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2章 先史から近世までの上富良野 第4節 松浦武四郎と上富良野

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2 武四郎の十勝越え

 

 十勝越えの目的

 松浦武四郎は、昨安政4年の石狩川筋調査行において、ビエ・フラヌイ辺りのアイヌ民族の大半はトカチへ逃避したことや、昔から上川〜十勝間には自然の通路があったことを知り、将来石狩〜上川〜十勝を結ぶ大道を切り開くべく、その道筋を見立てるのが、安政5年における十勝越えの主目的であった。

 富良野盆地にかかわる近世文書は、安政5年松浦武四郎の野帳『午第一番手控』、報文日誌である『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』第5巻、ならびにこの『戊午日誌』を要約していささかの文飾を加えた紀行集『十勝日誌』が見られるだけのようである。従ってここでは、『戊午日誌』をもとにしてペンを進めたい。

 安政5年2月21日石狩を出立した武四郎の一行は、3月2日チクベツ(忠別)番屋に到着し、石狩川上をウエンベツ(宇園別)まで一見したあと、堅雪の上を十勝へ越える仕度をととのえ、案内人と人夫(荷物食糧運搬人夫)は道すじを知っているものと一部入れ替えた。

 すなわち武四郎、飯田豊之助ほか、下サッポロ乙名・クウチンコロ(後姓門野、43歳)、アイランケ(30歳)、上サッポロ乙名・シリコツ子(同平石、39歳)、ニポンテ(同荒城、33歳)、上カバト乙名・セツカウシ(31歳)、イワンパカル(同石山、30歳)、タヨトイ(28歳)ほか石狩から同行したアエコヤン、サダクロウ、イヤラクル、サケコヤンケの11人に、途中ベッチウシ(神楽4丁目付近)からイソテク(同鹿田、44歳)が加わり12人となった(一行14人)。

 一行のうちシリコツ子と、イソテクもビエ・フラヌイ生まれだったのであろうか、両人を先導として3月9日チクベツを出立した。

 ところで、チクベツには子供2人をもつイナヲクシ(43歳)という独り者がいたが、昨4年イソテクの姪フツマツ(21歳)を連れて十勝へ駆け落ちした。そのさい、イソテク家とシリコツ子家から太刀や鍔(つば)など19品を無断で持ち去ったので、武四郎は両人から「この度彼の地へ行き候はゞ、何卒して其者を捕らへ、品物など取り返しくれ候様」頼まれ、「それは易いことである」と承知して歩を進め、美瑛川支流の夕張川筋に当るホロナイ(美瑛町美田第二)に露宿した。

 

 写真 下サッポロ乙名・クウチンコロ

  ※ 掲載省略

 

 3月10日

 翌3月10日は夜明け前に出立。然るに、案内のシリコツ子を番屋の者たちは「至っての不道者である」と悪く言っていたが、川端にさしかかるといかなる時でも、シリコツ子は荷物をそこへ置いて1番先に瀬踏みを行ったうえ、武四郎や飯田を背負って渡してくれた。その実意に感じ、武四郎は後日に陣羽織を贈ることとした。

 ホロナイからほぼ東南東に向い、原野3線地先で置杵牛川を渡り、藤野中央で美瑛川を越えてから進路を南に取り、美馬牛川の水源を確めてから、西南西へ∪ターンして上富良野町域へ足を踏み入れた。陽暦4月23日に当たる。

 そしてポンカンベツ(江幌完別川)沿いに下って、山間から流入しているポロカンベツ(金子川)から両岸を沢に沿って下る。

 武四郎が右岸側を歩いていたならば、深山峠に上って寸時の間、周囲を眺望したことも考えられる。沢なりに下ったが、行く手が崖になったので上の原に上り見回したら、左右の谷は椴木ばかりで、融けない雪は深そうに見えた。南下して西3線北30号付近のシャリキウシナイ(形ばかりの無名小川、大正15年の十勝岳爆発時まではあった)に来る。芦萩が多いことから名付けられた。

 大川フウラヌイ(富良野川)を越え、17、8丁間丈の低い笹原の丘陵地(西1線北29号〜基線北30号地域)を歩き、その高台地から蝦夷中央奥地である現在の富良野地方の地勢を「一か国位とも見られる平野にして、土肥え暖気にて、雪少しもなし。実に一大良域と云うべきの地味なり」と述べている。そこを過ぎ、クヲナイ(コルコニウシベツ川)という小川を越えて、ほどなくレリケウシナイ(旭日川)の川端に着くと「これより先は飲用できる水がない」というので、ここに露宿することにした。

 その辺りはカタクリや福寿草が多く、フキのとうもあるので摘んで食べたが、案内の者たちはこれを食べることを好まない由である。イワンパカルとタヨトイは弓矢を持って鹿を獲りに出かけ、他の者は仮小屋作りや魚釣りを行い、イヤラクルには明日歩き易くするため茅原に火をつけさせた。ところが夜になるや風が起こって火を吹き散らし、天をも焦がすばかり火焔を吹きまくって、百雷の落ちるが如くバリバリと鳴りわたり、狩りに出た両人は一頭も得ず空しく帰ってきた。

 

 3月11日

 翌11日、その野火の明りに東天も知らずに寝過ごし、あわてて支度し焼け野原を出立した。3、4丁も行くと、山の方にも火が及んだためそれを逃れて5頭の鹿が飛び出して来た。案内の者は「それっ」とばかり荷物を打ち捨てて四方から攻め、ついに1頭を射止めることができた。今の上富良野市街を北から10丁(約1`b)ほど下ると、幅7、8間のフシコベツ(古川、現宮町3丁目付近)があった。「水乾きて少しもなし」と述べているので、数年前の川跡であろう。『日誌』では何川の跡か不明だが、野帳の『川筋取調図』によれば、イワヲベツの古川で、今の上富良野市街東端である。この辺りで朝日が上り(5時ごろ)また南南東へ5、6丁行くとイワヲベツ(ヌッカクシ富良野川)。硫黄が焼けているビエ岳(十勝岳)から落ちているのでこの名があり、水は酸味があって飲むことはできない。

 また17、8丁を行くと(東3線北22号付近)レボシナイ(ホロベツナイ川、ポロペポツナイ)、両岸はハンノキばかりである。

 3 4丁東に行くと(東4線北22号付近)コロクニウシコツという、レポシナイの分派した小川があり、ハンノキ、カバが多く生えている。さらに13、4丁東に行くと山にさしかかり、5、6丁も登ると原野一面に燃えている煙を超えて彼方にアシベツノボリ(芦別岳)が聳(そび)え立っている。今日は、この辺りから四方の山々を眺望するのを楽しみにして来たのに、昨日の野火は思いの外数里四方にも焼け広がり、今朝の2里ほどは歩き易く道もはかどったが、その煙で山々を見ることができないのは、甚だもって残念なことであった。『上富良野町史』に、佐藤根重次郎談として「今の自衛隊の演習地は(明治30年)入地のとき一面の焼野原で立木が枯れ、萱山(すすきの原)となっていたが、ここはアイヌの往来するルートであった」と書かれている。これはその40年前の野火の焼け跡だったのであろうか。

 さらに1里ほど上るとニヨトイ(自衛隊上富良野演習場西端付近)。ここは山の峰のような所でカバ木立である。2丁も行くやトド、ナラが見え、下草は大きなクマザサとなった。5、6丁も過ぎると、二抱え三抱え(径1b以上)もあるトドの大木が鬱蒼とした中に入り、そこを3丁計(ばか)り行き右の方へ下りると、まだ深い雪に埋もれている。雪のある所は堅雪なので歩き易いが、雪のない所はクマザサのため歩きにくそうである。自衛隊上富良野演習地G高地付近で雪の上に出ているクマザサにすがり百間(180b)も下がると小川(ベベルイ川支流)があった。ここは平地になり、同じくトド原で雪が深い。川に沿って5、6丁上ると右手ベベルイの川端に着いた。川幅7、8間。転太石(ごろたいし)の浅瀬急流で、魚はいないそうである。大木が倒れていたので、それを渡って川向うへ越え、17、8丁も東へ行くとサッテキベベルイ(カラ川)、乾いたベベルイ川という意である。

 雪に埋もれているので水があるかないかは分からないが、川の上で焚火し雪を沸かして昼食をする。それから雪の積もった川の上をこなたへ飛び、かなたへはねたりして10丁も遡ると、いよいよ雪が堅くなり、山が険しくなってきた。鼻をつくばかりの急斜面を20丁ほど登ると、昨日あたり歩いたかんじき(雪輪)の跡がある。案内の者は「これはトカチの者の足跡である」というので、その跡をたどり5、6丁も上ると、一抱え二抱えのトド木立の平地に一昨日あたり泊った跡があった(カラ川の水源の辺り)。

 この辺りへ来ると、最早ベベルイ川のどのあたりか分からなくなり、どうしようかと思案していたところ、シリコツ子が「これより上へ行くとトドの木も薄くなり、寒風にさらされるようになるので、この所に泊るべし」というのに任せ、ここに宿泊した。トド松、エゾ松に覆われて空も見えないほどであり、あたりにはカバ、ナラ、カエデも見え、サクラも多い。しかし何れも松にさえぎられ、あまり成長していない。夜に入ると、狼の遠吠えが絶え間なく聞こえてくる。

 

 3月12日

 12日、まだ七ツ過ぎ(この時期では3時2分頃)と思うころ起きて、鍋で雪を沸かし朝食をとる。それから、案内の者は帰りの食料をここへ残して置き、支度をして出立した。

 山はいよいよ険しくなり、10丁ばかり上るとカバとエゾ松だけになった。松は二抱え三抱えの大木のみで、カバは屈曲し、あたかも人が左右の手を振り踊っているようである(タブカルニ、踊り木)。その辺りからは滑って上り難くなったので、杖を横突きにしたり、マサカリで足がかりを削ったりして30丁ほど上るとようやく峰にたどり着いた。ここは10丁に5丁ほどの平地で、高さ5、6尺の五葉松(ハイマツ)が繁茂しているそうだが、みな雪に埋もれ、カバの梢が2、3尺出ているばかりである。右の方には上の尖ったヲッチシバンザイウシベ(前富良野岳)、左の方にはヲッチシベンザイウシベ(富良野岳)という岩山が聳(そび)えてビエ岳、ベベツ岳、チクベツ岳の方に連なり、両山の鞍部であるこの所はルウチシと称している。ルウチシとは路を越えるという意だそうである。ここでしばしの休息をとり、木幣を削って天地の神に捧げた。

 以降は富良野市、南富良野町の区域に入るので略記すると、東南の方へ向かって布部川水源を渡り、シーソラプチ川(空知川源流)の二股へ下って露宿した。ここで乙名たちが申すには、シリコツ子は昔トカチへ行って女房(シトンレ)をもち、22歳になる男子(ウカリアイノ)がいるよし。恐らく再嫁しているであろうから、今更対面するのは心苦しかろうというので、タヨトイを付けてここから戻らせることにした。

 

 トカチのアイヌ民族

 13日、両人と別れて険しい谷間いをよじ登り、十勝境と思われる峰にたどり着いた。ここでよく磁針を確かめず、佐幌水源と思われる渓間に下がり、よくよく見ると昨夜泊ったシーソラプチ川の下流である。腰を抜かさんばかりに落胆したが、暫く休んで気をとり直し、再び先ほどの峰に登ることができた。今度は晴れ渡っていたので迷うことなく佐幌川へ下ることができ、14日ニトマフ(人舞)の乙名アラユク家に至ると、クウチンコロ、セツカウシ、イソテクは昔訪れたことがあるので、大喜びで久闊(きゅうかつ)を叙することができ、また出奔(しゅっぽん)したイナヲクシ、フツマツはビバウシ(清水町明生)の乙名シリコンナの家に匿われていることが分かった。

 16日、シリコンナ家に至り、イナヲクシに出奔の理由をただすと、元々はトカチで育ち、若いころからチクベツへ行っていたものだが「二十五、六歳になるイサリカイと申す倅と、十九か二十歳になる娘がいたのに、七・八年前から浜へ取られて一度も家へ帰されず、生きて何の望みもなしと存じ、かくの如き所業に至った次第です」と涙ながらに訴えた。これを聞いた飯田は驚き「そのイサリカイとやらは、番人の妾にされていたタマチシカラという女の子を去冬妻合(めあ)わせ、妹にも夫を持たせ、今年は山へ帰す手筈である」と語った。イナヲクシは、乙名のセッカウシ、クウテンコロに問い、それが嘘談でないことが分かるや、笑顔にかえって落涙しながら、武四郎や飯田にオンガミ(拝み)をなし感謝の意を表した。

 しかし飯田は、婦女をかどわかした盗犯者であるとして、縄を打って連れ戻そうとしたが、シリコンナ乙名は「私は難渋者と見て匿っていただけである。持参の品は一品も失われていないので、持ち主へお返しすることにする。まだ十勝会所へも届けていないので、情状酌量のうえ隠便な処置を」ととりなし、飯田はアイヌ語を解さないこともあり、シリコンナと武四郎に一任した。

 これは、トカチのアイヌ民族を不法に石狩の漁場へ強制出稼ぎさせたのがその遠因であるため、武四郎とシリコンナはその罪を問わず、クウチンコロの一行と共にイナヲクシをチクベツの息子の元へ帰すことになった。

 このあと武四郎は十勝川を下り、21日大津で飯田と別れたあと釧路に至って、アカンからアバシリ越えの調査に向かうことになる。

 

 夏の道と冬の道

 ところで『北海道道路史』には「石狩と十勝を結ぶアイヌの道路は、武四郎の(紀行集)『十勝日誌』の通路からみると、それは現在の忠別太・美瑛・上富良野・富良野市原始ケ原・南富良野町北落合・新得町の線上を通過していることが解る。しかもこの通路は、現在の国道路線ともほぼ一致しているのである」と述べている。「武四郎の通路と現国道はほぼ一致」という記事はいささか疑問があるとしても、現代人の感覚から見れば「上富良野から富良野川口まで下がり、空知川を遡って狩勝峠を越え新得に至るルート」即ち現国道沿いが迷う恐れもなく、急斜面の登り下りもない最も安全な道筋ではなかったか、と考えられる。そこで、クウチンコロたちは、ウクリに苛責の限りをつくした支配人番人たちの同類と目される、役人の飯田豊之助が同行したため「十勝越えの安全な道を知られたくない」「十勝へ逃避したウクリが連れ戻され、幸い目に遣わされる憂いもある」という意識を働かせ、現在に至っても完壁に究めることができないような通り筋を、敢て選択したのではあるまいか、とも推測した。

 しかし『上富良野町史』にある古老談では、この道筋があったのは確かなようであるし、『道路史』の記事から思い起こすと、空知川筋の安易な道筋があったとしても不思議ではない。すなわち、武四郎を案内したのは「夏は熊笹で歩き難い」個所が多く、堅雪の季節に通る「冬の道」で、旭川〜新得間の最短ルートである。

 そして、夏期は多少遠回りにはなるものの、歩き易い空知川筋の自然の道を往来していたと思われ、クウチンコロたちは故意に険阻な道筋を歩かせたわけではないことがうかがわれる。

 

 図2−11 武四郎一行の通路

  ※ 掲載省略