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2章 先史から近世までの上富良野 第4節 松浦武四郎と上富良野

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1 武四郎の蝦夷地調査

 

 最初の和人

この富良野盆地に、最初に足跡を印した和人は誰であろうか。

美瑛町に間宮という地名が存することから、幕府御雇の間宮林蔵が美瑛川筋を測量した可能性は強い。その年代は文化14年(1817)の9月ごろと推定されるが、その著した蝦夷図(北大図書館蔵)の空知川筋には、漠然と「フラヌイ」「ヌモッペ」が記されているだけなので、単なる聴き取りであろうと思われる。

また、林蔵から測量術を学んだ松前奉行所同心今井八九郎は、文政5年(1822)松前藩新組徒士(三人扶持十両)に召抱えられ、同11年から蝦夷地の測量に従事した。そして天保12年(1841)蝦夷地全図を呈上し、先手組(110石)に昇進している。従って富良野盆地へも測量に足を運んだ可能性は大きいが、裏付ける文献はなく、その地図も今のところ所在がわかっていない。とすると文献上では、安政5年(1858)幕府御雇(箱館奉行支配調役下役格。のちの尉官待遇軍属と同じ)松浦武四郎が、蝦夷地山川地理取調御用として足跡を残したのが最初の和人となる。もっともこの時は石狩詰調役下役の飯田豊之助も同行した。

 

写真 松浦武四郎

※掲載省略

 

 武四郎と日誌

 松浦武四郎は文化15年伊勢国須川村の郷士松浦桂介の四男に生れる。16歳の正月故郷を出ていらい全国を旅行して数多の紀行集を著した。別ても弘化2年から3回にわたる蝦夷地紀行では、初の本格的蝦夷地誌(地理歴史書)を著し、この上ない蝦夷地通として世に知られるようになった。その実績によって安政2年幕府御雇に登用され、翌年から山川地理取調御用として3年にわたって蝦夷地を隅なく調査し、報文日誌である『東西蝦夷山川地理取調日誌』26巻を幕府に呈上した。次いでその普及版として、報文日誌を地域毎に要約してまとめ、文飾をほどこした『蝦夷紀行集』22巻を刊行した。一般に流布された『石狩日誌』『十勝日誌』などはこの紀行集である。明治2年開拓使が設置されると、一躍開拓判官(今の本省局長と同じ格)に登用され、北海道の名付け親としても名を知られているが、わずか7カ月を経た3年3月に判官を辞任した。以降は一市井人として世を送り、明治21年71歳で没した。

 ところで、前記の『紀行集』が松浦武四郎日誌と是認されていたわけだが「確かに内容は興味があるが、フィクションがあるので蝦夷地史料としてはいただけない」という見方が支配的であったことから、近藤重蔵とか伊能忠敬、最上徳内、間宮林蔵などの先覚者に比べ、その人物像はいちじるしく損われていた。幕府に呈上した『報文日誌』が安政の大獄によりお蔵入りになったらしいのがその要因である。それが、1970年代に入ると『報文日誌』の稿本が東京の松浦家に秘蔵されていたことが知られ、同家の厚意により120年振りに相次いで陽の目を見る(刊行)に至ったのである。そして内容は、山川地理取調の精細もさることながら、100余年にわたり虐げられてきたアイヌ民族一人ひとりの生活態様を取り上げ「放任されるならあと3、40年を経ずしてアイノ民族は滅びる恐れがあります」「明日の御開拓も尤もながら何卒して今日のアイノの命を救って下さい」と、随所に切々と訴えている。不幸にして武四郎のこの願いは、幕府にも明治政府にも取り上げられないまま、蝦夷地5圏域(南海岸・西海岸・北海岸・千島・樺太)のアイヌ民族文化は、開発優先の施策のため衰亡の一途をたどり、南海岸(太平洋沿岸)と上川地方にのみ辛うじて残ったことは歴史的事実である。これは現代にも通じ「行政の至上命令は人命(福祉)を守り文化(教育)をそだてることにある。然るうえ開発(国富)を図るべき」という理念から、にわかに松浦武四郎の人物見直しがはかられるに至った。

 

 箱館出立

 さて、安政5年1月15日松浦武四郎は箱館を出立するに当たり

 

  此度3度日の山川地理取調、并びに新道切開きの見立等仰付けられ候。

  然るに場所請負人共の中には、是は無益の儀にて、空しく場所々々の人力を費し、かつ費用も相懸り候等と嘲る輩も之有り候。是と申し候は、是まで不法にアイノを苛責致し来り候振舞、并びに強婬、奸奪等の儀露顕致し候哉の懸念に御座候。従って今般の調査行は如何なる危害に遭遇するやも計り難く、死を覚悟仕り候て出立致し候

 

という旨の決意のほどを、上司の調役下役元締梨本弥五郎に提出している。

 次いで23日には箱館奉行村垣淡路守から内談があったが、武四郎は前年8月28日アイヌ解放を主意とした石狩場所改革について、長文の建白書を提出していたので、このとき石狩場所改革、即ち場所請負を廃止して非道な支配人番人を排除し、直轄にする奉行の決意が打ち明けられたと思われる。梨本からも「伺書の趣は承知した」旨の回答を得、意を強くした武四郎は、1月24日箱館を出立した。

 

 同行のアイヌ民族

 そして、2月12日には虻田のアイヌ民族を案内人として同所出発、雪中を冒して今の中山峠越えの道筋を踏査し、8日間を費して19日石狩へ到着した。ここでいよいよ十勝越えの仕度をととのえ、案内人にはシノロ(深川)小使イソラム(37歳)、上川のノンク(45歳)、サタアイノ(サダクロウ、後姓山中、30歳)、サケコヤンケ(同栗山、24歳)、イヤラクル(同布施、25歳)、タカラコレ(同石川、30歳)、イナヲサン(同今井、24歳)、アエコヤン(同荒井、31歳)とツイシカリのイコリキナ(21歳)の9人を人選した。そこへ22日夕方飯田豊之助が留萌から帰着し、「ぜひ同道致したい」旨申し入れがあったので、23日出立予定のところ1日延期することにした。石狩元番屋では、案内人から自分たちの非道な行為が告げられることを懸念し「番人を加えていただきたい」旨申し出があったが、「その必要はない」と断ると、通辞与左衛門は「イソラムはこの頃眼病で臥せているので差し出せない」と断ってきた。ところがイソラムは22日朝武四郎を訪れ、「番屋では私をニシン場へ連行するため山行を承知してくれないので、何卒同行させてほしい」と頼まれており、眼病は全くの嘘いつわりであることが明らかなので場所詰調役並荒井金助(のちの支庁長格)に談じ、ようやくイソラムの同行を承諾させることができた。このように、番人たちの横暴は日常茶飯事としてまかり通っていたのである。