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3章 明治時代の上富良野 第2節 三重団体と移住の展開

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3 団体移住の展開

 

 諸団体の移住

 上富良野村には三重団体に続く団体移住はしばらくみられなかったが、明治39年以降から小規模な団体が多数入地してくるようになる。

 40年には富良野原野における残区画地の開放もあって、多数の移住団体が入地をみるようになる。『殖民公報』第36号(明40)には、明治40年に空知郡富良野にて貸付地予定存置を得た、下記の12団体が掲げられている。

 

府県

氏名

許可坪数

許可月日

@新潟

梅田為七外25戸

30万坪

3月7日

A岐阜

後藤小一部外53戸

30

B山形

大場金五郎外105戸

45

C徳島

原田利吉外29戸

30

D宮城

岡本清秀外24戸

30

E宮城

守屋熊治外66戸

30

F滋賀

奥野甚助外143戸

37

G高知

大野嘉一外142戸

30

3月11日

H福島

佐々木安之助外79戸

30

I新潟

内山由蔵外25戸

30

J岩手

佐藤伊左衛門外39戸

30

3月12日

K山形

大場金五郎外19戸

30

3月13日

 

 これらをみると50戸を超える団体が5団体もあり、当初は大規模な団体移住が企画されていたことが分かる。ただし、戸数の割には坪数が少なく、30万坪であればせいぜい20戸分(当時の1戸分は1万5000坪=5町歩)にしかならず、戸数に関しては不審な点がある。

 以上の団体のうち、F滋賀団体は滋賀県からの移民十数人で構成され、奥野仙造が団体長となり江幌完別に入地した。A岐阜団体は西8・9線、北26〜28号付近に入地し、岐阜県武儀郡小金田村白金の出身者25戸で構成され、団体長は後藤貞吉であった。静修の西12線北32号付近に20戸が入地した福島団体は、Hに相当するとみられる。

 『上富良野町史』によると移住年はF滋賀団体は36年、A岐阜団体は39年、H福島団体は37年となっているが、FHは39年ないし40年の誤りとみられる(各団体の概況は『上富良野町史』に依拠して記述)。

 続いて、この40年には里仁へ阿波、豊里、静修へ宮城、江花へ山形、土佐、秋田の6団体移住していた。まず里仁に移住した阿波、豊里の2団体をみると、阿波団体はCに当り西11線北34号を中心に入地し、原田徳次郎が団体長であった。30戸で構成されていたが、翌年には早くも退転した状態で3戸を残すだけであったという。豊里団体はEに当り守屋熊治を団体長として西10・11線、北35・36号付近に入植した。67戸で構成されていたが、実際に入植したのは20戸といわれ、宮城県登米郡豊里村の出身者であったという。なお、41年に移住したという越後団体の事績は何ら伝えられていないが、越後団体は@に当るものかもしれない。

 静修の宮城団体は佐々木利左衛門を団体長に、千葉佐五郎を副団体長とし宮城県東田、志田、栗原の3郡の18戸が移住したという。西10線北31号を中心とした場所で、Dに相当する団体とみられる。

 江花へ移住した山形、土佐、秋田の3団体の中で最も成功を収めたのが山形団体であった。山形団体は大場金五郎を団体長とし、山形県村山郡出身者の村山団体、置賜郡の置賜団体の2つで成り立っていた。BKがそれらに相当する。大場金五郎は明治7年に山形県東村山郡鈴川村生まれ、24年に岩内に移住した。上富良野が有望なことを知って39年に転住すると共に、郷里からも団体を募って招致したといい、西6線北23号を中心として27戸が入地した。

 土佐団体は大野嘉一が団体長となったものでありGに当る。143戸という大規模な団体のようであったようであるが、実際には西6線北22号に数戸が入地したにすぎなかった。秋田団体は高階某が団体長となり、数戸が入地したことしか知られていない。先の『殖民公報』にも該当する団体はみられない。

 これらの団体の成績をまとめた「予算存置の成績」(『北海タイムス』明40・9・28)によると、各団体はFが25戸となっている以外はすべて20戸で構成されていた(ただし、Aのみは記載なし)。先の『殖民公報』の戸数には誤りがあると認められる。実際の移住者数をみるとEが15戸と最も多く、次がJの2戸であり、この2つだけが過半数に達した団体である。

 CG及び大場金五郎のBKは7戸、Iが4戸となっており、いずれも芳しいものではなかった。さらに、@DFHは1戸の移住者もないという状態であり、きびしい団体移住の状況を示している。

 以上が明治40年に貸付地予定存置を得た団体であるが、その後も団体移住が相次いでいる。42年に衣川団体が江幌に移住する。衣川団体は岩手県胆沢郡衣川村字下衣川より12戸が、村上兵馬を団体長として入地した。43年には東中に伊藤祐三郎を団体長とする宮城団体30戸が入るが、この場所の多くが中富良野町本幸の地内に属している。

 静修の岡山団体が入地したのは大正元年(明治45年)であった。もともと岡山団体はこの年に県での移住者募集に応募した53戸の1団であったが、28戸は御料局のルベシベ御料地に入植した。その後間もなく静修にて七条善吉の地所が成功検査に不合格となったので春名金太郎、橋本実、吉田卯之助、西条兵次郎などが当所に譲渡を得て再移住したものである(春名金太郎「岡山団体(静修)のゆくえ」(『郷土をさぐる』第3号、昭58)。「北海道国有未開地処分法完結文書」によれば七条善吉の地所は、150町歩で大正10年に春名友太郎、吉田卯之助、春名金太郎、西傑兵次郎、飯田静雄、石垣善太郎、大塚仁八、原田兵蔵、以上の8人に12分割されている。

 

 写真 江幌完別の開拓風景(奥野仙造一家)

  ※ 掲載省略

 

 移民の出身地

 それではこの時期、上富良野へ移住した移民たちはどこの府県の出身者が多かったのであろうか。大変興味をもたれる問題なのであるが、しかしながらそれを的確に示す資料、統計には恵まれていない。それで明治42年編纂・刊行の『上富良野志』、45年調査の『北海道農場調査』(大2刊)により、上富良野村(現在の中富良野町内を含む)への移民の出身県の統計を、表3−3として示すことにしたい。なお、『上富良野志』からのデータ採取では官公吏、僧侶などを除き農業、牧畜業、商業、実業者に限っている。『北海道農場調査』は当時の村内11農場の小作戸の出身県である。

3−3から移民が多く出ている出身県をうかがうと、東北地方では青森、宮城、福島県であり、中部・北陸地方では新潟、富山、石川、福井、岐阜、三重県である。四国地方では徳島、香川県が多い。以上の諸県の中でも大勢として富山、徳島県あたりが最も多かったようである。

富山県は明治20年代後半から移民を多く送り出し、30年代半ばまで常に移民数ではトップを占めていた。そうした動向が上富良野村でもうかがわれる。徳島県は20年代後半から30年代初期まで、有数の移民県であったが上富良野村には永山、中島、田中農場などに多く入植していた。『上富良野志』で三重、福井県が目立って多いのは、それぞれ団体移住があるためである。ただ三重県の場合、小作戸としての移住は少なかった。『北海道農場調査』では東北地方の出身県が多くなっているが、これは明治36年以降、大凶作の影響により東北からの移民が多くなってくるからである。

中富良野村の昭和11年現在の道府県別入地者状況をみると(『中富良野町史』上巻、昭61)、北海道を除くとやはり圧倒的に富山県が多く、次いで青森、福井、福島、宮城、徳島県などとなっている。ほぼ明治後半の状況がそのまま維持されていたとみることができる。

 

 表3−3 移住民の出身県

県名

T

U

青森

1

15

岩手

1

7

宮城

0

24

山形

1

9

福島

1

26

新潟

2

14

富山

18

68

石川

8

30

福井

14

11

長野

7

7

岐阜

5

39

三重

19

7

兵庫

7

2

徳島

12

40

香川

14

8

愛媛

1

8

   出典 T−『上富良野志』(明42)

      U−『北海道農場調査』(大2)