野町史』には34年になると、下富良野からも以下の評議員が選任されたこと伝えている。

 

 岡田辰次郎・清水運吉・市山実蔵・木下磯吉(筑後農場) 布施兵三郎(学田地)

 

 現在、『上富良野町史』で参照した総代人関係簿書が所在不明なために、以上の点につき詳しいことはわからないが、上富良野村となってからも評議員は置かれていたらしく、福井団体委員 林仙松、石川団体委員 松藤三治の名前が残っている(『総代会書類』役場蔵)。

 

 組と組長

 村内を行政地区として組に分け、組長を置いて戸長役場と各組の連絡役、さらには村政問題の協議に参与させる制度は、明治32年5月以降から行われていた。

 「又総代人ノ下ニ各部落適宜ノ地位ニ組長ヲ設ケ村内ニ通知スへキ告諭達等ノ伝達ヲ取扱ハシメ村費ノ怠納者督促等ノ任ニアタラシム」(『引継書類綴』役場蔵)とされ、「告諭達等ノ伝達」「村費ノ怠継老督促」が主要な任務とされていた。

 組の目的、組長の役割・選挙法・任期などを規定したのが、次の富良野村組合規約である(『上富良野町史』116貢)。

 

 富良野村組合規約

   組合組織

 第一条 本村内ニ居住スル者各自共同ニ関スル利益ヲ計ラン為メ組合ヲ設置ス。

 第二条 本村上中下字限リ組合設立シ五組ト定メ、一組毎ニ組長壱名ヲ撰任、伍長若干名置クヲ例トス。

   組長心得

 第三条 組長ハ一字又ハ一村ニ関スル共同事件ノ利害得失ヲ審議評決スルノ事ニ預ルノ任アルモノトス。

 第四条 組長ハ総代人ノ諮問ニ応シ又ハ全会議事ニ参預スル事ヲ得。

 第五条 組長ハ受持各戸別ノ出入ヲ明記シ、其出入ヲ一ヶ年両度一月七月戸長役場ニ届出ルヲ常務トス。但臨時ニ取調ル事モアルベシ。

 第六条 組長ハ新ニ移住シタルモノヘハ一村ニ対シ一戸ノ義務ヲ怠ラザル旨移住最初ニ疾リ〔ママ〕承知者数併テ組合中ノ親睦ヲ主トスル旨能ク成得セシムベシ。

 第七条 組長ノ任期ハ満一ヶ年トシ、任期中ハ相当事故ナクシテ辞スル事ヲ得ズ。

   但シ不得止場合ニハ外組長弐名以上ノ連署ヲ以テ総代人ヘ辞表ヲ提出スル事ヲ得。

   選挙

 第八条 組長トナルベキ者ハ左ノ資格アル者ニ限リ被選挙権ヲ有ス。

  一 当村へ本籍ヲ定メ戸別割等級八等己上ニ位スルモノ。

  一 一戸ノ男戸主ニシテ年齢満廿五才以上ノ者。

  一 拾万坪以上ノ農場ノ監督又ハ支配者等ハ本籍寄留ニ不問同権利ヲ有ス。

 第九条 組長選挙ハ総代人主ト為リ一字限リ選挙投票ヲ為スベシ。

 第拾条 選挙ヲ要スル場合ニハ総代人ハ日時場所等ヲ定メ其字一般ヘ通知投票為サシメ、最多数ノ者ヲ当選者ト定ムルモノトス。

   但シ投票同数ナル時ハ年長者ヲ以テ当選者ト定メ、総代人ハ当選者ノ受書ヲ徴シ戸長役場ニ通報スベシ。

 第拾壱条 組長選挙権ヲ有スルモノハ一戸ノ男戸主ニシテ年齢満弐拾才以上ノモノ、本籍寄留ヲ不問村費ヲ負担スルモノニ限ル。

 第拾弐条 組長退任后選挙スル場合ニワ前任者ヲ再選スルモ妨ナシ。

   組合経費

 第拾参条 組合経費ハ其組限リ各一字限リ予算ヲ定メ、便宜収支ノ法ヲ設クベシ。

 第拾四条 組長ノ手当又ハ報酬トシテ若干ヲ支給スベシ。

   但シ一字ノ協議ニ依リ無報酬トスル事可有。

   科料

 第拾五条 組長ハ任務トスベキ事ヲ怠リ又ハ一村ニ関スル集会ニ付無届欠席或ハ遅刻シタル時ハ壱円以下拾銭以上ノ範囲内ヲ以テ科怠金ヲ出スベキ責ヲ負ウモノトス。

 第拾六条 前条ノ場合ニ於イテ組長総会ノ決議ニ依リ科怠金員ヲ定ムルモノトス。

 第拾七条 科怠金ハ総代人ニ於テ保管ス。

 

 この「富良野村組合規約」によると組は、「本村内ニ居住スル者各自共同ニ関スル利益ヲ計ラン為メ」を目的として創設されており上富良野、中富良野、下富良野の字毎に各五組ずつ、計15組が設置されていた。組毎に組長が1名選挙され、伍長が若干名置かれることになっていた。

 組長の役割は、「一字又ハ一村ニ関スル共同事件ノ利害得失ヲ審議評決スルノ事ニ預ル」ことで、総代人会等の会議に参与することもできた、地区全体の問題につき意見を述べる役割であったようである。その一方で、組内の住民の異動、開墾状況などの報告・調査が義務付けられ、組が行政の末端組織として位置付けられており、組長は組の総括責任者とされていたのである。その他にも、組内の福祉・親睦・融和など公共的部分の指導性も受けもたされていた。

 組長は字内の住民により選挙され、任期は1年であった。選挙資格等については規約にある通りである。三重団体の高田治郎吉は明治34年まで組長、36年の上富良野村の設置以来は大組長を4カ年勤続したという(『上富良野志』)。上富良野、中富良野の字ごとにあった5人の組長の上に、さらに統括する大組長も置かれていたようである。

 組は後の部、区につながる行政的な地域・下部組織であり、官治を目的とした村行政の末端組織としての性格が強かった。村費の戸別割などに際しては、組長が等級割りを行ったものであろうし、納税なども組単位にまとめて行われていたのではないだろうか。それ故に自治的性格は必ずしも顕著ではないのではあるけれども、2名の総代人のみでは村内の状況が把握できず、地域間題も充分に吸い上げることも不可能であった。この点では民望をもち地域の指導者、リーダーとしての組長のはたす役割は、民意の反映の上でも大きかったはずである。

 また、組内には伍が編成され、それぞれ伍長が置かれて組長を補佐する体制となっていた。伍はおそらく5戸で構成されていたと思われるが、上村卯之助は32年に伍長を務めたというから(『上富良野志』)、伍と伍長は32年に組とセットで設置されたものであろう。こうしてみるとこの時期は、戸長−総代人−組長−伍長と上意下達のネットワークが、意外なほど整備されていたといえる。

 

 分村の要望

 富良野村は現在の上富良野町、中富良野町、富良野市、南富良野町にまたがる広大な行政区域であった。そのために1村としては広域すぎる点があり、上富良野に所在した戸長役場の位置も北端に偏していたきらいもあり、下富良野方面を分村して新たな戸長役場の設置を求める要望も強く起き、分村運動も展開されるようになってきた。このあたりの問題については、以下の報道もみられる(『北海タイムス』明34・10・30)。

 

  当地の戸長役場は北端の上富良野に在り、管轄区域延長三十余里に跨り総戸数八百軒に余るものから、何につけかにつけ不便少なからざるを以て、今回当地の各有志者等は下富良野に更に新に1戸長役場設置あらん事を、其筋に向って請願せんものと目下運動中なり。

 

 すなわち、明治34年十月頃から下富良野から以南の地域では「不便」を理由に戸長役場の新設を請願して、分村運動を開始しはじめていたのであった。

 続いて、この間題に関する「戸長役場設置の急務」という続報では戸長役場の新設、ないしは戸長役場の移転を求める要望が伝えられている(『北海タイムス』明34・11・27)。

 

 ▲戸長役場設置の急務 富良野村は上富良野より十勝国境に至る三十里以上に亘るの大村にして施政上甚だ困難なる場所なり。而して戸長役場は該村の一端上富良野に在り、為めに落合地方に居住する者は実に二十余里の遠路を往復せざれば用務を弁ずる能はず。其不便実に甚だしと謂っ可し。由つて人民の便利より言へば別に下富良野に戸長役場を新設するに勝(すぐ)れることなけれど、若(も)し新設する能(あた)はずとせば上富良野の戸長役場を下富良野に移転すべし。左すれば落合地方人民の不幸を幾分か殺(さ)ぐことを得んと、公平なる村民は一般に唱道し居れり。

 

 ここでは、「下富良野に戸長役場を新設するに勝れること」がまず第1に挙げられ、それができない場合には、「上富良野の戸長役場を下富良野に移転す」ることが「唱道」されていた。これであれば富良野村の南端に位置していた、「落合地方人民の不幸を幾分か殺ぐこと」となり、次善の策として求められるようになっていたのである。

 

 分村と上富良野村の設置

 翌明治35年の「下富良野通信」にも、「戸長役場は上フラヌにあり。不便甚だしきを以て昨年分村を願出たるも未だ確定せず。一般に困り居れり」(『北海タイムス』明35・6・22)との報道がみられ、下富良野方面では分村を願う声がしきりであり早晩、分村は避けられない状況となっていたのである。そして36年に至り、

 

 ▲戸長役場設置の新設 上川支庁管内に於ける三十六年度戸長役場設置新設の個所は、予(かね)て支庁より道庁へ向け富良野村戸長役場を割て同村内に今一個新設の儀…

 

を申請中との報道がなされ(『北海タイムス』明36・2・5)、下富良野と同村戸長役場の設置がはかられるのであった。

 下富良野村の設置は道庁告示第464号(明治36年7月8日)にて、「石狩国空知郡富良野村ノ南方ヲ割キ下富良野村ヲ置ク」と告示され、あわせて「富良野村ヲ上富良野村卜称ス」とされて、旧来の富良野村は上富良野村と改称となり、上富良野村が誕生するのである。なお、下富良野村戸長役場は36年9月1日から開庁とされた(道庁告示第547号)。