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2章 先史から近世までの上富良野 第2節 先史時代の富良野盆地

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2 富良野盆地の先史文化

 

 先土器時代の富良野盆地

 富良野盆地において先土器時代の遺跡が発掘調査されたのは、昭和61年(1986)の富良野市東麓郷一遺跡及び東麓郷二遺跡(『東麓郷一・二遺跡』昭62)の2カ所だけである。また、上富良野町では、先土器時代の遺物と思われる資料は、草分三遺跡から発見された黒曜石の石核と日の出三遺跡、東中二遺跡から見つかっている有舌尖頭器があるが、耕作中などの採集品なので、どのような石器の組み合わせになるものか詳細はわからない。

 現在まで、富良野盆地内で知られている資料では、北海道で最も古い段階に位置付けられている千歳市祝梅三角山遺跡、河東郡上士幌町嶋木遺跡などに対比されるような古い石器は、まだ発見されていない。

 発掘された東麓郷一遺跡は、先土器時代の最終末に位置付けられている有舌尖頭器の石器群で、掻器・彫器を伴い、細石刃を伴わない石器群として報告されている。これに対して康麓郷二遺跡の方は、「組成は尖頭器・掻器・削器・彫器・石刃・石斧?・細石刃?などで」、先土器時代の遺跡であるが、報告者も「このような石器組成をもつ文化は今のところ見当たらないことを考えると、いくつかのステージがあり、しかも自然の営力や後世の人為的なかく乱によってそれぞれの石器組成に欠落があるとする見方が妥当のようである」と述べているように、明瞭な位置付けがなされていない。

 この発掘によって得られた黒曜石の水和層による年代測定の結果、東麓郷一遺跡の1点は1万700±600年で、もう1点は1万700±700年と同じ年代であった。また、東麓郷二遺跡の1点は1万2000±600年で、もう1点は1万3500±700年と差がある。また、二つの遺跡の間でも2000年前後の年代差が示されている。

 報告書の中では、この二つの遺跡の他に、富良野市内で先土器時代の遺物が発見されている遺跡は、東山七遺跡、南麓郷三遺跡、西麓郷五遺跡、東山一四遺跡、老節布いちい遺跡の5カ所が挙げられている。また、南富良野町落合一遺跡、そして上富良野町草分三遺跡、日の出三遺跡、東中二遺跡でも存在が確認されている。

 これらの遺跡を含めたとしても、10カ所ほどしかない。広大な広さをもつ富良野盆地の面積、及び先の年代測定から例え、富良野盆地の先土器時代を2000年として考えても、あまりにも少ない数字である。

 

 図2−1 東中2遺跡の有舌尖頭器

  ※ 掲載省略

 

 先土器時代の人の動き

 今日までの先土器時代の研究の中で、遺跡そのものが、どれくらいの間、生活の場になっていたかについての示された報告の存在を知らない。また、私自身その判断はできない。しかし、東麓郷一遺跡の総体を見たとき、長期間、世代にわたって生活していたというようには考えられない。もちろん、定住的な生活を始めるのは、縄文時代になってからであり、先土器時代は定住的な生活ではなかった、といわれている。しからば、このような遺跡の存続期間は、数ヵ月間生活したのか、一シーズンなのか、数シーズンにわたる生活の跡なのか明瞭ではない。しかし、総体点数、有舌尖頭器の廃棄状況から見て、一定期間生活の拠点であったことは間違いない。

 東麓郷二遺跡の場合は、その石器の組み合わせに疑問を持ち、年代測定の数字に開きがあることから、先に生活していた集団が去った後、何年か、何十年かたって、違った集団が再び生活した跡かもしれない。

 また、調査された二つの遺跡と他の遺跡とは、どのような関連があるのかについても分からないが、例えば、2000年という長い時間を考えたとき、これだけの遺跡数では、何百年に一度、人々の生活が見られ、その後、他の地に移動していったという印象にしかならない。

 この東麓郷の調査を担当した杉浦重信は、遺跡から出土した黒曜石の分析を依頼し、その分析結果も含めて、「北海道における黒曜石の交易について」(『古代文化』第42巻第10号)の中で、次のように述べている。

 

  上川地方南部の富良野市東麓郷一遺跡・東麓郷二遺跡は、いずれも旧石器の遺跡であるが、その利用頻度が大きく異なっている。東麓郷一遺跡では、富良野に原産地があると推定されているFR群が57l、十勝21l、置戸16l、白滝3lであるのに対して、東麓郷二遺跡では、白滝82l、FR群12lで十勝・置戸は検出されていない。また、石器全体に占める黒曜石の比率は東麓郷一遺跡が70l、東麓郷二遺跡は99lと相違が認められる。富良野と道東部の白滝・置戸・十勝の三原産地との距離やそれを結ぶルートの地理的な条件がほぼ同様にもかかわらず、差異があるのは時期や文化的な系統が異なることを暗示している。

 

 少なくとも、この二つの遺跡は、測定年代が大幅に違い、石器の組成も違っているわけだから「暗示している」のではなく、時期も、文化も明らかに違っているのである。

 この分析結果から読み取れるものは、古い方の東麓郷二遺跡の場合は、その原産地・白滝から大雪山系の北側を回って、西側の上川盆地、そして富良野盆地に達するルートが考えられる。この東麓郷二の地に、生活の場を設ける以前は、このルートに沿った場所で生活し、そこから移ってきた可能性が考えられる。また、この東麓郷二の人々が去った後、長い時間をおいて生活が営まれた東麓郷一遺跡の場合は、原産地が複数にわたり、黒曜石以外の石器の比率も高いことから、単純には理解できないが、大雪・十勝山系の南回り、十勝との関係を考えないわけには行かない。

 ここまで、富良野市で発掘された二つの遺跡を中心に先土器時代のことがらを述べてきたが、まだまだ研究が進んでいないために、具体的に生活の様子まで踏み込んで明らかにすることはできない。

 

 縄文時代の富良野盆地

 現在、富良野盆地の3市町・上富良野町・中富良野町・富良野市で確認されている遺跡・埋蔵文化財包蔵地は、200カ所ほどである。これらの遺跡は、先に紹介をした先土器時代からアイヌの人たちが残した遺跡までが含まれているが、富良野盆地の場合は、縄文時代の遺跡が圧倒的に多い。

 この比率を北海道教育委員会が作成した「埋蔵文化財包蔵地調査カード」をもとに、整理してみると、表2−2のような数字となる。この表でも明らかなように富良野盆地は、縄文時代の遺跡が圧倒的に多く、全体の85%をしめている。

 先にも述べたが、現在、日本で最も古い土器は、1万2000年前で、長崎県福井洞穴から細石刃とともに発見されているが、北海道では、土器の使用が本州よりかなり遅れて始まると考えられている。もちろん、北海道でも今後、同じような古い土器が発見される可能性はあるが、現在までの研究では、7000〜8000年前といわれている。縄文時代は、ほぼ今から2000年前に終わり、次の続縄文時代に変わるので、縄文時代は、ほぼ5000〜6000年の間続いたことになる。

 この縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6つに分類しているが、北海道の場合は、草創期の資料が明瞭でないので、早期から晩期までが対象になってくる。

 ここでは、縄文時代早期から順に、富良野盆地における縄文時代の遺跡のありようについて見ていくことにしたい。

 

 表2−2 富良野盆地の遺跡数と各時期の比率

時代

遺跡数/比率(%)

先土器

8(4.0%)

縄文

早期

7(3.6%)

71(36.2%)

前期

6(3.1%)

中期

33(16.8%)

後期

14(7.1%)

晩期

37(18.9%)

小計

97+71=168(85.7%)

続縄文

17(8.6%)

擦文

2(1.0%)

アイヌ

1(0.5%)

合計

196(100.0%)

 

 縄文早期の遺跡

 北海道の最初の土器は、先にも述べた通り、貝殻を用いて文様を施した土器群で、この貝殻文土器には、尖底のものと平底とがあり、道南部は尖底、道東部には平底の土器が分布している。

 この早期の土器は、昭和41年、高橋稀一を中心に富良野工業高校郷土史研究会のメンバーによって発掘された中富良野町本幸一遺跡から、平底のものが出土している。

 この本幸一遺跡は、盆地の東側で、上富良野町の境界に近い場所に位置している。遺跡は、市街地が形成されている平坦地より一段上の段丘に位置し、傍らをヌノッペ沢が流れ、ベベルイ0号線道路が通っている。この遺跡は、道路の改良工事のため、昭和62年に佐藤忠雄によって再度調査されている。

 この二度の調査で、本幸一遺跡からは、平底の貝殻文土器のほかに、前期、中期、続縄文の土器も出土している。この貝殻文土器は、富良野市島沼遺跡でも出土しているが、現在知られている内容から考えると本幸一遺跡の方が、明瞭な内容を示している。

 上富良野町旭野遺跡で見つかっている土器が早期に位置付けられると思われる。また他に、先土器時代の遺跡として紹介をした東麓郷二遺跡の土器についても、この時期のものと理解してよいものと思う。

 この土器群と近い存在として、富良野市東山遺跡、西達布二遺跡の発掘で出土した石刃鏃がある。この石刃鏃は、石刃技法によってはがされた石刃を加工して作られた特殊な石鏃である。この石刃鏃は、一度忘れられていた石刃技法によって作られており、大陸にも見られることから、この時期に改めて北海道に入ってきたものと考えられている。

 石刃鏃が出土した東山遺跡、西達布二遺跡は、南北に細長い富良野盆地の南端から東に出て、現在、十勝に抜けるルート沿いに位置している。この東山遺跡では、条痕文と絡条体圧痕文の土器片が数点、西達布二遺跡は、絡条体圧痕文の土器が出土している、石刃鏃の石器が、どちらの土器群に伴うものか、まだ明瞭ではない。西達布二遺跡で出土した焼けた黒曜石のフイッション・トラック年代測定で、7400±600年前の年代が示されている。

 縄文早期の後半になると、東山遺跡でも出土している絡条体圧痕文など、様々な縄で文様を付けた土器群が、北海道全体に広がりを見せる。この土器群は、鳥沼遺跡、中富良野町渋毛牛遺跡で出土しているが、鳥沼遺跡では、組紐圧痕文の方が多く見られた。

 先の貝殻文土器や絡条体圧痕文、組紐圧痕文の土器が出土している鳥沼遺跡は、富良野市街地の東、南北に長い盆地の中央、東側の丘陵沿いに位置している。この遺跡は盆地内で最大規模で、縄文時代早期をはじめ、縄文時代の各時期、続縄文時代、擦文時代まで、すべての時期の遺物が発見されている。このように各時期の生活の跡が見い出すことができることから考えると、鳥沼遺跡は、富良野盆地における先史時代を通しての拠点遺跡の一つであったといえる。

 これら富良野盆地で見られる縄文早期の土器群と盆地外の遺跡との関連を考えてみると、平底の貝殻文系統の土器については、日高、十勝、釧路など太平洋沿岸に多く見られる土器群とのつながりを考えないわけには行かない。また、石刃鏃については、上川盆地の東神楽一四号遺跡や西神楽で採集されている資料、そして十勝の浦幌遺跡の石刃鏃などとのつながりも考慮に置かなければならない。これに対して、絡条体圧痕文の土器群の段階になると全道的な広がりを持つので、北の上川盆地、南端から東に抜ける十勝平野、更に、富良野盆地の西側、山岳部を切って流れる空知川沿いに空知平野に抜けるルートとの関連も十分に考えられる。

 

 縄文前期の遺跡

 縄文前期の前半は、全道的に底の尖った土器が作られる。この尖底土器は、第1節でも述べたように、粘土に繊維を含み、器壁の厚いものが多く、大きく3つのグループに分けられる。第1は、縄文が施され、口径に対して器高が高いタイプ、第2は、綱文で、器高より口径が大きいタイプ、第3が、尖底の押型文のグループである。

 富良野盆地で見られるのは、第1と第2のタイプで、本幸一遺跡、鳥沼遺跡で出土しているが、第2タイプの綱文式土器の方が多く出土しているように思える。

 この尖底土器に続いては、櫛目文と回転押型文の平底の土器が見られる。これらの土器は、簡形の器形のもので、中富良野町吉井一遺跡、富良野市鳥沼遺跡、無頭川遺跡などで出土している。

 この縄文前期の土器は、尖底のものも、筒形のものも、遺跡から出土する土器の量は少なく、これらの土器を使用した集団が大きなものでなかったことを暗示している。この綱文式土器、櫛目文、押型文の土器は、上川盆地につながりを考える方が妥当のように思えるので、上富良野町の遺跡からも発見される可能性が高い。また、櫛目文系の土器で、最もまとまった資料である鳥沼遺跡の阿部コレクションの器形などから、一部は縄文中期まで下がる可能性は考えられる。

 

 縄文中期の遺跡

 縄文中期になると、第1節でも述べたが、東北地方と関連の深い円筒上層式の土器が道南から道央部にかけて広がりを見せる。

 その一部は礼文島にまで達している。この円筒上層式の系統の土器も、本幸一遺跡、鳥沼遺跡、無頭川遺跡、東山四遺跡などで出土している。出土点数が少ないが、鳥沼遺跡無頭川遺跡などで、明瞭なかたちで存在する。杉浦重信は「内陸部の奥地にまで円筒上層式が分布することは注目に値する」と述べ、そのあり方について今後注目する必要があるとしている(『鳥沼遺跡・第6次』昭61)。この円筒上層式の土器は、石狩低地帯から空知ルートから入ってきたものと考える方が妥当と思われる。

 縄文中期後半に、北筒式土器の分布が見られる。出土している遺跡は、上富良野町東中一遺跡のほか、富良野市の鳥沼遺跡、無頭川遺跡、南扇山遺跡、西達布二遺跡、西達布四遺跡、西達布九遺跡、中富良野町の本幸一遺跡などが挙げられる。

 このうちの西達布四遺跡、西達布九遺跡は、北筒式土器を中心にした遺跡で、西達布九遺跡から出土した黒曜石、木炭片の年代測定が行われている。フイッション・トラック法で3300±300年前、水和層で2800±300年前、炭素14で4325±140年前とバラバラな年代が出されている。この2000年、3000年という数字は新しすぎるように思える。また、この数字をもとにすれば、これらの土器自体が、縄文後期に位置付けられる可能性も考えられる。

 また、51点の黒曜石の産地同定を行ない、38点が十勝産、9点が置戸産で、白滝産、赤井川産が各1点、不明が2点の結果を得ている(杉浦重信『西達布九遺跡』富良野市教育委員会、平3)。このように75lに近い黒曜石が十勝産で占められていることは、遺跡が富良野盆地から十勝に抜けるコースに位置することも考えると、北筒式土器の集団が十勝と深いつながりを持っていた可能性が考えられる。

 

 縄文後期の遺跡

 縄文後期の初めの時期は、道央から道南部にかけて、余市式と名付けられた土器が分布し、道北東部には北筒式が幾分残る可能性が高い。余市式土器は、円筒上層式同様、点数的には少ないが、無頭川遺跡で見ることができる。また、この円筒系列の土器の後、東北地方・岩木山麓に多く見られる十腰内式土器の流れをくむ入江式土器が、同じ無頭川遺跡でわずかながら見られる。

 円筒上層式、余市式、入江式と続く、南の土器は、その量的なことから杉浦が書いているように「主体」か、「客体」かといった問題があるが、客体であれば、そのときの主体の土器はどのようなものであったかを考えなければならない。

 後期の中頃、全国的な広がりを持つ加曽利B式の土器が、無頭川遺跡、鳥沼遺跡で見られる。この土器は、千歳市末広遺跡、札幌市手稲遺跡、小樽市忍路土場遺跡、旭川市神居古澤七遺跡、礼文島船泊遺跡など、大きな遺跡を残している。

 無頭川遺跡で出土したこの土器群は、先の円筒上層式などの土器群に比べて、器形の組み合わせ及び量的にも充実した内容である。このことから考えると、石狩低地帯から空知平野、さらに空知川から富良野盆地へと人々の動きを想定することができる。

 ここで、すでに何度も取り上げられた無頭川遺跡を紹介しておくことにする。この遺跡は、富良野市街地に接し、空知川と富良野川の合流点に近い、平坦な沖積地に位置しており、今日まで何度か調査されている。市街地南東部の扇瀬公園の湧水を源にした無頭川が遺跡の中央を流れている。元は、付近の微高地、南北に約260b、東西に約380b、面積10万平方bの広大な遺跡であった。この遺跡からは、既に述べてきた通り、縄文中期以降の各時期の資料が発見されており、鳥沼遺跡と並ぶ、富良野盆地最大の遺跡である。とくに、縄文晩期の墳墓群としては上川管内で最大規模のものである。

 縄文後期の末期、長沼町堂林遺跡で最初に注目された堂林式土器が、鳥沼遺跡、無頭川遺跡、春日町遺跡などで見られるが、点数的には多くはない。

 縄文後期全体を見たとき、北筒式土器がどのような位置付けになるかにもよるが、入江式以降の土器は、空知川の流れに沿って空知平野とのつながりが強く感じられる。

 

 縄文晩期の遺跡

 縄文晩期は、青森市亀が岡遺跡で注目された土器が、東日本に大きな広がりを見せる。この東北北部に中心を持つ亀が岡式土器は、先にも述べたが、道南部から石狩低地帯の周辺まで見られ、その一部は、北は礼文島、東は釧路まで達している。また、内陸部でも、客体として上川盆地、富良野盆地でも見られるが、その数は少ない。昭和61年に調査された無頭川遺跡で出土した壷形土器の破片は亀が岡式土器である。

 この亀が岡式土器とは別の北海道独自の土器が、道北東部から道央部に大きな広がりを見せている。この晩期の土器群は、杉浦重信が述べている通り、いくつかの段階に分けられる(「富良野地方の縄文晩期の編年について」『西達布二遺跡』平1)。

 富良野市緑町遺跡で出土した土器で、口縁部に爪形文を施した土器が晩期初頭に位置付けられている。この土器は、鳥沼遺跡、無頭川遺跡でも見られる。

 この後、釧路市ヌサマイ遺跡、長沼町タンネット遺跡、千歳市ママチ遺跡など、数多くの遺跡で出土している土器群が広がりを見せる。この土器は、深鉢形、浅鉢形、皿形、舟形など、今までに見られなかったいろいろな器形をもつ土器群である。このグループの土器は、北海道の縄文時代の中で、最も多くの遺跡を残しており、また、出土する土器の点数も多い。その上、無頭川遺跡で見られるような、大規模なお墓を伴う場合も多く、墓場の中から数多くの副葬品が発見されることも多い。

 無頭川遺跡のお墓からは、大量の琥珀の玉あるいは石鏃などが出土しているが、注目されるものとしてイノシシの骨がある。以前から苫小牧や石狩低地帯までは、確認されていたが、内陸の富良野盆地で見つかったのは初めてである。北海道に生息しないイノシシの最も北の発見例である。杉浦は「石狩川とその支流の空知川を遡って」と書いているが、苫小牧の遺跡で、多くのイノシシの骨が発見されていることを考えると日高ルートも十分に考えられる。どちらからであれ、私どもが想像する以上に、多くのものが流通していたことは間違いない。

 この晩期の土器は、富良野盆地でも、鳥沼遺跡、無頭川遺跡をはじめ、多くの遺跡が残されている。上富良野においても、この時期の遺跡が最も多く見つかっている。上富良野の「埋蔵文化財包蔵地調査カード」などから見ても、日の出一遺跡、日の出二遺跡、東中一遺跡、東中二遺跡、ホップ園遺跡、清富一遺跡、清富二遺跡、江花一遺跡、江花二遺跡などが挙げられる。ほかにも中富良野町では本幸一遺跡、渋毛牛遺跡、富良野市では三の山二遺跡、西達布二遺跡、西扇山遺跡、東山四遺跡など、多くの遺跡から見つかっている。このようなあり方は、上川盆地においても同じ状態である。

 

 盆地内の縄文人

 以上、縄文時代における富良野盆地の概要を見てきたが、後の続縄文時代の遺跡も、縄文晩期の遺跡に重複している場合が多いので、富良野盆地の遺跡のほとんどは、縄文時代に残されたものと考えてさしつかえない。

 これらの遺跡の多くは、周辺の山岳部で覆水した地下水が湧き出す湧水の周辺に残されている場合が多く見られる。その他は、河川に面した丘陵部に残されている。

 これらの遺跡は、発掘された遺跡の内容から見ても、いくつかの時期の資料が重複している遺跡と、一つの時期で比較的資料の少ない遺跡など、遺跡ごとに差が見られる。このことは発掘が行われていない遺跡においても、採集されている資料の量によって、その差があることは読み取ることができる。この遺跡の資料の差とともに、中期、晩期といったそれぞれの時期によって遺跡数が多い時期、少ない時期といった差も見られる。

 先に見てきた通り、各時期の土器は、それぞれの時期で特徴をもち、また変化していく。この変化は、明らかに北海道全体の土器の変化と対応している。このように富良野盆地の土器が、他の地域の土器の変化と関連しているということは、周辺地域との不断の交流があったことを示している。

 現在、富良野盆地周辺で確認されている遺跡は、200カ所ほどである。例えば、縄文時代を7000年前から2000年前までと仮定すると5000年の間続いたことになり、200という遺跡の数は多いものではない。もちろん、これらの遺跡のなかには、各時期の土器が重複している遺跡も多い。しかし、最も多くの時期の土器が見つかっている鳥沼遺跡の資料をもとに、杉浦重信が発表した富良野盆地の編年(『鳥沼遺跡・第6次』昭61)を見ると20型式ほどに分類されている。

 縄文時代の5000年を単純に、この20型式で割ると、1型式が250年ということになる。さらに細かく分類されたとしても、1型式100年から200年といった単位になる。個々の遺跡を見ると、1型式土器の出土量から100年も、200年も生活していたとは考えにくい。このことは1型式の間にも何度か生活の場を移しているということになる。このように考えると富良野盆地の縄文時代は、多くの遺跡を残している縄文晩期以外、早期から後期までは、ほんの数集団が盆地内で生活していたに過ぎないと考えざるをえない。

 また、盆地内の土器の変化は、周辺地域との交流の中で変化したと述べたが、集団の数が少なければ少ないほど、集団を維持していくためにも、盆地の外との交流が重要になっていくのである。

 例えば1型式が100年としても、その間、少なくとも5世代の交代がある。この世代交代をスムーズに行ない、集団を引き継いでいくためには、他の集団との人的交流を抜きにしては成り立っていかない。

 残る縄文晩期は、富良野盆地の中で、最も遺跡が多い時期である。遺跡の規模が大きい、あるいは遺物が多いということは、多くの人が生活していたか、長い間、生活の場になっていたかのどちらかである。鳥沼遺跡は、長い間、生活の場になっていた例の典型であるのに対して、無頭川遺跡は、何時期かの重複はあるが、晩期のお墓を含めたピット群が多く見られることから考えると集団規模が大きかったと見る方が妥当である。また、先にも述べた通り、遺跡の数も多いことは、集団そのものも多かったと考えざるをえない。

 無頭川遺跡で見られるように縄文晩期のこの時期は、大きな墳墓群を残す遺跡が多く見られる。このことは、全道的な傾向とも一致している。

 近年、青森市や道南で巨大な遺跡が調査され、縄文の都とか、縄文の都市とか言われている。これらは、特定の時期、あるいは特定な地域にだけ残されたもので、一般的に見られる普遍的なものではなく、特殊な例と考える方が正しい。一般には、富良野盆地で見てきたように、一定の広さの地域に200、300という遺跡があったとしても、その個々の遺跡に時間的なものを持ち込むと、同時期の残される遺跡の数は非常に少なくなってしまう。

 仮に、富良野盆地の縄文早期や後期の時期に100人ほどの人たちしか生活していない。いやもっと少なかったと考えたとしても、あながち間違っているとはいえないと思っている。

 

 続縄文時代の遺跡

 本州では、縄文時代が終わると、稲作農耕を基本とした弥生時代に移行していくが、北海道は、縄文時代と同じ狩猟・採集の生活が続き、この時代を続縄文時代と呼んでいる。

 第1節でも述べたが、続縄文時代の初頭、北海道の縄文晩期の伝統を引いた宇津内式、下田の沢式土器が道北東部に残り、道南部から石狩低地帯に恵山式土器が分布する。その後、江別式土器が全道的に広がり、さらに津軽海峡を渡って宮城県、新潟県まで分布を広げている。この江別式の終末期は、北大式土器にかわり、石の道具がほとんど見られなくなり、続縄文時代も終わりになる。

 これら続縄文の土器は、いずれも富良野盆地で見られるが、晩期の土器に比べると遺跡の数、出土量ともに少ない。渋毛牛遺跡、無頭川遺跡、三の山二遺跡など晩期から継続していると思われる遺跡もある。渡島半島中心の恵山式土器は、わずかであるが本幸一遺跡で見られ、北海道全体に広がりを見せる江別式土器は、本幸一遺跡、鳥沼遺跡、無頭川遺跡などで、そして北大式土器は、鳥沼遺跡で、わずかに見られる。

 縄文最後の晩期の時期は、多くの遺跡と資料を残したが、晩期に続く続縄文時代は、富良野盆地全体で遺跡、資料ともに少なくなり、最後の北大式の時期になるとわずかな痕跡を残すといった状況になって続縄文時代を終える。

 

 擦文時代の遺跡

 本州からの強い影響で、北海道全体が、鉄の道具を中心にした擦文時代に移行していくことになる。しかし、ここ富良野盆地では、今日まで、擦文時代の土器は、ほとんど見つかっていない。

 昭和46年に高橋稀一が書れた『富良野地方先史文化遺跡の分布について』に、次のようにある。

 

  現地踏査を行なった38遺跡の表採の中には擦文式土器が一片も含まれておらず、末踏査の遺跡についても地域住民から寄せられた資料にも擦文式土器片は一片も含まれていない。……一片のかけらも発見されない事は、当地方に於て擦文文化が不成立であった事を物語るものか?今後の追求が必要である。

 

 また、平成8年に発表された瀬川拓即の「擦文時代における地域社会の形成」(『考古学研究』第43巻第3号)の中でも、次のように書かれている。

 

  盆地内の擦文時代の遺跡については、これまで鳥沼遺跡から数点の土器片が出土しているのみであって、集落跡は確認されていない。遺跡分布調査の進展状況から見て、擦文時代の集落跡が今後発見される可能性は低く、この地における擦文時代の居住・利用の痕跡はきわめて希薄である。

 

 その原因として瀬川は、空知川の空知大滝が、サケの遡上をさえぎっていることによると結論づけている。

 以上、述べられている通り、富良野盆地には、擦文時代の遺跡は、ほとんど存在していないといえる。これは、擦文時代の後に続くアイヌ文化の時代になっても同じである。大きな広さを持つ富良野盆地に、なぜ、生活の場としての遺跡が残されなかったのか。

 続縄文社会から擦文社会への変革は、本州文化の影響もあり、いろんな面にわたって変化しているが、その中でも、自分たちで作っていた石の道具から鉄の道具への転換が、その社会に与えた影響は非常に大きい。

 すなわち、自らの手で生産することができない鉄の道具なければ、生活が成り立たない社会に変わった。それまでは、自分たちが食べるために生産していたものが、この鉄の道具を受け入れるための生産に、今日流にいうと交換商品としての生産が、生産活動の主要なものに変化していくことになる。このような生活システムの変化は、北海道の歴史のなかで、最も大きな変革である。

 瀬川は、その商品の一つとして、サケが大きな意味を持っており、サケが獲れない富良野盆地は生活の場としての意味を失ってしまった、と考えている。すなわち、サケが上ってこない富良野盆地には、擦文時代の集落は存在しないという結果になる。

 このように述べると、サケの遡上が生活のすべてを左右しているように思われがちであるが、食生活自体に大きな変化があったのではなく、交換商品の生産が重要な意味をもつ社会になったことを現してている。

 

 擦文時代以降

 縄文時代の遺跡は、上富良野町をはじめ、盆地の各地に残っているが、先に述べた通り、富良野盆地には擦文の集落は存在しない。それならばこの擦文時代以降、アイヌ民族の時代はどうであったのか。

 現在、『新旭川市史』の編纂に取り組んでいる原田一典は、松浦武四郎の『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』などの解読から「上川よりその山岳地帯に至る間に広がる富良野盆地一帯も、上川アイヌの狩猟場であり、時にトカチアイヌも狩りをしていたとみられる」と述べている。そして、上川アイヌの狩猟場にはなっていたが、「広い富良野盆地にはアイヌが居住していなかったことが推論される」としている。更に「空知川上流域といい、雨竜川中流域といい、共にアイヌが住んでいないということは、主要食料源としての鮭の遡上をみなかった、あるいは僅少であったことによるものであろう」(原田一典「上川アイヌの生活と社会」『新旭川市史』第1巻、平6)と述べている。

 また、原田は、松浦の記録から上川アイヌの行動について、「上川が一見閉鎖的な地理的環境にありながらも、本来アイヌの人たちは意外に自由な生活行動を保有していた」と述べ、上川盆地からの道のりの一つとして、「美瑛川筋のルートから、富良野川−空知川をたどり、そこから、一つは佐幌川に移り十勝へ、一つは沙流川に移り日高へ延びていた」とも述べている。

 以上のことから、富良野盆地には、擦文時代あるいはアイヌの人たちの時代には、集落での生活の跡は認められないが、その時代においても、人々の狩りなどの場であったことには違いがない。

 そして、その行動ルートは、富良野盆地の縄文の人たちの動き・交流の道筋を強く示唆するものといえる。