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2章 先史から近世までの上富良野 第2節 先史時代の富良野盆地

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1 富良野盆地の考古学研究

 

 研究の歩み

 上富良野町が位置する富良野盆地の考古学研究については、先に出版された『富良野市史』第3巻(富良野市、平6)の中で、杉浦重信が詳細にわたって述べている。この杉浦の論稿を見ても明らかなように、富良野盆地の考古学研究及び調査は、盆地の南半分の富良野市に集中している。しかし、埋蔵文化財包蔵地(遺跡)は、中富良野町、上富良野町にも存在しており、盆地全体が一つの生活圏を形成していたと考えられる。そこで、ここでは杉浦の論稿を参考に、盆地全体の調査研究の跡を見ておくことにしたい。

 富良野盆地内における本格的な調査は、昭和39年(1964)、岩谷朝吉が富良野市立東山小学校(当時は富良野町)に着任し、富良野町東山地区郷土研究会を組織したことに始まる。岩谷は、この年7月以降、上富良野町、中富良野町、富良野市の調査を行なっている。上富良野の調査については『富良野新聞』(昭39・8・29)に報道され、6カ所の遺跡が挙げられている。岩谷は、後に盆地全体の調査結果を『教材観に立脚した先史文化の調査と解説』(岩谷朝吉刊、昭54)の中に書き残している。更に、岩谷らは、当時、日本の考古学をリードしていた東北大学の芹沢長介を招いて、富良野市で講演会を開催するなどの活動も行なっている。

 また、同年、岩谷朝吉は、斎藤武一、有択一則、松下亘らとともに、富良野市東山遺跡の発掘調査を実施している。この遺跡は、当時研究途上にあった石刃鏃の貴重な資料を提供した遺跡として注目を集めた。この報告は、昭和41年(1966)に『富良野東山−北海道富良野町の石刃鏃文化の遺跡』として、教育委員会と東山地区郷土研究会から刊行されている。

 

 高橋稀一と富良野工業高校郷土史研究会

 この東山遺跡の発掘がきっかけに、遺跡に関する関心も高まりを見せた。昭和41年には、芹沢長介が調査した下川町モサンル遺跡の発掘に参加した高橋稀一が、名寄高校から富良野工業高校に着任した。高橋は、高校に郷土史研究会を組織し、生徒とともに、富良野地方の遺跡調査を続けている。

 高橋を中心にした富良野工業高校の郷土史研究会は、昭和41年の中富良野町本幸遺跡の調査を皮切りに、42年には富良野市緑町遺跡、烏沼遺跡(第1次)、43年に鳥沼遺跡(第2次)、44年に中富良野町渋毛牛遺跡、烏沼遺跡(第3次)、45年に鳥沼遺跡(第4次)、富良野市無頭川遺跡、46年に富良野市西扇山中川地点遺跡を調査するなど、毎年調査を行っている。

 この間、昭和42年8月には、『上富良野町史』が刊行され、山崎博信が「先史時代」の項を担当している。山崎博信は、高橋稀一とともに、名寄高校で教鞭をとるとともに、道北地方の遺跡の調査を続けており、本幸遺跡の発掘で中心的な役割を果たしている。この『上富良野町史』は、富良野地方の先史文化、上富良野町、中富良野町の概要、本幸遺跡の報告の4つの章から構成されている。上富良野町の章では、開拓時代から土器や石器が採集されていた場所など、10数カ所を挙げ、概要を説明している。

 また、高橋らは、43年に『中富良野町本幸遺跡発掘報告』(中富良野町教育委員会)、44年には『富良野市緑町遺跡、鳥沼遺跡第一次発掘報告』(富良野工業高校郷土史研究会)を刊行すると共に、同研究会の機関紙『学田』などで調査報告を行なっている。この『学田』第1号には、上富良野町の3カ所の遺跡で採集された資料が紹介されており、文献の少ない上富良野町の研究にとっては貴重な文献といえる。

 高橋稀一は、生徒と共に調査したものを基に『富良野地方の先史文化』(昭44)、『富良野地方先史文化遺跡の分布について』(昭46)などをまとめている。その後、北海道教育委員会に転任し、埋蔵文化財保護の担当職員として活動することになるが、高橋が富良野で教鞭をとっていた期間は、盆地内における考古学調査の集中した時期ということができる。

 上富良野では、昭和47年から48年にかけて、町内に点在する遺跡を開発事業等による破壊から守るために所在調査を実施している。この調査は、旭川郷土博物館の其田良雄が中心になり、富良野工業高校郷土史研究会が協力して行われた。この調査によって、町内に分布する10カ所の遺跡が確認され、その所在や概要が『上富良野町の遺跡』としてまとめられ、教育委員会から昭和48年に発行されている。

 高橋の転出後、考古学にたずさわる人がいなくなったため、51年に鳥沼公園整備工事に伴って行われた鳥沼遺跡(第5次)の発掘調査は、旭川郷土博物館の其田良雄によって実施された。

 この調査結果は、翌52年に、以前の調査分も含めて『富良野市島沼遺跡』(富良野市)として報告された。

 また、51年には、大学で、考古学を本格的に学んだ杉浦重信が、富良野市郷土館に学芸員として勤務することとなり、その後、富良野盆地の考古学研究をリードしていくことになる。

 

 杉浦重信と行政調査

 昭和58年、北海道教育委員会によって富良野盆地の一般分布調査が行なわれ、「埋蔵文化財包蔵地調査カード」が各教育委員会に備えられることになった。それ以降、土地改良事業などで遺跡の破壊が問題になり、60年からは、それらの工事に伴う行政調査が多く行なわれるようになった。このような開発行為に伴う調査は、今日に至るまで続いている。この調査は、4年代に行われた調査とは違い、調査対象面積は飛躍的に拡大し、調査期間が何カ月にわたるものも含まれている。この大変な発掘調査のほとんどは、杉浦重信が中心になって行なっている。

 この杉浦の調査によって、多くの資料が追加され、富良野盆地における考古学研究は、飛躍的な進展が見られたといえる。ここでは、まず杉浦の調査した富良野市内の遺跡名だけを上げておくことにしたい。

 

 昭和60年  烏沼遺跡(第6次)、三の山二遺跡

 昭和61年  東麓郷一遺跡、東麓郷二遺跡、無頭川遺跡(第1次)

 昭和63年  西達布四遺跡、西達布二遺跡

 平成2年   西達布九遺跡、烏沼遺跡(第7次)

 平成3年   無頭川遺跡(第2次)

 平成4年   無頭川遺跡(第3次)

 平成6年   春日町遺跡

 平成8年   扇瀬公園遺跡

 平成9年   無頭川遺跡(第4次)

 

 以上の通り、杉浦によって調査された富良野市内の発掘の結果は、そのつど教育委員会から出版されている。

 また、杉浦重信は、これらの調査を通して、北海道の縄文晩期末葉から続縄文にかけての論稿「土器群をめぐる諸問題」(『三の山二遺跡』富良野市教育委員会、昭61)をはじめ、「北海道の有舌尖頭器」「北海道の先土器時代の石斧」(『東麓郷一・二遺跡』同、昭62)、「北海道の錨石について」(『無頭川遺跡』同、昭63)、「富良野地方の北筒式土器群について」(『西達布四遺跡』同、平1)、「北海道における石刃鏃文化の性格」「富良野地方の縄文晩期の編年について」(『西達布二遺跡』同、平1)、「北海道における黒曜石の交易について」(『古代文化』第42巻第10号、平2)など、数多くの論稿を書いている。

 これら杉浦が行った富良野市の調査以外では、昭和62年に、佐藤忠雄によって行なわれた中富良野町本幸一遺跡の調査があり、翌年『本幸一』(中富良野町教育委員会)として報告されている。また、平成5年には、上富良野町で唯一の発掘である日の出五遺跡の調査が、横山英介によって行われたが、遺跡の中心部からはずれていたために出土遺物も少なく、明瞭な性格付けがされていない。この報告は、翌年、上富良野町教育委員会から『日の出五遺跡』として出されている。

 

 写真 日の出5遺跡の発掘

  ※掲載省略