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2章 先史から近世までの上富良野 第1節 北海道の先史文化

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1 いまの人とむかしの人

 

 入植者以前

 現在、上富良野では、1万3000余人の人々が生活している。

 この地で生れた人々、また、他の地で生れ移り住んだ人など、様々である。

 この地は、明治20年(1887)に、柳本通義らによって富良野地方殖民地撰定が行なわれている(本書第3章第1節「殖民地の撰定事業」)。この撰定で区画された上富良野の地に、最初に入植したのは、明治30年(1897)で、田中常次郎がリーダーをつとめる三重団体の人たちである。

 この三重県の人たちが入植したときには、上富良野の地に居をかまえ生活する人々はいなかった。明治30年以降に、人手の入らない荒涼とした自然を切り開き、本格的な開墾が始まったのである。それから100年余、先人たちの力によって今日の町の姿ができ上がった。

 この地に住む人がいなかったはずの上富良野でも、開墾が進むにしたがって、あちらこちらの畑から土器のかけらや石で作られた道具(石器)などが発見された。これらの土器や石器は、古い時代に、人の手によって作られ、生活の中で使われたものである。

 このようにして発見された土器や石の道具は、古い時代に、この地で人々の生活が営まれていたことを示している。

 これらの土器や石器を残した人たちは、いつ頃、ここで生活し、その後、どうしたのだろうか。そして、新しく移ってきた人たちと、どのような関係になるのだろうか。

 後でも述べるが、私たちの祖先は、江戸時代にも、奈良時代にも、土器や石器を使っていた時代にも、日本列島のどこかで生活をしている。彼らは、野山や川、海で生活の糧を得ていた。

 このように狩猟・漁撈・採集の生活をしていた縄文時代の人々は、日本列島のどこでも、ほぼ同じような生活をしていたと考えられている。その後、今から約2200年前、紀元前200年ほど前に大陸から、新しく稲作農耕が入ってきて、それまでの狩猟・漁撈・採集を基本とした生活システムから稲作農耕を中心にしたシステムに変化していくことになる。

 これに対して、北海道は気温の関係からか、稲作農耕が行われることなく、縄文時代の生活システムをそのまま受け継ぎ、アイヌ民族の生活へと継続していくことになる。この生産形態の違いが、本州以南の文化と北海道の文化を大きく分ける結果となった。

 明治に入って、本州から北海道に渡ってきた人たちは、この稲作農耕を経験した人の末裔であり、北海道で生活していた人たちは、稲作農耕を経験しなかった人の末裔ということになる。

 本州から人々が移り住み、明治30年、行政的に村になってからは、いろいろな記録が残されており、それらによって上富良野の歴史を知ることができる。しかし、それより前になると書き残された記録が少なく、更に土器や石器を使っていた時代は、もちろん文字など存在せず書かれた記録もない。そのため、生活していた人々が残した痕跡を、土の中から見つけだすことによって、その生活を明らかにしなければならない。しかし、食べものをはじめ、身の回りの生活用具、狩猟用具など、そのほとんどのものが長い年月の間に、土の中で腐食し、その姿を消してしまっている。残っているのは、腐ることのない石の道具、粘土を焼いて作った土器など、ごく限られたものである。

 このように腐らずに残った限られた資料によって研究が続けられているが、まだまだ明らかにできることは多くない。というよりも分かっていることの方が、はるかに少ないことを断わっておかなければならない。

 この章では、発見された土器や石器をもとに、人々が、上富良野の地で、いつから、どのような場所で生活をしていたかを探ってみることにしたい。

 

 富良野盆地の位置

 ここ上富良野は、富良野盆地の北側に位置している。盆地自体は、北海道のほぼ中央に位置しており、富良野盆地については、次のように説明されている。

 

  東はトムラウシ山、十勝岳などの火山群、西は夕張岳、北の峰、芦別岳の断層崖、南は老根別山、トマム山などに囲まれ、北側は上川盆地と丘陵によって境される南北30`b、面積130平方`bの盆地をいう(畑山義弘「富良野盆地」『北海道大百科事典』下、昭56)

 

 この南北に細長い盆地に、四方の山から集まった河川は、南の富良野市で1本に合流して空知川となり、西側の丘陵地帯をぬけ、芦別市を通って、石狩川に注いでいる。細長い富良野盆地は、現在、北から上富良野町、中富良野町、富良野市の3市町に行政区分されている。これらの市町は、いうまでもなく明治以降、開拓のための入植後に、行政上、区分されたものである。これから述べていく先史時代の人々は、このような区分とは関係なく、広い盆地内を生活の場としていたと思われる。そこで、ここでは富良野盆地全体を、一つの世界と考え、述べることにする。

 

 遺物と遺跡

 上富良野で、土器や石器を使って生活していた先史時代の人々は、いつ頃から生活を始めたのだろうか。この疑問は、富良野盆地ではいつから―、更に大きく、北海道ではと拡大していくことになる。

 上富良野では、先史時代の人々が、いつから、どのような生活をしていたかを、明らかにするための学術調査は行なわれたことがない。そのために十分に内容が分かっている遺跡やまとまった資料は得られてはいない。しかし、上富良野でも、開墾が始まって以来、今日までの間に、いろいろなところから、やじり(石鏃)、石おの(石斧)など、石の道具、土器のかけらなどの遺物が見つかっている。これらを手がかりに進めていかなければならない。

 土器や石器などの遺物が採集されるところを、遺跡あるいは埋蔵文化財包蔵地と呼んでおり、この遺跡から見つかった遺物は、町の郷土館や学校などに残されている。

 北海道教育委員会では、昭和47年から全道の埋蔵文化財包蔵地の分布調査を実施しており、昭和58年には、上富良野の分布調査を行っている。その結果、町内で36カ所の包蔵地が確認されている。上富良野と隣接する美瑛町では34カ所、中富良野町では33カ所、富良野市では101カ所(現在は124カ所)の包蔵地=遺跡が確認されている。上富良野の遺跡の数は、富良野市を別として、周辺の町とほぼ同じぐらいの遺跡数である。

 これらの遺跡から、生活の中心になる住居跡や亡くなった人たちを埋葬したお墓など、遺構が発見されると、その付近が生活の中心であったことが明らかになる。しかし、上富良野においては、先にも述べたが、学術的な発掘調査は行われていないために住居跡やお墓などの遺構は見つかっていない。

 過去、平成5年に、道路の改修工事で壊されるために、日の出五遺跡の発掘調査を行なっているが、そのときは、遺構らしきものは確認されていない。そのため、今日までに採集された遺物を中心に、周辺市町の発掘調査の成果、及び北海道の先史時代の変遷を参考にして考えていきたい。

 

 盆地の内・外

 現在、富良野盆地と周辺を結ぶ交通網は、東西南北の四方に伸びており、盆地の外とのつながりをたもっている。もちろん、今日のように、情報、物資、人の交流が激しいわけではないが、古い時代には、古い時代なりに盆地の内と外との交流があった。

 昭和60年、富良野市鳥沼遺跡を調査した杉浦重信は、次のように書いている(杉浦重信・工藤義衛『烏沼遺跡』富良野市教育委員会、昭61)。

 

  富良野地方は北海道のほぼ中央に位置しているが、その地理的な環境を反映して、出土した土器群もバラエティーに富んでいる。他地域からの文化の流入・通過が盛んであったことが土器からも充分うかがい知ることができた。

 

と書き、その経路として、次の4つのルートを上げている。

 

 ・石狩川の支流、空知川をさかのぼるルート(石狩、空知地方)

 ・日高峠を越えるルート(日高・胆振地方)

 ・狩勝峠を越えるルート(十勝・釧路地方)

 ・深山峠・美馬牛峠を越えるルート(上川地方)

 

 この4つのルートから「文化的な影響」を受け、「複雑な文化様相をなしている」「極言するならば、富良野は先史時代の文化の十字路であった」と続けている。

 富良野盆地をはじめ、上川盆地、名寄盆地と、北海道の中央部に並ぶ盆地は、盆地内で一つの小世界を作りながらも、北海道全体の流れの影響によって、その変遷をたどっている。

 ここでは、北海道のほぼ中央に位置する富良野盆地が、北海道の先史時代の大きな流れのなかで、どのような位置付けになるのか。そして上富良野といった視点で見ていくことにする。

 

 先史時代の時期区分

 まず、最初に、北海道の先史時代の概要にふれることにするが、その前に、先史時代の時期区分について述べておきたい。

 この時期区分については、表2−1に示したとおり、北海道以外では、一般に、先土器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代というように移り変り、文献中心の歴史時代につながっている。これに対して北海道の場合は、この流れと異なっているとともに、時間的なずれが見られる。先土器時代、縄文時代の始まりの時期が遅れることと、本州の弥生時代以降が、北海道では、続縄文時代、擦文時代と独自の展開をし、その後、アイヌ民族の文化につながっていくなど、北海道独自の歩みをしていくことになる。