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終戦により紙屑と化した一億五千万円

加藤 清 大正八年一月二十六日生(七十三才)

先ず最初に私の所属していた部隊の任務の概要を述べます。
私達の部隊は、昭和十五年十月十日軍令陸軍第四十一号により、中華民国湖北省武昌において、第五十二兵端警備隊として現地で編成され、第七師団歩兵第二十八連隊が原隊となり、今後の補充交代要員の派遣等は、旭川二十八連隊が行うことになりました。
第十一軍の隷下に入り当時の呂集団の司令官は園部和一郎閣下でした。任務は兵端部隊の警備で、自動車廠と兵器廠、俘虜収容所の警備が主たる任務でした。
昭和十九年春の湘桂作戦のため武昌から衡陽に移動、同年秋から本部は同地に駐屯すると共に、第二十軍櫻集団の隷下に移り引き続き自動車廠、兵器廠の警備隊として、北は長沙から南は桂林迄分散致しました。
翌二十年に入り戦いは益々苛烈となり、五月には宝慶飛行場奪取の攻撃に出ましたが、大規模な地方作戦で友軍ははじめて敗退しました。
我が部隊も衡陽周辺で守りの体勢に入り、丘陸地帯に洞穴と塹壕を掘り始めました。
転進
昭和二十年四月五日には日・ソ中立条約の延長を認めずと通告し、五月に入り枢軸の独は崩壊しました。
このような状勢のもとに中国大陸の軍は大きく転進することになったのです。第二十軍も北支に移動命令が出ました。
我が部隊には第二十軍が岳州通過時の宿舎と給養の総轄任務が果せられました。従って最初に本部が岳州に向ったのです。ここは当時は陸路・水路の交通上での要衝であり、全軍が同地を通過する為の混乱に対処するためでもありました。七月二十日頃行動を起し途中爆撃・機銃帰射、或いは地雷に遭遇し二十日余りかゝって、岳州についたのは八月十日頃であったと思います。
岳州は洞庭湖畔の風光明媚な処で、ここで我々は任務の遂行に取り掛かりました。この間昼夜の区別なく敵の爆撃、戦関機が飛来しては友軍に容赦なく攻撃を加えてきましたが、同月十三日頃からバッタリ敵機は上空に姿を見せなくなりました。このころは終戦の直前であり、終戦の詔書の発布された事を後で知ったのでした。
終戦
八月十六日正午部隊全員に集合令令が出されました。小沢文四郎部隊長から終戦の詔勅が奉読されたのです。悲運に耐える部隊長の声も痛ましく響き、奉読が終るやその場で男泣きに泣くもの、目を真赤に染め怒り出す者、大粒の涙が頬をぬらし鳴咽する者等……、あの時の感慨は今でも鮮明に脳裡に浮び涙をさそいます。
戦局が厳しくなった当時は、生きて再び祖国の土は踏めないと覚悟も出来ていたゞけに、敗戦という事に直面して心の対応が出来なかったのでした。
やゝあって私は、これで故国に帰り懐しい山野、親、兄弟に会う事が出来ることに気がつきました。
部隊は兵器廠と自動車廠の警備隊で三十数ケ所に分遣していたのですが、終戦によりその任務も終り中隊毎に集結し、部隊全員が岳州に揃ったのは九月十日頃であったと思います。
終戦直後の中国軍は、日本軍占領地への進出に時間がかゝり、各部隊とも武装解除もされず、隊の食糧はすべて現地調達で、終戦前と異なることはありませんでした。
軍票(儲備券汪政権発行占領区で通用)
終戦から翌年六月迄の約十ケ月間は俘虜生活が始まりました。その中で戦時中の日本軍は汪政権(註 汪兆銘を首班として南京で樹立された日本の手先となった国民政府 一九四〇〜一九四五年)で発行した通貨儲備券を使用していました。昭和十八年の初め迄の日本円表示の軍票をきり替えるもので対価は円に対し百分の十八位でした。中国の通貨は法弊で、その紙幣の種類は極めて多く複雑でした。儲備券は日本軍の占領地帯で通用されました。北支、上海、南京、武漢等の大都会では流通し、前戦に行くと効力は薄れていきました。衡陽駐屯中でも市内は若干流通するだけで市外は全然通用しませんでした。
こんなことでしたので部隊の食糧は殆んどが徴発によるものでした。当時野戦貸物廠からの補給は塩だけで、他はすべて現地調達で林主計官以下経理関係を担当していた下士官、兵は苦労したわけで、兵の給料も儲債券だから全然使う機会がありませんでした。
終戦後各中隊が集結してからの食糧の購入は大仕事でした。当然徴発は出来ず、手持ちの儲備券で食糧を求めたのです。岳州の周辺ではどうやら流通しましたが、敗戦と共にその価値は毎日下落していきました。
一億五千万円を保管
八月の中旬に第二十軍司令部が岳州を通過して武漢に移動しました。その時軍司令部経理部から儲備券の百円札ばかり一億五千万円を部隊に預ってくれと持って来ました。主計官も困って部隊長と相談の結果、勝手に処理して差し支えないと条件をつけて預かったのでした。
これは言葉では簡単ですが柳行李六十梱で、トラック一台分の札は司令部も移動で持て余し、受領証を渡して受取ったのでした。当時は儲備券の価値は連日暴落しており、費える間に処理しょうとトラックに何梱かの札の行李を積んで、生きた豚一頭と交換してきました。
この方法で約一週間約五千万円で豚三十頭位買い取った処でどうにもならず、残り手持ちは約一億円になっていました。岳州から奥、雲渓という部落に集結の日が迫りました。この一億円の財産には林主計官も手を焼き、トラックには兵隊でも乗せた方が余程利口だと言うことになりました。そこで林主計官はこの紙屑同様のお札を焼却することを決意し、部隊長に申し出ました。
軍隊の経理では、部隊長が金銭の出納に対し命令権がありました。しかし、処理の損失に対する賠償の責任は経理官にあるので、この事で万一の場合は林主計官が責任の一切を負う事で許可を受けたのでした。
焼却処分
一日かゝって一億円の百円札を焼きまくりました。唯焼くのも惜しいので、お札で風呂を沸かして入浴し、野戦最後の思い出にしようということになり、ドラム缶で風呂をわかし戦塵を流したのでした。
早速司令部に焼却の報告書を提出したところ、その報告書は返却され、焼却は後日差し支えるから部隊で使用した事にするように頼まれ、林主計中尉もその様な対処を約束されました。当分の間は部隊の献立も豪勢なものとなり、書類の上では桁外れのぜい沢なものを担当の兵は苦労して作ったものでした。しかし軍の経理部長閣下以下五、六名の経理将校が来て諸帳簿類を点検し、おとがめをうけたが一応何とか終りになりました。後日主計科長からそっと「長い物には巻かれるより仕方がない」と林主計中尉に謝まられたと聞いています。
敗戦とは言え一億五千万円もの大金を湯水の如く遣い、余った一億円を煙にしたこのことは落語か喜劇の様な幕切れで一件落着しましたが、戦争とは如何に多くの犠牲と無駄な浪費であったかを思い知らされる事件でもありました。
昭和二十年十一月一日、我々は岳州から雲渓という山奥に移りました。時の流れとはいえ寥々たる思いのまゝ中国軍の言われるとおり将兵は心で泣いて従っていきました。宿舎として割当てられた処は、クリークのある原野と農地でした。先ず掘立小屋を作り、屋根を葺き床は土を盛り、その上に乾草を敷き起居する場所を造ったのでした。
給養費は一日一人百円、米は六〇〇gの定量で、卵が一個五十円の相場だったので百円で副食調味料、燃料までは給養出来ない状態でした。
(註 中国は銀本位の国で銀貨が流通していた。孫文の像のついた一円銀貨は法幣の五百円位の値であった)
背に腹は替えられぬので部隊全員帰還のためには一時の劣悪な給養も我慢し、分散行動は一切止め団結を強化し九百二十名の兵隊を祖国の土を踏ますという部隊長の強い要望で、全部隊の給養は本部炊事班で行うことになりました。体力を消耗しない為極力部外等の作業出役者以外は就寝時間を長くしました。
各中隊は一定の野草を本部炊事班に納入した為、宿舎周辺一里四方位の地域は緑の草がなくなりました。
僅かの米は原形を失う迄煮てお粥にして、これに野草を入れて雑炊を作りこれを一日二食にしたので、全員食物に対し餓鬼のようになり、顔は次第に草色に変じて痩せ肋骨は出てきて、かつてガンジー翁の行った無抵抗絶食にも似たものだでした。尾篭な話ですが、大便は全く臭くなく、馬糞のようにころころと野草の繊維のみになり、我ながら悲哀を感じました。この状態を更に続ければ犠牲者が続出したでしょうが、幸いにして終戦時に敵将・蒋介石元師が言っていた「暴に報ゆるに徳を以ってする」と言明された通り、終戦の翌年春に命令が出て、その頃から食糧配給も逐次良くなりました。部隊としては運がよかったと思っています。
我が小沢部隊は俘虜として抑留中に約三千柱の遺骨を奉拝して帰る事になっていたので、雲渓地区に二万の部隊が集結していましたが、優先的に扱って輸送の便宣も与えてくれました。数々の思い出を残しながら揚子江を下り、再び見る事もないだろう中国大陸に別れて玄海難に入り、一路夢に見た懐かしの故国に向って航海を続け、六月七日博多港に上陸復員したのでした。

機関誌 郷土をさぐる(第9号)
1991年2月20日印刷  1991年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会会長 金子全一