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『江幌の溜め池』今昔物語

谷本 和一 昭和三年十二月二十日生(六十三歳)

『江幌の溜池』その名は、吉富池、江幌ダム、時代と共に名称を変え創設以来実に六十数年を閲しております。
貯水池から潅水を受ける水田農家の人達は勿論ですが、子供達の遠足に、レジャーを楽しみこの他を訪れる人にとっても移り変りゆく六十数年の歩みこそ数限りない想い出があると思います。
当初から現在地の西十線北二十七号に所在する江幌ダムは、昭和五十三年から五十九年度に於て総工費五億八千九百万円の巨費をもって完成されたダムであります。満水に水を湛えるダムの堰堤、東には十勝岳の連峰を眺め、更に今回の国営しろがね事業の幹線道路が山中の岩盤を掘り割っての難工事も完成し、舗装道路の白線がくっきりと浮き出、すぐダムの側面に通じ交通の便利も一層増大し、特にダムを訪れる人にとって堰堤横の江花部落へ通じる町道は町内隋一の樹木のトンネルとして、春の若葉、秋の紅葉等は自然の中での天下の絶景として、見事な景観は訪れる人の心を和ませて呉れます。
この度江幌の溜他の今昔の物語りと題し寄稿の依頼を受け、同じ江幌に住まいをさせて頂いて居る私として江幌の溜池の六十数年前の歴史をさぐり尋ね、尚今は亡き親からも生前耳にし当時を知る古老にも尋ねてみました。
溜池を管理して屠る現在の草分土地改良区に、福井総務課長さんを訪ねました。昭和二十八年迄草分土功組合と云う名のもとに事務所は村役場の中にあって、当時理事長は村長が、また職員も役場の職員が当って居りました。これら尊い文献資料として、土功組合の台帳、貯水池の改良工事関係の資料等を見せて貰いました。色あせて角は多少擦り減りながらも大切に保管されて居りました。
頁をめくる度に当時の先人の苦心苦労の様子が伺われ、熱いものがこみ上げて来る思いでありました。
吾が町の米作りの始まり
江幌の溜池の由来を尋ねるのには、我が町の開拓の先人の苦労と、水を必要とする米作りの歴史がどうしても出て参ります。
我が町の開拓は明治三十年四月、三重団体田中常次郎氏外十七戸移住によって始まり、明治三十一年には石川団体、福井団体の移住に依る他、各地から移住者も相つぎ大森林を切り開き開拓されました。この畑地に明治三十五年に三重団体から移住された人達が、内地の米作りを取り入れたいという事で、水田経営の試作が引水の認可を受けて、フラノ川沿の現在の西三線北二十九号付近で、行われたのが始まりとされて居ります。
明治三十五年は北海道全体が凶作で、試作田としての稲作りも、不幸にして結実するに至りませんでした。その後二、三年継続して試作しましたが、いずれも良い結果が得られず、途中頓挫して再び畑地に還元すると云う状態に成りました。その後何んとしても米の飯を食べたい一心から、明治四十年には又も造田熱が高まり、試作者も出て数年間で苦心のあげくどうやら成功しました。その後私設の潅漑溝の許可を受けて造田する人も現われ、面積百数十町歩に及んで来ました。
草分土功組合の設立
造田が進むにつれ水利の不足が生じ、しばしば水利をめぐる紛争があり、それに依ってその他小川からの引水で無願造田する人も多く出て来ました。
明治四十一年には富良野土功組合が設立され、当時この富良野土功組合に直接何ら関係のない草分組合の地域も強制的に加入させようとしましたが、上富良野、中富良野の西中地区に属する各権利者はこれに反対したのであります。当時、別にこの両地区内の共通の利益と将来に向けて、水利の安定供給を目的とした草分土功組合を設立させる動きがあったからで、その後充分協議し準備を進め、併せて無願田の整理と水利の統一を計り、大正十四年四月ついに草分土功組合が設立されたのであります。
この組合の設立には、初代理事長に吉田村長が就任、組合員数三百十三名を以って組織され、潅漑総反別千二百二十九町八畝歩で、当時としては富良野原野屈指の美田となった訳であります。
十勝岳の大爆発による被害
大正十五年五月二十四日、歴史にも残る十勝岳の大爆発に遭遇しました。この突然の大災害によって多くの死者を出し、なお草分土功組合の区域の中で富良野原野屈指の水田も束の間、約半数に及ぶ面積が完全に破壊され流木を混入した泥海と化してしまったのでありました。先人の辛苦、三十数年の足跡も一瞬にして水泡に帰してしまいました。
調査に依って記された被害面積は五百三十余町歩にものぼり、一刻も早い復興の為に北海道庁からも専門技術官を派遣して貰い鋭意復旧につとめました。
「江幌の溜池」のはじまり
十勝岳の爆発により水源が荒廃し自然流下の水量不足が生じ、どうしても貯水池が必要だということになりました。当時の土功組合としては大英断であったと思われるが、工事費十三万七千余円を投じて国庫補助を受け江幌溜池を完成させました。
北海道土功組合、及び草分土功組合の資料によると(数字の遠いは資料の取り方によって違うものと思われる)工事費と財源は次の様に記されおります。
  ○工事費
●貯水池費   六二,一八二円二七銭
●幹線費    四〇,五七九円〇〇銭
●敷地買収費  一三,一五五円二三銭
●その他     三,一七三円〇〇銭
   計   一一九,〇八九円九六銭

  ○財源
●補助金    九五,二七一円九七銭
●組合員負担金 二三,八一七円九九銭
   計   一一九,〇八九円九六銭
昭和二年四月三十日、北海道庁の認可を受け、現在地のトラシエホロ完別川支流の上流地点で、畑地、水田、官有林等を十四町五畝二歩を買収し、無償使用許可を受け、昭和二年八月請負工事で同年十一月末築堤高十尺に達するまで工事が実施された。
そして翌三年四月には再度工事を開始して十一月末に竣功をみる事が出来た。その内容は、貯水量二百七十万立方尺、築堤直高五十尺、築堤馬踏巾十五尺、犬走二段、羽金材料は粘土と鉄筋コンクリートランゼル方法を取り入れ、底樋管内径二尺の鉄筋コンクリート管を用い、放水路延長九十五間、水門六連コンクリート管を使用した堅固なものであった。
この溜池は我が町にとっても近隣町村でも溜池としては第二号であります。それにしても当時の工事作業は現代の様な大型重機とは隔世の差があり、人力のモッコで土運びを行い、又モンキ突き等全てが人力で行われ、当時タコ部屋の人夫も脱走者が出る程の難工事であったと聞いております。
尚町史等によると完成は昭和七年となっており、その資料を調べてみると昭和三年十一月完成の溜池も、昭和四年の融雪時となって地盤が非常に粗悪な火山岩の為地層の隙間からの漏水が生じたのであります。その上融雪時の大雨の為に一時に水量が増し、漏水と溢れ水とに依って堰堤の部分欠壊も生じました。このままにして置くと危険な状態になると判断され、昭和五年には北海道庁に緊急貯水池補修工事起工認可申請が出されたのでした。これによって昭和六年、八割の補助額二万四百六十七円を受け、工事費総額二万五千五百八十四円をもって改修工事が行なわれたのです。
改修工事は地盤の軟弱な地層からの漏水を防ぐ事で、工法は二十尺の鉄の矢板の打ち込みとセメントの地中填充で、旧川跡の漏水の生じている堰堤の横断箇所と併せて岩層亀裂の方向を考慮し、放水路及び側壁等を特に堅固に行ったのです。セメントの填充に使用する機械は北海道庁備付けのものを借用し、翌七年二月十五日苦難の末ついに竣功となった訳であります。これによって水利を受ける農家にとってはこれ又喜び一入のものがありました。
その後堰堤の表面補強の為に赤クロバーの種子が蒔かれ、春から初夏にかけて赤い花が万水の池の面に映り、堰堤が一段と映え渡って訪れる人の目を楽しませてくれました。
昭和十二年日支事変が始まり、当時小学校児童であった私も、昭和十二年頃から十五年頃校外分団活動で赤クロバーの種子を摘みに何回も出かけたものです。その後昭和十六年十二月には大東亜戦争の開戦によって、日支事変と共に国内は非常な物資不足の状態へと成っていきました。
昭和十七年度溜池の改修工事
竣功後十四年を経過して溜他の斜樋管の改修工事が行なわれたのであります。土堰堤中央部にある木造を以って埋設している斜樋管の腐朽によるもので、特に六月から漏水がひどくなり一時危険な状態になったからで、万一の為に監視人を常置して、八月下旬の落水期から翌年の融雪期までの間に集中して改修工事が行なわれました。
改修工事はヒューム管入コンクリート斜樋の施工で、工事費は総額一万百五十五円、その中補助金は四千六十二円を当時の北海道庁長官坂 千秋氏に依って補助を受け、難工事を完了することが出来たのであります。
当時は軍事産業優先の時代で、生活物資は勿論あらゆる資材の少ない時代であり、冬期間工事の為の防寒用の石炭も地元生産の木炭に変わり、工事用の資材も金さえあれば買える現在とは大違いで、日常の生活物資は一本のタバコやお酒、畑に使用する肥料までも配給制度の時代でした。
しかし工事用の資材だけは特別に配給申請が北海道土地改良課へ出され配給を受けておりました。その内容は、
特許ヒューム管     三二本
セメント(五〇s)  四五六袋    高丈   十足
西洋針(二寸)  一〇・六五s    軍手   十八双
亜鉛引鉄線     七・六五s    スコップ 十丁
鋼材(丸棒φ12)    三五s    ツルハシ 四丁
ゴム長ぐつ        四足
と記されております。
当時は人夫賃金一日二円七十銭、大工賃金三円五十銭の時代です。
昭和十七年十一月三十日の改修工事の竣功予定も、九月以降の多雨と長雨とによって盛土堰堤の中央部の土砂決壊等が生じ、更に人手不足と重なって予定通りには完成せず、延期申請をして翌十八年一月三十日にやっと予想以上の難工事を完了させたのです。
ニジマスの放流
吉富池とも呼ばれる江幌の溜他には、保安林として水源涵養林内から湧き出る清流がありました。この清流に昭和四十八年頃現在の上富印刷の社長である会田義隆さんや、農協勤務の門脇勝郎さん、千葉 長さん等が発起人となって、ニジマス等の稚魚を放流する事を計画、実行されました。
会田義隆さん等は自費を何万円も投じニジマスの稚魚、又阿寒からワカサギの稚魚を導入し人工的に魚の生息を願って放流されたものでした。その成果が実り二、三年後には稚魚が成長し他の面に飛びはねる様になりました。
この魚を釣りに当時釣り愛好会が結成されました。会長に上富農協の元参事高橋哲雄氏、副会長に会田社長他三名がなって、年間会費千円で会員には証しとして黄色い帽子が与えられました。その後噂が広がって一番多い時は旭川、美瑛方面からもこの会員に加入し、総勢二百五十名程の会員になったときいた事があります。当時釣の時期にはこの会員が江幌溜他に集まり盛んに釣り糸を垂らしている風景がよく見られたものであります。
昭和五十二年堰堤の陥没
溜他の周辺の森林には小鳥がさえずり、他の面に水鳥が羽根を休め親子仲良く泳いでいる光景は平和そのものでありました。しかし、昭和五十二年五月、突如原因不明の堰堤の陥没という災害が発生しました。当時上川支庁南部耕地出張所を通じて道庁に原因調査を依頼し、併せて改修工事の申請が出されました。調査結果に依ると、取水私設は斜樋並びに底樋の老朽化が著しく、また余水吐の施設の老朽化も進んでいるということでした。堤体及び基礎からの漏水は特に左岸側法面下部からと、天端部法面左岸側アバット付近が陥没しており、昭和五十三年採択とともにこれらの改修工事が行われました。斜樋、底樋を取替えヒューム管を左岸掘削し、更に側溝式余水吐の新設を施し、堤体は左岸部堤体を開削し検岩基礎処理を行い、その後グランド処理が行なわれました。
堤体のかさ上げは一・三〇米で、上流側斜面ブロック施工とし下流斜面は張芝工を行い、堤体の高さ十九・八七米、堤長一八〇米の江幌ダムとして、昭和五十九年度に完成したのであります。
この総事業費は五億八千九百万円で、その内補助金は四億七千百一万六千円、残りは地元負担金で一億千七百七十五万四千円でした。又この地元負担金の内借り入れが一億五百九十三万円で、現金千百八十二万四千円は直接ダムの水利用者の負担となりました。
この負担金の借り入れに対し償還が高額負担になるので、昭和五十四年に笠原重郎氏他三十八戸から町に助成を願う陳情書が提出されました。
昭和四十五年度から始った米作付の減反政策の中で、水田への水の必要量は大幅に減っては来ましたが、位置的見地から貴重な水源として大きな役目を果たして今日に至っております。
今は町のリゾート計画の中に、西山地区のダム周辺の長期開発計画が組まれている様ですが、又特に商工観光課でも企業の誘致計画等長期構想に力を注ぐ様になりました。
又最近は旭川市在住の業者の買収計画に依って、元町有林の保安林を解除し、ゴルフ場やレジャー施設建設の為に開発計画を道や林野庁に働きかけているようですが、その扱いを巡って行方が注目されるところであります。
これからは恵まれたせっかくのこの地の利と、空気の良い静かな環境を山奥で眠らすのではなく、通年水を満水し釣り人にも親しまれる様ダム周辺が将来へ向けて納得の行く方向へ開発され、観光の面でもダム利用の面でも活性化される様希望し、将来へ引継ぐ為に努力して参りたいと思います。

機関誌 郷土をさぐる(第9号)
1991年2月20日印刷  1991年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会会長 金子全一