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3章 明治時代の上富良野 第2節 三重団体と移住の展開

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1 三重団体の結成

 

 三重団体の組織

 三重団体を結成することとなった中心人物は、副団体長の田中常次郎である。常次郎が団体を組織した経過について、『北海道』(大10)は以下のように記述している。

 

  二十七年石狩国空知都平岸村〔赤平村平岸〕の団体移住の挙あり。常次郎於此始めて本道拓殖の事業に志を抱き、(略)其年の七月単身本道に航し幌向原野に到り、三重団体長板垣贇夫(よしお)を訪ふて具(つぶ)さに移住の実状を観察す。一旦帰国の上諸般の準備を整へ移住団体の組織を行ひ、後土地の選定出願の手続を了する等、此間前後四回本道に渡航し、諸般の画策成るや爰(ここ)に三重団体を組織し板垣贇夫を以て団長とし常次郎副団長となり、三十年五月四日八十余戸を率ゐて上富良野村に移住せり。

 

 これによると田中常次郎は明治27年に、赤平村平岸に移住する三重団体のことを聞き及び、これが契機となって「本道拓殖の事業に志を抱き」、7月に視察のために来道する。そして三重団体長の板垣贇夫を幌向村に訪ね、指導・助言を得て移住団体の組織を決め、その後、入植地の手続、団体員の募集などに奔走し、この間に4回にわたり本道に渡航したという。

 次に若林功『北海道開拓秘録』に収載されている「『上富良野の開拓功労者』田中常次郎」には、その動機・経過などが以下のように記述されている。

 

  二十九年七月に家族に無断渡道し、先ず前に三重団体を結成して空知郡幌向のパンケソウに移住してゐた団長板垣贇夫を頼り、二戸分の土地を貰ふことにして帰国した。敢(あ)へて宣伝せぬのに、此の事を聞き伝へ附近の者で同行を願ふ者三十五戸に及んだので、別に一団地を選定せねばならず、道庁に出頭して相談の上地図上で富良野に貸付を受けて帰国報告すると、移住希望者が更に増加したので、十一月三回目の渡道をして、道庁で百五十戸分の貸付を受け、翌年三月十日には八十五戸を率ゐ四日市港から乗船出発することになった。

 

 ここでは常次郎は29年7月に板垣贇夫を頼って来通し、「二戸分の土地を貰ふこと」になったという。当初は単独移住のつもりであったのである。ところが、移住希望者が35戸となったので2回目の来道、さらに増加したので11月には3回日の来道を行ったという。なお、草分神社の木札(現在上富良野町郷土館に保存。以下、「木札」と略称)にて河辺三蔵は、「明治二十九年八月二十五日本道探見」としており、2回目は同じ安東村の河辺三蔵も同行し8月であった可能性がある。

 

 写真 田中常次郎頌功碑建立記念写真、前列中央(和服)は板垣賛夫

  ※ 掲載省略

 

 団体の募集

 以上の2つの史料を比較すると、田中常次郎の最初の来道年(27年と29年)に相違が認められるが、これは29年が正しいであろう。常次郎は当初、自分ひとりが移住の予定で北海道に渡り、三重県移民のオルガナイザーとして知られていた板垣贇夫を幌向村に訪問し、色々と相談することがあったであろう。そして移住の希望を述べて2戸分の土地(10町歩)を与えられることになった。この場所は、幌向村なのか赤平村平岸なのか分からないが、後者の可能性がつよいと思われる。いよいよ移住を敢行することになり、その準備のために帰国する。すると近隣には同じく北海道移住を志願する知人も35戸に及んだので、改めて移住団体を結成する必要性が生じ、再び板垣贇夫に相談するために渡道したのである。そして入植地を富良野原野に定めることにしたが、この折りに板垣贇夫の意向もあって広く県内から移民を募集することにしたのであろう。すなわち、団長に板垣贇夫をすえ常次郎が副団長となって、団体の規模を拡大することにしたのである。そして再び帰国して募集活動をした結果、応募状況も良好であったために、29年11月に今度は一挙に150戸分の予定存置を道庁から得るために3度目の渡道をすることになる。

 ただ実際には、辞退者もあったようで150戸も団体の枠は埋まっていなく、30年にも団員の募集を行っている。板垣贇夫は「木札」に団員の募集から渡道、貸付地の存置から視察までを、以下のように詳しく記している。

 

  三十年一月団体員田中常次郎ノ請ニ依り団体員募集ノ為メ帰県、同年三月団体員空知沿岸居住者ヲ択ヒ、フラヌ原野ヲ踏検セシム、同原野ニテ予定地弐百弐拾五万坪貸下ヲ得タリ、同年四月団体員来着、空知団体地ニ合居セシメ、田中常次郎ヲ以テフラヌ移住惣代人ト定メ、外二〔拾脱カ〕名ヲ率ヒ貸付地実見便宜野〔宿脱カ〕セシム。

 

 これによると、「三十年一月団体員田中常次郎ノ請ニ依リ団体員募集ノ為メ帰県」としており、出発直前まで募集を行っていたようである。川田金七は贇夫が河芸郡玉垣村(現鈴鹿市)を訪れ、移民の募集を行っていたことを語り伝えている(『かみふ物語』昭54)。そのことにつき地元の『伊勢新聞』(明30・2・28)にも、「北海道移住者三重県団体長たる板垣贇夫氏が過般当市〔津市〕に帰省し、北海道移住民を県下に於て募集中なりし…が、既に安濃(あの)、一志(いっし)、河芸(かわげ)、鈴鹿、津市、各郡に於て応募者百余名を出したる…」と報じており、板垣贇夫が勧誘により100人余りが三重団体に加わったことが分かる。

 さらに、『伊勢新聞』(明30・2・25)は、以下の報道も行っている。

 

 ○北海道移住民安濃都納所田中常四郎〔次の誤り〕、田村栄次郎、津市水原政次、河芸郡玉垣村の服部庄助、杉野新三郎の諸氏は兼ねて北海道移住熱心にて昨年中種々奔走の処、移住民も追々増加し殆んど二百余名にも及びたれば来月下旬愈々同地へ移住する由。開墾の目的地は石狩国空知郡フラヌ原野にて、同地は昨冬板垣贇夫氏が略ぼ踏査の上千五百町歩の予定貸下の許可を得たるものにて…

 

 これによると三重団体を組織し中心となったのは田中常次郎(安濃郡安東村納所)のほかに田村栄次郎(同村河辺)、水原政次(津市)、服部庄助・杉野新三郎(河芸郡玉垣村)などの人々であったという。

 

 板垣贇夫の経歴と「木札」

 板垣贇夫の経歴や移住事業に関しては、「石狩国幌向原野三重県民団体」(『殖民公報』第16号、明36)、『三重県事業史』(明40)、『移住者成績調査』第1編(明39)、『北海道拓殖功労者旌彰録』(大6)、『開拓の群像』上巻(北海道、昭44)、『北海道開拓功労者関係資料集録』上巻(北海道、昭46)などに収録されている。

 しかし贇夫自らが富良野原野への移住過程を含めて、経歴・移住事業につき「木札」に詳記している。本人が残した確実で貴重な記録でもあるので、ここではまずそれを紹介して掲載することにする。

 

 写真 草分神社に奉納されていた木札

  ※ 掲載省略

 

  姓ハ源八幡太郎義家ヨリ出ツ、甲州武田家ノ一門板垣駿河守信形ノ末孫、后世ニ津藩主藤堂家ニ仕フ定府タリ。安政四年十二月二十九日江戸染井藩邸ニ生ル。明治元年四月藩主江府引払ノ際伊勢国津岩田山中ニ移ル。同九年八月三重県師範学校予備門私立開達学舎開設ノ際教師トナリ、同十二年迄生徒ヲ教授ス。同十三年ヨリ農業ニ従事シ一志郡ニ於テ荒地七町歩開墾、其他岩田村勧業委員、安濃郡勧業会員、津市街準市街議員、三重県精選米組合視察取締、津市及安濃郡蚕種業組合委員、三重農業協会評議員等ノ公共事業ニ従事ス。

  同十九年六月土地改良ノ目的ヲ以テ津市塵芥組合ヲ組織シ、堆積肥料ヲ奨励シ並ニ津市私立消防組創始、同二十三年三月農業団体ノ必要ヲ感ジ、始テ岩田農業組合ヲ組織シ、勤勉夜業場ヲ設ケ農家子弟ヲ集メテ夜学ヲ開始ス。同年四月三重農業協会ヨリ功労賞牌ヲ贈与セラル。

  同二十六年二月社会進歩ノ状態ヲ察シ大イニ感スル所アリ、組合員ヲ以テ北海道団体移住規約ヲ締結ス。

  同年四月先発人ヲ撰ヒ渡道、石狩国幌向原野ニテ試作的開墾場ヲ開始ス。同二十七年団体員続々来着幌向村ハンケソーカニテ三重部落創始、依テ移テ之ニ居住ス。

  同年ヨリ三十年迄年々団体員ヲ募集シ幌向原野御茶ノ水及ハンケソーカ、空知川沿岸原野、天塩国古丹別原野ノ四ヶ所ニテ予定地弐百八拾余万坪ノ貸下許可ヲ受ケ、団体員百八十余名ヲ移住セシム。

 

 板垣贇夫は安政4年(1857)に、三重県津(藤堂)藩士信(のぶ)固(かた)の子として生まれたのであったが、誕生地は江戸藩邸であったという。これまで請書は一様に岩田村での誕生と記すが、この点で「木札」は新たな事実を伝え貴重である。その後、明治維新に際会して11歳の明治元年(1868)4月に、津の岩田山に移ることになる。彼は年少の頃より勉学に励み学才もあったようで、19歳の明治9年8月に新たに設けられた開達学舎の教師になるのである。

 しかしながら何故か22歳の時(12年)に教師を辞め、農業へと転身するのであった。『北海道開拓功労者関係資料集録』では贇夫はこの年に、紅茶製造伝習所を卒業して同所の教師となったことを伝えている。贇夫は農業に打ち込む一方で、「木札」にあるような各種の公職を務め、不況と不作にあえぐ農民の指導と農村の再建に挺身を続けていくのであった。安濃郡岩田村(現津市)は津市の南隣に位置していたが、当時の村民の状況については以下のように述べられている(『移住者成績調査』第1編)。

 

  其の民は重(お)もに農業に従事せるも其の過半は小作にして、其余は自作兼小作又は自作をなし、一戸につき五反歩乃至一町五反歩の地を耕作し蔬菜及穀菽を作りて生活せり。而して漸次市街遊惰の風に浸染し奢靡(しゃび)に傾き職業を怠り生計困難に至りしか…

 

 そこで彼は19年に堆肥作りと土地改良を目的に津市塵芥掃除組合、23年に「農業団体ノ必要ヲ感ジ」て夜業場での藁細工と学習のために岩田農業組合などを組織し、村民の生活改良に尽力することになるのである。

 

 板垣贇夫の移住事業

 「岩田農業組合員の壮図」と題した『伊勢新聞』(明26・3・5)によると、夜業場では毎夜、縄、畚(もっこ・ふご)、草鞋を作り、収益金は積み立てられていた。また併せて夜業の合間には板垣贇夫の談話も行われ、農業有効の談話若しくは勤勉節約の理法を説き、殖産興業の必要を聴かしめ抔(など)せしかば、壮年者中の風儀も漸次善美に嚮(むか)ひたれば、則(すな)はち勧むるに北海道拓殖の国家に取り国民に取り最も忽(ゆるかせ)にすべからざるを以てしたれば、壮年者も大に之れに奨励せられ(略)予(かね)て共同夜業に依りて積み立てたる収入金を以て移住の資費に充て、石狩国札幌の近野をして移住の壮図を畢(おわ)らんとて着々其の準備中の由…と、北海道移住を企図するようになるのであった。板垣贇夫が移住を計画した背景には、「同地は人多くして土地限あり。勤倹事に従ふと雖も生計の余裕を得ること困難にして大に発達すへき見込なし」(『移住者成績調査』第1編)という土地条件の他に、「北海道拓殖」の国家目的、国民義務という思想背景もあったのである。

 この26年4月に板垣贇夫は5人の青年と地所選定のために渡道し、石狩国空知郡幌向御茶の水(岩見沢村)、及びパンケソーカ(幌向村)に三重団体の予定存置を得、27年から入植を開始し28年までの間にパンケソーカに77戸、お茶の水に25戸、合計102戸が移住してきている(10余戸分を他県人で補充)。

 さらに団体加入の申込みが引きも切らずにあり、幌向原野だけでは収容しきれないので、28年に空知郡空知川沿岸区画地(赤平村)に30余戸、29年に天塩国苫前郡古丹別原野に40戸(苫前村)、そして30年には富良野原野にも100余戸を斡旋して移住させることになったのである。以上の5カ所で総計二百数十戸にも及び、板垣贇夫は移民のオルガナイザーとしても卓越したものをみせていた。