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2章 先史から近世までの上富良野 第1節 北海道の先史文化

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3 北海道の先史時代

 

 先土器文化の研究

 昭和24年(1949)の群馬県桐生市の岩宿遺跡の発掘以来、縄文時代以前の遺跡が、日本列島の各地から、数多く発見されている。これらの遺跡のほとんどが、新人の段階に入ってから残された痕跡である。

 その後、大分県早水台遺跡、栃木県星野遺跡などの調査を経て、宮城県の座散乱木遺跡、馬場壇遺跡などで、明らかに原人・旧人の時代の人たちが残した痕跡が発見されている。これらの調査によって、日本列島にも、原人段階の人々の生活があったことが明らかになった。その中でも、宮城県の高森遺跡の石器は、現在最も古く、50万年前といわれている。

 しかし、北海道の場合は、まだ、原人・旧人の段階の明確な遺跡は発見されていないが、今後、発見される可能性はある。現在、北海道で最も古い段階に位置付けられている遺跡は、千歳市の祝梅三角山遺跡、河東郡上士幌町嶋木遺跡などである。

 この両遺跡から発見された石器は、黒曜石の剥片を主体にしたもので、明瞭に定形化されたものは見られず、手頃な黒曜石片を利用したような印象のものが多い。これらの遺跡から発見された資料の年代測定の結果によると、今から2万年前前後という年代が得られている。

 その後、ひとつの母石(石核)から同じ形をした素材(石刃)を連続して剥していく技術(石刃技法)を持つようになり、定形化した石器も多く作られるようになる。この石刃技法と同じ手法ではあるが、幅数_b、長さ2、3abの小さな石刃(細石刃)を作り出す技法(細石刃技法)が広がりを見せ、数多くの遺跡で発見されている。

 北海道には、この時期に属する著名な遺跡が多く存在する。個々の遺跡から発見される細石刃及び細石刃核の製作技法の違いから遺跡の名前を付けた札滑型、峠下型、オショロッコ型、蘭越型などの技法の存在が明らかにされている。

 この細石刃は、北海道だけでなく、日本列島及び大陸にも広く分布している。このことは、日本列島が大陸とつながり、その一部であったことと深く関わっている。

 この細石刃文化の後に続く縄文文化は、気候の温暖化にともない列島化した日本列島で展開したのに対して、細石刃文化は、アジア大陸の一部である日本という視点をぬきにしては考えられない。すなわち、細石刃文化は、大陸文化の一部であり、その後の縄文文化は、日本列島独自の文化ということになる。

 このように大きな広がりを持っている細石刃文化も、発見される資料は、小さな細石刃と何種類かの石器が中心で、生活全般や文化内容そのものを明らかにしてくれるような資料は、まだまだ少ない。そのため、具体的に生活状況をイメージ化するほどのことは分かっていない。

 

 縄文文化の研究

 先の先土器時代から縄文文化に変わっていく最大の原因は、気候の温暖化であると思われる。暖かくなったことによって、日本列島の南から徐々に亜寒帯針葉樹林から落葉広葉樹林へと森林の様相が変り、そこに住む動物相も変わっていくことになる。このような環境の変化によって、人々の生活にも変化が起き、その結果として縄文文化が生まれることになる。

 日本における縄文文化、いや、先史時代の研究は、明治10年(1877)に、アメリカ人エドワード・S・モースによって調査された大森貝塚の発掘に始まるといわれている。東京湾に面したこの貝塚が調査されて以来、多くの人々によって研究が続けられてきた。貝塚をはじめ、多くの遺跡から発見された土器は、縄目文様が施されていることから縄文土器と名付けられた。日本各地で見られる縄文土器は、出土する土層の上下関係から新・古が明らかにされ、また、施されている文様の研究などから、土器の広がりもとらえられるようになった。

 山内清男は、これらの研究を通して、昭和12年(1937)に、縄文土器の全国の編年表を発表し、縄文時代を早期、前期、中期、後期、晩期の5期に分類した(山内清男「縄文土器型式の細別と大別」『先史考古学』第1巻第1号、昭12)。

 昭和24年、この縄文時代に先行する文化が、群馬県岩宿遺跡で発見された。まだ、この時代には、土器が作られていないことから、無土器時代とか、先土器時代とか呼ばれてきたが、ここでは先土器時代の名称を使用する。

 その後、先土器時代の遺跡は、全国各地で発見されたが、先土器時代と縄文時代の間をつなぐ接点がなかなか見つからなかっ

 た。昭和35年(1960)、芹沢長介らの調査によって、長崎県福井洞穴で、先土器時代末期の細石刃と共に土器が発見され、その連続性が明らかにされた。この福井洞穴で発見された土器は、その後、四国や本州の各地で見られるようになった。

 これらの土器は、縄文早期の土器よりも古いことから、現在では、早期の前に草創期という時期を置いて、縄文時代の6期区分を行なっている。北海道の場合は、まだ、この草創期に位置付けられる土器の存在が明瞭にはなっていない。

 縄文文化を象徴する弓矢、土器などが、温暖化していく環境と、その生活の中から生み出される。現在、日本で最も古い土器は、今から1万2000年前の年代を示している。先の福井洞穴の土器で、細石刃とともに発見されている。このことは、細石刃文化の末期に土器が誕生し、その土器の広がりとともに、細石刃文化が終息していくことになったと考えられる。

 

 石狩低地帯と津軽海峡

 今日までの研究では、北海道における縄文文化の始まりは、本州よりは、かなり遅れることになる。また、北海道の縄文文化を土器の広がりで見たとき、それぞれの時期によって分布する地域に違いが見られる。この違いの中で、大きなポイントになっているのが石狩低地帯である。この低地帯を挟んで、道南・渡島半島と道北・道東部とは、多くの場合において違いが見られる。一般的に考えると、石狩低地帯よりは、はるかに大きな障害になると思われる津軽海峡の両岸の方が、土器などの比較において大きな違いがない。

 石狩低地帯の西端に位置する札幌は、年間平均気温が8.2℃であり、上川盆地の旭川は6.4℃である。このわずかと思われる気温の差は、微妙に植物相に影響を与えている。温帯性の樹木の代表的存在であるブナ林は、渡島半島の北側、黒松内低地帯を境としているが、トチノキ、ゴヨウマツ、クリなどは石狩低地帯の北側まで分布しており、冷温帯の森林相の上川盆地には見られない。この森林相の違いが縄文土器の分布の違いに影響している可能性が高い。

 津軽海峡を越えて広がりを見せる土器文化は、多くの場合、石狩低地帯で見ることができ、また、道北東部に分布する土器も、同じように石狩低地帯で見ることができる。このように、低地帯では、いろいろな土器が見られる。

 

 縄文時代早期

 現在、北海道で最も古い時期に位置付けられている土器群は、貝殻で文様を施したり、表面調整をしたりした土器で、貝殻文土器と名付けられたグループである。この土器の分布は、渡島、胆振、日高、十勝、釧路などの太平洋沿岸に多く見られる。この貝殻文土器のグループのうち、道南西部の土器は、底の尖った尖底土器が中心で、道東部の土器は平底である。

 縄文早期の後半、撚り糸を細い棒に巻き、土器に押し付けた絡条体圧痕文、その棒を転がした撚糸文、三つ編みなどの組紐を押し付けた組紐圧痕文、縄を転がした縄文など、様々な縄で文様を付けた土器群が、北海道の広い範囲に分布することになる。これらの土器群は、北海道全体に広がりを見せた最初の土器群である。

 以上の土器とは別に、縄文早期に特徴的な存在として見られるものに、石刃鏃がある。縄文時代の石鏃は、小さな剥片を丁寧に加工して作っているのに対して、この石刃鏃は、石核から剥がした石刃を使い、その先端部分を加工したものである。

 この石刃鏃は、北海道の北東部から多く発見され、その分布は、サハリン、アムール川流域、バイカル湖周辺と広がっている。この広がりは、先の細石刃同様、大陸との関係をぬきにしては考えられない存在である。

 

 縄文時代前期

 縄文前期になると幾分かの差異はあるが、全道的に底の尖った土器が再び作られるようになる。この尖底土器は、粘土に繊維を含み、器壁の厚いものが多く、大きく3つのグループに分けられる。第1は、道央、日高、道南部に見られるもので、縄文が施され、口径に対して器高が高いタイプ、第2は、道北東部に見られる綱文で、器高より口径の方が大きいタイプ、第3が、根室、釧路で見られる尖底の押型文のグループである。

 この尖底土器群の後、道南部には、現在、話題になっている青森市の三内丸山遺跡で、多く出土している円筒下層式土器が、津軽海峡を渡って広がりを見せる。道北東部には、ほとんど文様の付けられない網走式と呼ばれる土器、押型文や櫛目文の施された土器のグループが存在する。

 

 縄文時代中期

 縄文中期、道南から道央部にかけては、前期の円筒下層式の伝統を受け継いだ円筒上層式土器が分布し、東北地方と同一に文化圏を形成する。この土器は、石狩低地帯まで分布するが、その一部は、日本海沿岸を北上し、礼文島に大きな遺跡を残している。

 これに対して、道北東部は、筒形の器形を持つ押型文の土器、及び櫛目文、無文の土器群が存在し、その後に、北筒式と名付けられた土器の分布が見られる。

 道南から道央に分布する円筒上層式の土器群は、遺跡から出土する土器の量も多く、遺跡の規模自体も大きい。これに比べると、道北東部の土器群は、遺跡の規模、出土量においても少なく、貧弱で、その生活形態においても大きな違いが感じられる。その違いがどのようなことによるかは、明瞭ではないが、森林相など自然環境の差が影響している可能性が考えられる。

 

 縄文時代後期

 縄文後期の当初は、縄文中期の土器の流れを受け継いだ北筒式が道北東部、余市式と呼ぶ土器が道央から道南部に分布している。

 この余市式の後、その分布する範囲に、東北地方・岩木山麓に多く見られる十腰内式の流れをくむ土器が、石狩低地帯の周辺まで見られる。

 この後、中頃になると、日本を代表する大貝塚である千葉県の加曽利貝塚の名が付けられた加曽利B式の土器が北海道でも見られるようになる。この土器は、縄文時代の土器の中で最も大きな広がりを持った土器で、北海道内にも大きな遺跡を残している。

 津軽海峡を越えて広がりを見せるこれらの土器も十勝、釧路などでは見られず、どのような土器が使われていたか、明瞭ではない。

 その後、縄文後期の終末期になると地域的な土器が見られる。

 十腰内式以降の土器は、深鉢、浅鉢、壷など、いろいろな形の土器が作られるようになり、食生活をはじめ、生活自体に何らかの変化が生じたことがうかがえる。また、環状列石(ストーンサークル)や周堤墓など、独特なお墓が残されるなど、社会的な変化も十分に考えられる。

 

 縄文時代晩期

 縄文晩期というと、歴史の教科書に登場してくる奇妙な形をした遮光器土偶が作られる時期である。あの土偶を作った人たちの土器は、亀が岡式と名付けられ、道南部から関東地方まで広範囲にわたって広がりを見せる。この亀が岡式土器の影響を受けた土器は、石狩低地帯の周辺まで見られ、その一部は、北は礼文島、東は釧路まで達している。

 この東北地方を中心とする亀が岡式土器とは異なった土器が、道北東部から道央部に大きな広がりを見せている。この土器は、深鉢形、浅鉢形土器をはじめ、いろいろな器形のものがあり、中でも舟形、楕円形などの特異な土器を伴う。この時期の遺跡は、密度の濃い分布が見られ、土器の出土量も多い。また、お墓が多く発見されている。

 この縄文晩期の時期、北九州では、稲作農耕の展開が始まり、北九州、近畿、南関東、東北と広がり、縄文世界から、稲作農耕を基本にした新しい弥生世界に変貌を遂げていくことになる。稲作農耕の展開、生産性の向上は、結果的に権力を生み、ムラから地域的なまとまりへ、そして、戦いをとおしてクニへと権力の集中が進んでいった。この弥生社会の権力の集中が、その後、権力の象徴としての巨大お墓、すなわち古墳を生みだしていくことになる。

 弥生社会から大きな墓を造る古墳時代の社会に、更に大和政権に統合された社会へと日本歴史の歩みが展開していった。

 このような歩みに対して、稲作農耕の文化を持つことのなかった北海道は、基本的には縄文世界の生産性を引き継ぐ形で、独自の歩みを続けていくことになる。

 

 続縄文文化

 縄文世界を引き継いだ続縄文時代の初頭、道南部に広がりを持つ恵山式土器は、東北地方の弥生時代の土器と非常に類似している。しかし、北海道には、稲作農耕の痕跡が認められていないために、この恵山式土器は、続縄文時代の土器と位置付けられている。

 道南部から石狩低地帯まで見られる恵山式に対して、道北東部では斜里町宇津内遺跡、釧路市下田の沢遺跡で注目された宇津内式、下田の沢式土器が分布する。その後、道央の江別市内の墳墓群から出土した江別式土器が全道的な広がりを見せ、更に津軽海峡を渡って宮城県、新潟県まで分布を広げている。このように北海道の土器が、東北地方まで広がりを見せるのは、過去には見られなかったことである。大きな広がりを見せた江別式の終末期は、北大式と名付けられた土器にかわり、土器から縄文の文様が消えるとともに、石の道具がほとんど見られなくなる。この北大式の終わる時期は、逆に本州文化からの強い影響を受け、続縄文時代が終息し、鉄が道具の中心になる擦文時代に移行する。

 

 擦文文化

 古墳時代の末期、東北地方北部の平野部に直径10b内外の墳丘を持ったお墓が造られる。この末期古墳の流れをくむお墓が石狩低地帯の江別、恵庭に残されている。

 このお墓が造られたのと前後して、北海道の土器文化は、本州から入ってきた土師器が石狩低地帯を中心に分布し、その影響によって、擦文土器へと変化していくことになる。また、擦文時代の住居は、本州と同じ方形で、壁の一部にかまどが設けられ、鉄の道具を中心にした文化に変わっていった。

 この変化、とくに、石の道具から鉄の道具への変化は、本州との関わりを抜きにしては考えられず、本州文化の交易システムの中にくみ入れられる結果になった。すなわち、自らの手で生産できない鉄の道具を受け入れなければならなくなった社会、それが擦文社会である。

 北海道の擦文社会の生活を支えるだけの鉄の量、更に住居構造や土器の斉一性など、これらの変化は、それをもたらした力の強さを示している。とともに、既に強力な流通システムができ上がっていたことをも表している。この流通システムによって、鉄を手に入れ、その代償として北海道の物産が商品化し、本州に流通していったことは間違いない。そのことは、個々の獲物が、自分たちが食べる食料から、交易のための商品に変化したことを意味している。例えば、たくさんのサケは商品にするためにとられ、それが流通することになる。

 北海道を除く、日本列島の先史時代は、縄文時代から稲作農耕を受け入れた弥生時代に、大きな変革を経験することになる。これに対して北海道の先史時代の場合は、アイヌ社会まで狩猟・採集を基本とした社会である。だから弥生変革とは質的に違いはあるが、最も大きな社会的変化は、続縄文から擦文時代への間にあると考え、これ以降、商品経済の強い影響によって左右されることになる。

 

 註 平成10年7月6日付『北海道新聞』夕刊に、新十津川町不動坂遺跡から、10万から7万年前の石器が4点発見され、「北海道にも旧人いた?」と一面で報道された。正式な発掘調査は平成10年8月以降に実施されるので、新しい発見も期待される。