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3章 明治時代の上富良野 第1節フラヌ原野の開放と農場の設置

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5 諸農場の開設

 

 人見・中島・五十嵐農場

 東中に開設されたこの農場は人見、中島、五十嵐と農場名を変えて譲渡されていく。『北海道農場調査』は五十嵐農場の沿革につき、「最初明治三十年八月人見安次外二名ニ貸付、夫ヨリ同三十二年十月中島覚一郎外一名ニ譲渡、同三十八年四月付与ヲ受、同四十二年六月現農場主ノ所有トナル」と記している。

 最初の人見農場は、人見寧(元栃木県知事)、人見安次ほかが明治30年8月に貸付けを受けたもので、この年から開墾に着手し小作も12戸が入場したという、上富良野町内でも早期に属する農場である。しかし、この人見農場は32年10月に中島覚一郎に譲渡されて、農場支配人として岩崎虎之助が赴任経営されることになった。中島覚一郎が得た貸付け地は、長野県下伊那郡鼎村の中島エン外1名が貸付を得た89万8950坪のことであり、成功期間は明治31年から40年とされている(大地積貸付表)。『村勢調査基楚』によれば中島農場は、「全部成墾セルモ地味概シテ肥沃ナラス。全部畑地ニシテ将来モ亦水田タルノ見込地極メテ少ナキカ如シ」としている。

 所有者の中島覚一郎は長野県下伊那郡鼎村の旧家出身で(安政6年生れ)、諸種の事業を興した実業家であった。上富良野村の他に40年に一己村、奈井江村の山林を購入し造材業に手を染めたが失敗し、上富良野村の農場も42年6月に五十嵐小公に譲渡することになる。農場支配(管理)人の岩崎虎之助は、長野県下伊那郡伊賀良村の出身で32年3月から管理人を勤めたという。また同郡新村出身の奥村秀太郎は商業部主任であったといい、牧野吉蔵のような蹄鉄・鍛冶工も招致しており、農場主との関係で長野県下伊那郡の出身者が農場の幹部を占めていた。

 中島農場への入植者としては高松恭助、中善豊松、静野伊三郎、中田弥市、吉田仙吉、永井末吉、十川茂八、松原勝三、有塚利平、森田喜之八、住友与平などが知られている。『村勢調査基楚』では中島農場は小作70余戸となっている。

 五十嵐農場は『北海道農場調査』に、中富良野より上富良野に介在し所有者は五十嵐小公、管理人は五十嵐合資社としており、土地面積は畑233町2反7畝23歩、林地100町歩、合計333町2反7畝23歩であった。小作戸数は45戸で郷里は徳島県2戸、岐阜県9戸、富山・宮城県各8戸、長野県6戸、福島県3戸となっている。

 

 倍本農場

 東中の倍本農場について『上富良野志』は以下のように記す。

 

  同農場の名称は元出願人吉植庄一郎、大木七郎右衛門、藤江鎌次郎の三名より命名せし農場の名称なるも、今や個人の所有となり其実を留めず。

  出願当時は明治三十一年にして一四三万八千町歩[ママ]成墾の業を完(まっとう)ふせず引上となるもの、転々して他人の所有となるものあり。該農場の開墾着手は明治三十二年、則ち出願の翌年にして移住者は奥田亀蔵、廣瀬七之丞の両氏にして実に其の開墾なりとす。農場内の全戸数二十八戸、猶ほ大部分は未開地に属するを以て漸次移住者の増加を見る可し。本年米の試作を為せしに、其結果良好なれば移住者も随って多きを加へむ。

 

 ここで記されているように倍本農場は当初、吉植庄一郎、大木七郎右衛門、藤江鎌次郎の3人により出願されたものであった。

 『村勢調査基楚』は倍本農場につき小作35戸、「農場ハ唯名義ノミニシテ個人ニテ開墾シツヽアリ。目下未付与ナリ」と記しているが、成功検査を待たずに「引上げ」となった。やがて入植者個人に貸下げを得るようになる。

 倍本農場に移住した奥田亀蔵、廣瀬七之丞はともに岐阜県揖斐郡坂内村大字広瀬の出身で、明治28年に栗沢村の必成社に移住した後、32年に倍本農場へ移ったのものである。坂内村は山間の農村で必成社をはじめとして、帯広の岐阜団体など北海道移住者を多く出した村であった。その他、入植者としては神谷清五郎、久野甚松、宮崎与太郎、泉六太郎、泉磯之丞、井田権助、伊藤達治などが知られている。

 

 橋野農場

 東中の橋野農場について『上富良野志』は以下のように記す。

 

  同農場は極めて最近に着手せし農場なり。場主は橋野安太郎氏にして元高谷、辻村両氏の所有なりしを買取り明治四十一年七月事務所を設置し開墾に着手せしものなり。其町歩は五百町に亘たるも土地は傾斜の場所あり、或は磽确にして耕転に適せざる場所無きに非ずと雖も、熱心移住を奨励の結果清真布〔粟沢村〕辺より来住せしもの同年度に於て四十余人、猶ほ相次て移住するもの多きを以て開墾の業著大なるものある可し。

  事務主任として沖長小右衛門氏誠意熱心小作人を導きつヽあるを以て、小作人何れも満足せり。

 

 また、『北海道農場調査』には沿革について、「明治三十八年十一月高谷久春ニ貸付許可、夫ヨリ橋野作之助譲受、四十五年一月分賦附与トナル」と記し、管理人は小橋彦七であった。土地面積は畑219町3反歩余、林地257町9反歩余、合計477町2反歩余であり、小作戸数は50戸で郷里は岐阜県15戸、宮城県12戸、石川県8戸が多い方でその他11県に及んでいる。

 場主の橋野安太郎はもと岩見沢村の金子農場の管理人をつとめ、そこで知己となった沖長小右衛門(広島県山県郡新庄村の出身)を当初、管理人に招いたという。入植者として神谷継松、仲井藤、広川由造、岩山広吉、小栗粂三郎などが知られている。

 

 永山農喝

 富原の永山農場は上川郡永山村渡辺徳三郎外8人が、区画地51万3685坪を31年から37年の成功期間で貸付けを得たものであった。『上富良野町史』が紹介する「富良野村総代会ニ関スル書類」によると、渡辺徳三郎ほか9人の組合農場で貸付け坪数は51万3685坪(内1万5000坪は十勝道路及び河川堤防地として除地)とされる。

 組合員は渡辺徳三郎、宮北太平、中尾伝七〔吉〕、近藤、樋口和三郎、宮北忠平、宮北清七、城戸清三郎、中村久吉の9人となっていた。このうち、渡辺徳三郎は徳島県麻植郡牛島村、中尾伝七は同県同郡倭文村字流組の出身で、明治24年7月に屯田兵として上川郡永山西兵村に移住した人々であった。宮北太平と忠平は親子であり、草分神社の木札によれば出生地は徳島県名西郡浦庄村字下浦であり、明治22年に兵庫県神戸市加納町に移り、やはり24年にて永山西兵村に移住したのであった。32年3月に永山農場を組織したというが、忠平は後に市街地の雑貨、雑穀商となり、日の出に牧場も経営し、村議に選ばれたこともあった。

 『上富良野志』によると、「其面積は三十三戸、上川郡永山兵村の居住者樋口和三郎氏外八名の協同にて譲り受け、明治三十二年四月六日移住し開墾に従事す。此を以て永山農場の名称あり。然れとも何れも単独の所有なるが、其重なる人は樋口和三郎、城越源蔵、高松良助、小瀬市五郎、中尾伝七、林甚吉の諸氏なり。全部付与となりしは明治三十九年なり」とする。協同で土地の貸付を得て、小作を入れて開墾したものである。ここにいる城越源蔵は中尾伝七〔吉〕と同じく同県同郡倭文村字流組出身で永山西兵村の屯田兵、樋口和三郎は兵庫県三原郡榎並村出身で屯田兵の家族とみられる。

 『北海道毎日新聞』には31年6月に「堀井民蔵氏方へ十戸の小作移民あり」(明30・4・29)、「堀井外二名(永山兵村の其々入り込み永山農場と称す)」(明31・4・13)との報道があり当初、堀井民蔵が農場管理の役割をになっていたようである。

 永山農場への入植者としては杉本助太郎、大崎利右衛門、後藤信太郎、角善仲太郎、小川喜助、日置健四郎、熊崎助七郎、小瀬市五郎、桑田岩太郎、高松重松、高松良助、笹野藤吉、小森竹一郎、今井清一郎、中田春造、早坂清五郎、木村健作、三浦忠一郎、島崎卯太郎などが知られており、中瀬市五郎(岐阜県大野郡庄川村字寺川堂の出身)は農場地を買い取ったという。

 

 田中農場

 東中の田中農場は『上富良野志』に、

 

  同農場は三十戸の小農場に過ぎずと雖も事務大に挙り、完全なること島津農場の次げり。農場主は田中亀八なるも開墾の為め入場し、成墾の業を大成せしは氏が厳父〔八太郎〕並に令弟〔米八〕なりとす。其着手は寧ろ嶋津、中島の両場よりも尚早く令弟米八氏は明治三十年五月、農場に着手せしと云ふ。全部水田に適するを以て頗る好良の農場なりとす。

 

とされ、小作は30戸という小農場ながらも、島津農場につぐ優良農場とされていた。開場当初から、「田中八太郎氏は最も開墾に熱心し、成績の宜しきは本原野の第1に居る」(『北海道毎日新聞』明31・1・22)ともいわれており、フラヌ原野の草分け的な存在の農場でもあった。31年6月に、「田中八太郎氏方へ十二戸六十人」の「小作移民」ありとされている(『北海道毎日新聞』明31・6・10)。

 田中亀八は徳島県那賀郡富岡村大字路見村の出身であった。

 『上富良野志』によると亀八は、「北海道移住の有望なるを知り開墾に志すこと数年、令弟米八氏曩(さ)きに渡道し実地に明かなる故を以て貸付地の出願を為し十六戸分の許可を得、明治三十年六月より開墾に着手せり」とされ、当初は弟の米八が農場の管理経営を行い、亀八は明治38年に移住したという。田中農場は大正6年に安井慎一に譲渡され、安井農場となった。

 

 写真 田中農場主田中亀八(右)と弟の米八

 写真 田中亀八家の開墾生活

  ※ いずれも掲載省略

 

 カネキチ農場

 江幌のカネキチ農場は北26号西6線から西8線付近にあり、明治40年に貸付を得て41年から開墾を開始したものである。土地面積は畑80町歩、林地40町歩、合計120町歩とされ、小作戸数は14戸であった(『北海道農場調査』大2)。農場主は下富良野村で旅館、カネキチ清水旅館を経営していた清水運吉であったが、『北海道農場調査』では男子の一雄が所有者とされている。

 

 村木農場

 江花の村木農場は明治35年11月にヱホロカンベツに村木久兵衛が、未開地貸付けの申請をして貸付を受けたものであり(「北海道国有未開地貸付処分法完結文書」北海道立文書館蔵)、36年から開墾に着手された。面積は田6町歩、畑50町歩の計56町歩であった。所有者は村木久兵衛であったが、経営は自作と小作の兼業の形態を取り、小作は16戸であった(『北海道農場調査』大2)。もともと農場地は湿地で開墾に苦しみ、小作には地内の林木を製炭して生活資とし漸次、成墾の法をとったという。

 農場は男子の久次郎に引き継がれたが、久次郎は滋賀県愛知郡秦川村大字円城寺の出身であり、42年7月に農場経営のかたわら、上富良野村役場の吏員を勤務したという(『上富良野志』)。入植者には踊場為蔵、石川庄一、中川金一郎、新屋弥十郎、新屋安五郎などが知られている。

 

 新井牧場

 日新の新井牧場は新井鬼司が字フーラヌイに、馬蕃殖を目的とした牧場として明治34年から42年までの成功期間で195万9251坪の貸付けを得たものである。新井鬼司は文久元年(1861)に埼玉県北埼玉郡水深村大字大室で生まれ、同県では大屈村戸長、県会議員、立憲自由党関東会・関東倶楽部の幹事などをつとめていた。大正九年九月に道会議員に当選、立憲政友会に所属していた(『北海道人名辞書』)。

 『村勢調査基楚』によれば新井牧場は小作50戸、「目下開墾ニ従事シツヽアリ。将来水田ノ見込ナシ」とされている。入植者には佐川岩治、佐川政治、佐川民五郎、北村留五郎、狩野覚三郎、菊池長左衛門、佐々木留治、佐々木運吉、菅原賓右衛門、尾形喜蔵、荒井勘次郎、佐藤和助、新出久太郎、高橋仁三郎、菊池秀吉、菊池長右衛門、藤田宗吉などが知られている。

 

 津郷農場

 里仁の津郷農場は、津郷三郎が明治42年に開いたもので面積は350町歩であった。津郷三郎は明治7年に香川県綾歌郡長炭村に生まれ、25年8月に屯田兵として旭川上兵村に移住した人物で、39年に樺太に渡って漁業、海産物業などで財をなし、大正4年12月に旭川町の石川卯之助から譲渡を得て農場を開いたものである。昭和10年に村上盛に譲渡された(『上富良野町史』)。入植者には菅野忠蔵が知られている。

 

 写真 津郷農場主津郷三郎

 ※ 掲載省略