郷土をさぐる会トップページ     第09号目次

上富良野神社の由来

清水 一郎 大正三年三月七日生(七十七歳)

日本は昔から神国として種々の神話伝説を提唱し、又情操教育や人格の修養にも敬神精神の指導が行なわれて来た。現在は戦前と違って学校教育でもこのことにはふれないので、敬神の信仰心は薄れて行く筈であるが、この平和な世の中に今もむしろ活性化を続けるのは何故だろう。
仏前で祖先を拝みながら、一方神様だけにはお願いをする。人間は欲深く弱いものと思う。困った時の神頼みは今後も人類の生存する限り続き、年始祈願、合格祈願、各種の厄払い、開設開業の祈願から冠婚葬祭に至るまで、祈る事で心の安堵を得られるのである。又どんな金持ちもどんな貧乏人も、身分の高い人も低い人も、男も女も大人も子供もそれぞれ目に見えない神様にお願いし、それによって世の中の秩序が保たれるのだから、神は偉大な力の持主である事には間違いない。
北海道の人口は今約五百六十万人、この人口は当初移住民から始まった。先人の移住者はそれぞれの開拓地に村落を作り、一番先に神社を祀った。我が上富良野町にも先人の移住者によって部落毎に建立された神社が十二社もあり、部落毎に年一回の奉納祭も行われて開拓者の伝統が継承されているのである。
明治三十二年十勝鉄道が旭川から美瑛まで開通し、又翌三十三年には下富良野(現在の富良野市)まで開通した。これによってあちらこちらから人が集まって戸数も急増し市街地が形成されたのである。上富良野神社の由来は、開拓が進むにつれ敬神の信心深き人々が集まって氏神を祀り、心の寄りどころとして社殿の建築が計画されたのが始まりである。
その時の委員として境 柳助氏、金子庫三氏の両名が青年会を組織化する事に奔走された。開拓時代からの主要作物である菜種が、七月中旬の現金収入源となっていたので、この時期に合わせて明治三十五年七月二十五日、二十六日を祭典の日と定め無格社ながらついに天照大御神を奉祀した事をもって創祀とし祭礼を行うに至ったのである。
鎮座地は上富良野市街三〇六六番地(現在も同じ)当時の戸数は五百八十戸、神社の名称は富良野神社と称し富良野村の総鎮守の神様として創祀された。
その後人口の急増に伴い、明治三十六年に下富良野を分村し上富良野村となった。当時分割の人口と財政は、下富良野村(現在の富良野市)は戸数三〇〇戸、人口千三百五十七名、財政三百十五円八十七銭で、上富良野村は戸数四〇〇戸、人口二千五百名で財政三百二十七円二十三銭七厘であった。この分村によって以来上富良野村神社と称した。またこの分村によって当時氏子も多く将来へ向けて公許を得て村社としての資格を備えるべきの声高く、爾来河村善次郎、北原虎蔵、金子庫三氏等有志者によって、境内地三反歩を定める等種々を尽くし、当時無格社ではあったが御神体として、伊勢の皇太神宮から御分霊を拝受、奉安し、村社と称するに至ったのである。
天地の恵みに感謝しその加護を祈り、豊饒を喜ぶ事は当時の開拓者には村民心を一つにしての念願でもあった。
その後時を経て、開拓の発展と人口の増加に伴い大正六年には中富良野村を分村した。当時の分割人口と財政は次のとおりであった。
上富良野村戸数千四百四十八戸、拓五千円、局三十四円八一銭二厘
中富良野村戸数千百七戸、拓三千五百円、局三百五十五円七十七銭一厘
当時神社は内務省の管轄下にあった事から、公的に神社となるためには法的な手続きが必要であった。
当然の事ながら村人は、我が村の鎮守様と公的に認めて貰うため請願書をまとめ、金子庫三氏外四十九名の署名を以って内務省に提出された。
内務省北社第二号
北海道空知郡上富良野村字上富良野
金子庫三外四十九名
大正八年十二月四日願上富良野神社創立ノ件許可ス
大正九年五月十八日内務大臣床次竹次郎
という念願の報を受け、この時正規の神社となったのである。
早速社殿建立の準備を始め、大正十一年着工、翌十二年三月に竣工したのが旧社殿(昭和六十三年まで)であった。村民は正規の神社になると、今度は村社に昇格すべく村を挙げて境内の整備に奔走した。
古老の話しによると、初代宮司は国に残していた長男与次兵衛を呼んで、親子で心を合わせ雑草を切り払い、遠い宮城県から、松、ドイツトーヒの苗を取り寄せて植栽したとの事である。
私の記憶では行政区分、婦人会、青年団等各団体、各個人からも神社の森造成に樹木の献納があり、当時私も青年団の一員として大切にしていた庭木や、山の奥から大勢で運び出した大木、水松(いちい)、桜、つつじ等を植えた覚えがあり、同時にその他の環境の整備も行われ、社標、鳥居、狛犬、燈龍等次から次へと奉献され、神樹は深く神社らしく整った。
今までの七月二十五日、二十六日は不思議と雨天が多かったので、大正十二年この年を記念し、この年から八月一日と二日に神社祭を変更して行うことになり、この行事は現在も上富良野町の祭りとして町一番の大賑いを保ちながら続けられている。
内務省北社第七号、
上富良野神社北海道石狩国空知郡上富良野村鎮座右村社ニ列ス
大正十二年八月七日
内務大臣 水野錬太郎
この時、神饌幣帛料供進神社(註、御供物や玉串料を公費で負担する格式の神社)にも指定された。
無格社から村社に列したときの境内は次の三筆であった。原野五町歩、原野一段六畝二十四歩、原野一段六畝二十四歩、金子庫三、西谷元右衛門、一色丈太郎の三氏から寄贈されたものであった。
大正十四年戸数千七百二十七戸、人口一万二十六名、このころ神社を中心に草競馬が行われた。競馬場は現中学校周辺で神社境内の落葉松林に馬をつなぎ、神社境内は馬の休憩所であった。又競馬には農家の農耕馬も駆り出され、大変賑やかで今でも当時の騎士の赤帽が瞼に浮び起される。
又当時は神社奉納相撲が盛んで、お祭り余興と言えば競馬と青年相撲が盛会で近隣町村からの見物人も多く村は活気にみなぎっていた。
大正十二年三月建立された神社は、六十五年の永い歳月を大風・豪雨・豪雪に耐え、氏子各位の御神殿も破損老朽化が目立つ様になった。昭和五十六年頃から新しく御造営が関係者から声をきくようになったが、大風害や洪水又は種々の事情もあって決行を鈍らせ五年程を経過した。
昭和六十一年四月昭和天皇在位六十年を奉祝し、上富良野神社の御造営奉賛会が設立され、奉賛会長宇佐見利治氏を中心に度重なる審議を経て、町民約三千五百名の氏子の尊い御浄財の奉納のもと、総事業費約八千七百万円をかけて同年十月旧社殿をとり壊し、建設工事が進められた。
この新社殿は、旧社殿と同形式の神明造り複合社殿向拝付、木造平家建、屋根銅版葺で床面積約百六十八平方メートルは旧社殿より二割ほど大きく、基礎をコンクリートで固めたほかは美しい白木造りとなっている。
完成に三年を費やしたが昭和六十三年七月三十日御遷座祭(神体を移す行事)を経て、八月一日、二日の例大祭を迎えるにふさわしく完成した。
例大祭は三十度を超す猛暑の中、若者のみこし担ぎ、奉納行事として十三団体のスポーツ競技大会が賑やかにおこなわれた。
創祀以来八十八年の歴史に輝く神社には、何と云っても歴代の宮司及び総代会長更にこれを支援する委員が時代とともに引継がれ、神社を守っていただいたお陰である。
個々で歴代奉仕神職について記述するが、明治三十五年創祀の時から約二年間は神職がきまっていなかったので、天理教の布教師によって祝詞が奉上されたこともあった。
初代社司は生出柳治氏で、宮城県桃生郡飯野川町字皿貝の人で代々神職の家に生れた。北海道開拓の志を抱いて渡道し、明治三十五年上富良野に来任し、自宅に神を祀って祭事を行っていたが、明治三十七年郷土の人々の要望によって富良野神社に奉仕する事になった。郷土の発展と共に神社も氏子の数の増加によって支えられ、大正八年創立認可、同十一年には村社昇格運動とともに宮司も社殿の再造営に着手されたが、社掌としての正規の資格は無く、その後大正十二年一月から三月まで講習をうけ、同年八月の例祭から社掌として奉仕された。
二代目宮司は生出宗明氏で、昭和二十三年十二月一日に父の後をつぎ、神社の教化活動を通じて、戦後の混乱期を指導し、思想的虚脱状態の中にも神社を守り、しかも戦前に勝る充実を見せ、広く上川管内にその名を知られていた。
昭和三十四年六月十四日、生出宗明氏の死去によって七月九日から富良野神社宮司西川仁之進氏が宮司代務等となって行事等を執行していたが、富良野神社を本務とし上富良野神社は兼務であった。
昭和三十四年八月、生出邦子氏が直階試験検定に合格、直階を授けられたので十月五日禰宜として神社本庁より発令されその後奉仕を続けられた。
昭和四十八年、長男生出明臣民が皇学館大学を卒業され四代目宮司として社掌を継がれ現在に至っている。
又神社を運営する責任総代は、大正十二年七月村社に列した時に、金子庫三氏、西谷元右衛門氏、一色丈太郎氏の三名、昭和二十一年には鹿間勘五郎氏、高坂新三郎氏、河村重次氏の三名であった。その後山本逸太郎氏、高坂新三郎氏、河村善翁氏、又時を経て和田松ヱ門氏、金子全一氏、中西覚蔵氏等がその任に当たった。そして終戦後は法人化され昭和二十五年五月一日、神社規則を改正して責任総代が一名増員された。また氏子総代は初代会長佐藤敬太郎氏、二代氏子総代会長中西覚蔵氏を経て現在は三代氏子総代会長として宇佐見利治氏が就任されている。
又総代を支援する委員の担任も、大正六年中富良野分村後十四区に分けられ当初部制で布され、その後時代とともに次の様に変わった。
大正六年〜昭和二年    部制
昭和三年〜二十一年    連合会長
昭和二十二年〜二十九年  駐在員
昭和三十年〜三十八年   連合会長
昭和三十九年〜六十年   行政区長
昭和六十一年〜現在    住民会長
と受継がれ、この間特に大旱魃時は蓑笠を装い、神社に集まって大太鼓を打鳴らしての降雨祈願、又十勝岳爆発大災害時には行方不明者の早期発見祈願、その他常に嬉しい時も、悲しい時も、困った時も神社を中心に町が発展してきたのである。
つい先般天皇陛下の大嘗祭の儀式が挙行され、色々と主管の事で世論があったが、心の寄りどころとして祈る事は、昔も今も変わらない、生活に密着した日本人の姿ではなかろうか。若い宮司の立派な社掌の姿と今新しくなった社殿に両手を合せ拝しながら、上富良野町民の尊い御浄財の心寄せに深く感謝と敬意を表し、神社と共に益々の町の発展を祈願するものであります。

機関誌 郷土をさぐる(第9号)
1991年2月20日印刷  1991年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会会長 金子全一