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続・石碑が語る上富の歴史(その8)

中村 有秀 昭和十二年十一月二十八日生(五十三才)

専誠寺境内に建つ『十勝岳爆発惨死者碑』


大正十五年五月二十四日、午後四時十七分に発生した十勝岳大爆発により、百四十四名の犠牲者と家屋・納屋・家畜・田畑・山林・橋梁・河川とその被害は甚大であった。
『郷土をさぐる第八号』(平成二年二月六日発行)に十勝岳大爆発災害に関係する九基の石碑について掲載しました。
その碑の一つで、専誠寺境内に建つ『十勝岳爆発惨死者碑』についていくつかの不明な点がありました。

●碑を寄進された「和寒村佐藤円治知行」はどの様な人物であったのか。
●建立年月が町史および碑裏面によると「大正十五年秋」となっているが事実はどうか。
●この碑がなぜ『昭和六十三年八月三十一日ヌッカクシフラヌイ川の共和橋付近の川底』から発見されたのか。
●建立場所が『役場→専誠寺→役場→ヌッカクシフラヌイ川→専誠寺』への変遷経過。
以上の不明点が北海道新聞の記事掲載により、多くの読者の皆様のご協力があり、その取材と確証の繰り返しの結果様々のドラマがありました。
◇新聞記事により続々と情報が……
昭和六十三年八月三十一日午後三時三十分頃にヌッカタシフラヌイ川共和橋付近の川底から発見された『十勝岳爆発修死者碑』を、北海道新聞富良野支局倉貫記者が九月一日付夕刊にて記事とした。その後、倉貫記者が平成二年二月発行の『郷土をさぐる第八号』を読み、その調査結果を平成二年三月三日付の北海道新聞道北版に『なぞは深まる』との見出しで記事となった。
新聞に掲載された日の午前七時三〇分頃、富良野小学校教諭佐藤 博氏から島瀬良一氏(郵便局職員)を通じて『寄進した佐藤円治知行は私の曽祖父で、吉田村長からの礼状も大切に保管しております』との電話連絡がある。
新聞記事の六日後、平成二年三月九日に上富良野町高橋建設勤務の奥田達雄氏より『ヌッカクシフラヌイ川に碑を供養して流した人は、同僚の初田新作氏で経過を話しをすると言っております』との連絡を受けたのであった。
新聞報道の反響の大きさに驚きながら、すぐに関係者への取材を行ったが、驚くべき新事実が判明し『十勝岳爆発惨死者碑』についての疑問の大部分が解明された。
◇碑を寄進した『和寒村佐藤円治知行』とは
十勝岳大爆発当時の『吉田貞次郎村長からの礼状及び封筒』を大切に保存しているという富良野小学校教諭の佐藤 博氏は、『佐藤円治知行→佐藤徳治→佐藤賢治→佐藤 博』となり、碑を寄進した円治知行は曽祖父になり、佐藤 博氏は四代目にあたる。
佐藤 博氏は教諭として、昭和五十四年四月から昭和六十二年三月までの八年間の長きにわたり、上富良野小学校に勤務された。幼少の頃、祖父徳治から、又、父賢治から『上富良野には十勝岳大爆発の供養碑を寄進した』と聞かされ、上富良野町在住中に探し歩いたが所在が判らなかった。(調査の結果、当時は上富良野町宮町の初田新作氏の庭にあった事になる)
『佐藤円治知行』は仙台藩主伊達氏に仕える佐藤右仲太・こまつの二男として弘化元年十月六日に宮城県伊具郡佐倉村(現在の宮城県角田市佐倉)にて生れ、父同様に仙台藩に仕えたが、佐藤円治知行は武士名である。結婚し長男徳治は明治五年六月二十一日に生れる。大正五年五月に宮城県伊具郡角田町(現在の角田市)より北海道へ移住し、円治七十三才で徳治四十五才の時であった。碑を寄進されたという佐藤円治知行は渡道六年目の大正十一年七月七日、七十九才にて和寒村十八線西四十番地にて生涯を閉じたのである。
渡道後は、農業のかたわら「石工」として働き、和寒周辺の碑の刻みには円治知行・徳治の足跡が見られ、和寒墓地の『無縁仏の碑』も一鑿一鑿と彫んだものである。
大正十五年の十勝岳大爆発の時には、佐藤円治知行は既に他界されていた。大爆発惨事を知った徳治は信仰心が厚く、各地の碑を一緒に彫んだ父を思い、『十勝岳爆発惨死者碑』の寄進を考え、碑文の書は願成寺住職・藤 光雲師に依頼し、大正十五年秋に彫り始め翌年春に完成して、上富良野村役場に送ったのでありました。
碑の裏面に『寄進佐藤円治知行次代人』となっている事がうなづけます。従って礼状の受取人も『佐藤徳治殿』とあります。
上富良野村長吉田貞次郎氏からの礼状及び封筒は、佐藤徳治氏の孫である富良野小学校教諭佐藤博氏が父賢治氏から預かり、任地は何ケ所も変る間も大切に保管されていました。
佐藤徳治氏は北海道の水稲冷床育苗法の先駆者であって、和寒神社境内にある昭和三十年十月十日建立『水稲冷床育苗法創案普及功労者農学博士小川義雄翁顕彰碑』の顕彰文の中に唯一人佐藤徳治氏の名が、困難な地方での実践普及の功労者として永遠にその業績が讃えられています。
  (碑文)水稲冷床育苗法創案普及功労者
     農学士小川義雄翁顕彰碑

小川義雄翁は大正十三年以来和寒町松岡農場支配人として多年農業各般の指導研究に当り特に本道稲作に対し冷床苗利用栽培法を創案普及し以て本道農業に一新機軸を与えたる功績や実に偉大なりと謂ふべし。由来、本道稲作は主として直播法に依りしが爲、昭和六、七年の如きは冷害を被むり全く稔実を見ず、農民の窮乏その極に達せり。翁は夙に寒地稲作法の確立に志し、偶々、佐藤徳治其他篤農家諸氏の温床苗試作に示唆を得て冷床育苗法を案出し、これが実験に心魂を傾注し遂に昭和九年の凶作に当り平年作に近き収穫をあげて強き自信を得たり。爾来、毀誉褒貶を顧みず寝食を忘れて各地に遊説しこれが普及奨励に邁進せり。かくて翁の献身的努力は遂に報いられ今日の安定稲作に強固なる基礎を確立せしめ得たり。茲に全道水稲栽培者相諮り翁の輝かしき功績を永遠に讃仰せんが為にこの碑を建立す
昭和三十年十月十日

   後学 北海道大学名誉教授日本学士院会員
   農学博士 伊藤誠哉 題字並撰文
(建立発起人)
上川生産農業協同組合連合会々長 秋山孝太郎
空知生産   〃    〃   稲垣 源一
石狩地区   〃    〃   鹿野 恵一
後志生産   〃    〃   山中 良造
北見地方   〃    〃   木村  武
十勝     〃    〃   朝日  昇
和寒町長            南雲源一郎
名寄町             荒瀬 宗二
建立年月日は碑及び町史には大正十五年秋皇霊祭となっていますが、佐藤徳治氏宛の礼状及び封筒の日附印は昭和二年五月二十日になっていますので、災害一周年に間に合うように送付され、昭和二年五月二十日到着した事が確認できます。
建立年月日及び場所については、礼状の中には『近日中建設位置を定め建設可致候』となっているが、爆発災害復旧関係の忙しさで、とりあえず旧役場庁舎裏庭に建立したのが昭和二年五月二十四日と考えられます。
◇建立場所の変遷について
和寒村十八線の佐藤円治知行の次代人である佐藤徳治氏から寄進された碑は、昭和二年五月二十日に村役場に着き、同年五月二十四日に旧役場裏庭に建立された。
役場裏庭に碑身のまま建立された碑は、三十五年を経た昭和三十七年十月一日に専誠寺境内に軟石を三段積みにした台座を附して移設された。移設の確かな理由は判明しませんが、被災地の三重団体におおくの壇徒を持ち、寺も被災を受けた専誠寺が一番適切と判断されたと思うところです。
しかし、昭和四十二年の夏、専誠寺の現住職増田修誠師が大学生で夏休みに帰郷した折、境内にあるはずの『十勝岳爆発惨死者碑』が台座を残して碑がなくなっていたというのである。壇家役員に聞いたところ『役場で取りに来た』という話でその理由は不明であった。(増田修誠師の父で前住職増田義秀師は昭和三十九年十二月二十二日逝去された。現住職は高校三年生の時で、昭和四十年四月に龍谷大学に進学され、卒業される昭和四十四年三月まで旭川市真高寺住職が代務住職をされた時期でもあった)
「十勝岳爆発惨死者碑」を川へ供養のため流した初田新作氏は、最初は専誠寺前庭工事中にその他の廃棄物と一緒にある碑を、もったいない石と自宅の庭へ運んだと証言されたが、専誠寺の各記録関係を調査したが前庭工事がその当時なく、勤務先の高橋建設でも専誠寺又は高田幼稚園関係の工事は一切していないという。又、初田氏が運ぶ時の位置・台座の高さ・車の乗り入れ積込み状況から判断すると専誠寺から運んだのでなく、昭和四十二年に役場新庁舎が出来て旧役場庁舎跡の整地工事中に廃棄物の中にある碑を旧役場裏庭から棄てるのはもったいないと自宅へ運んだものと推定されます。
初田新作氏は昭和四十一年十一月に東中より現在地に転居し、専誠寺の増田修誠師が昭和四十二年夏に帰省した時には碑がなかったという事から、昭和四十一年か四十二年に専誠寺から役場へ、そして昭和四十二年春又は四十三年春(初田氏は庭に運んで来た時には花が少し咲きかかっていた時期という)に役場裏庭から初田新作氏の庭に安置されたものと推定されます。
もし、高橋建設の作業員が他の廃棄物と一緒にゴミ捨場(現在の島津球場)に投棄されていたら、この碑の今日はなかったものと考えられます。初田新作氏の『棄てるのはもったいない』の気持ちが『十勝岳爆発惨死者碑』の今日の存在になった事を思えば初田新作氏に感謝の気持で一杯であります。
初田新作氏の庭にあった碑は、後述の理由で昭和六十三年五月十二日夜、ヌッカクシフラヌイ川の共和橋の川下に供養のために碑を流したのです。
碑は、同年八月三十一日午後三時三十分、共和橋工事中に川の中から発見されました。工事関係者は驚き、役場と連絡を取ると共に現地で供養を行い、碑はひとまず聞信寺の『十勝岳爆発横死者血縁塔』の前に置かれた。
役場関係者が町史等を調査の結果、専誠寺に昭和三十七年十月建立されていた事が判明し、昭和六十三年十一月二十二日専誠寺に町史に記述の『東方に十勝岳を望む時…十勝岳惨死者碑…が眼前にある』の通り庭園の一番良い場所に台座を附して再び建立安置されたのである。
◇なぜ『共和横付近の川底から発見されたのか』
昭和四十二年又は昭和四十三年春に『棄てるのはもったいない』と自宅の庭に持って来た初田新作氏であったが、昭和六十三年一月〜二月頃から食欲がなくなり段々やせて来たので、家族は心配して病院で診察を受けたが、どこも異常がないとの診断であった。しかし、少しずつ衰弱してくるので昭和六十三年五月十二日、旭川市のある『神さま』に祈ってもらったのです。
『初田さん、あなたの家に頭のとがった石がありますね』と言われ、初田夫妻はびっくりして顔を見合わせ『十勝岳爆発惨死者碑』を思いだし、その事を言うと『出来るだけ早い時期に供養し川に流しなさい』、川に流す時は『橋の川下で、碑面を上にし、頭を川上に向けて、米一合、酒一合、塩を供えて供養し清めて流しなさい』そして『碑のあったところには、海の砂を入れ塩で清めなさい』と告げられた。
旭川の『神さま』からの帰宅は午後七時頃であったが、初田夫妻はすぐこの碑を供養し川に流さなければと相談し、重機・車輌の準備をし午後八時頃から作業を行ったのである。
碑を供養し、川に流した後は『絶対に後を振り返るな帰りには話しをしてはいけない』と言われていたので無言で帰宅し、使用した重機・車輌・道具類を塩で清め、庭の碑のあった跡は海砂がないので川砂と塩で清めたが、隣に植えてあった五葉松が後に枯れてしまったという。
供養し川に流した翌朝である昭和六十三年五月十三日、初田新作氏は数ヶ月にわたってなかった食欲が、人が変わった様に食が進み家内が驚いたと初田氏は語っている。又、この日は高橋建設の花見で食べて飲んで久しぶりで気持良く楽しいひとときを過ごしたという。
それ以来、初田氏は体調も良く元気で働いて今日を迎えています。
◇『十勝岳爆発惨死者碑』慰霊法要が行われる
藤 光雲書、佐藤円治知行寄進の『十勝岳爆発惨死者碑』は六十余年幾多の変遷を経て、十勝岳爆発で多くの壇徒が被害を受けた専誠寺に昭和六十三年十一月二十二日慶置法要が厳修されました。
ここに、いくつかの不明・疑問が『郷土をさぐる第八号』及び『北海道新聞による報道』によって多くの皆様のご協力で解明する事ができました。
十勝岳大爆発から六十五年の平成二年五月二十四日、碑の寄進者、佐藤円治知行氏の曽孫佐藤 博氏、当時の吉田貞次郎村長の長女清野ていさん、三女安井弥生さん(前衆議院副議長安井吉典氏夫人)酒匂町長、小野町議会議長、山崎郷土館長、専誠寺住職増田修誠師、専誠寺責任役 田中一米氏、同壇家総代 落合 勇氏、郷土をさぐる会から加藤 清氏、千葉 誠氏、高橋寅吉氏、松永岩人氏、元木俊明氏、中村有秀が集い『十勝岳爆発惨死者碑慰霊法要』が専誠寺境内の碑前において行われました。
碑名を書かれた藤 光雲師の孫藤 光悦師は願成寺壇家の用件で欠席されたが、この法要にと朱香が供えられた。
法要後、本堂にて佐藤 博氏より吉田貞次郎村長からの『礼状及び封筒』、筆者より藤 光雲師の『旭川周辺の藤 光雲諸碑帳』の二点が専誠寺住職増田修誠氏に記念資料として贈呈されました。
出席された各氏より十勝岳爆発関係や、この碑の変遷について語られたが、安井弥生さんは現天皇陛下からのお言葉をいただいた事を話されました。
それは、安井吉典氏が衆議院副議長に就任された時の事です。衆議院議長・副議長が就任した時は、新・旧の衆議院議長・副議長夫妻を天皇陛下が赤坂御所に招待する事が恒例になっているのです。
平成元年十月三十日、新旧議長・副議長に天皇陛下からの招待の宴の日です。偶然にも安井吉典氏の誕生日であったので、田村議長は今日は安井君の誕生祝だと言っておられたという。
出席者は天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下に新議長田村 元氏、新副議長安井吉典氏、旧議長原 憲三郎、旧副議長多賀谷真稔氏の新旧夫妻八名の招待宴です。
天皇陛下の隣席に安井弥生さんが着席し、向いに安井吉典氏。安井弥生さんは緊張して何を話題にしようかと考えていた所、陛下にやさしく語りかけられました。全体の話題が世界の出来事について語られた折、外国の火山爆発から一転して、天皇陛下から、『安井さんは旭川出身ですね。十勝岳爆発のその後の活動はどうですか』と昭和六十三年十二月の事について尋ねられました。
『私の出身地ですが、今は火山性地震もなく静かになりましたが、しかしいつ活動が活発化するかわかりません』とお答えすると、陛下は『大正時代に十勝岳は大爆発したそうですね』と言われ、安井夫妻は天皇陛下が国民の様々な出来事に関心を持ち、その記憶力に驚かされました。
安井弥生さんは『大正十五年の十勝岳爆発での泥流で百四十四名が犠牲になり、私の父が当時の村長でその復興に大変苦労されました』と語ると、陛下は非常に驚かれ『そうですか、お父さんが村長さんで復興に尽力されたのですか。それは大変だったでしょうね』と心やさしくねぎらいのお言葉をいただき感激しましたと語られました。
慰霊法要が十勝岳大爆発の六十五周年の節目であり、この碑が川底から発見された昭和六十三年に十勝岳の火山活動が活発化したのも何かの縁であったのでしょうか。
私達が毎日仰ぎ見る十勝岳、四季折々の季節感と希望を与えてくれる十勝岳、この愛する十勝岳の静かなる山でいてくれることを心より祈りながらこの稿を終ります。
たまゆらに けむりおさめて しずかなる
          山にかえれば 美るにしたしも
                      九條 武子

機関誌 郷土をさぐる(第9号)
1991年2月20日印刷  1991年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会会長 金子全一