郷土をさぐる会トップページ     第09号目次

―各地で活躍している郷土の人達―
十勝岳―上富良野

北海道農協中央会 会長 床鍋 繁則
大正十一年九月二十日生(六十八歳)

農村雑誌「家の光」を発行している協会の顧問をされている小串靖夫氏(神奈川県)は、会う度に十勝岳の話をされる。冬山も、夏山のことも、実にくわしい。上富良野に育った私が赤面することも度々―。
その小串氏がこのたび若かりし頃を想い出されて「山とスキーの七十年」という著書を発行されました。
その一部に、昭和七年の十勝岳の冬山が書かれており、あ、そうだったのか、と、読んでいるうちに懐しくもあり、「郷土をさぐる」に紹介させていただくことに致した次第です。
小串氏は八十四歳になられました。この著書には若さが溢れています。話をされるときも、この人の頭脳はどうなっているのかと思うほど、記憶力は大したものです。今までに、国内は勿論のこと、世界各国を歩かれて、その著書は二十三冊に及んでいます。若く生きることも学びたいものだと思います。
(昭和七年―北海道の冬山(1) 小串靖夫著から―)
一年間貯金して、暮れからお正月にばっちり休んで北海道に行き、スキー登山をしようという計画がまとまった。一行は安部、星野両君と自分の三人で、一月から毎月十円ずつ貯金し、ボーナスとも合わせて実行しようという。行く先は十勝岳山麓の吹上温泉で、毎年北大山岳部がスキー合宿をしている所だ。
幸いなことに、神戸中学で同級生の野崎産業社長の次男野崎健之助君と、彼の親友で画家の坂本直行君とがいづれも北大山岳部の先輩で、正月は吹上温泉に滞在するという。この二人は北大のシュナイダーといわれるほどのスキーの達人で、この二人といっしょに滑れるとはこのうえない幸せだ。しかし、なにしろ初めての北海道だし、さらに冬山となると、まったく勝手がわからない。マイナス二十度以下になって、たくあんまで凍ると聞くと生易しいことではない。金物に直接手を触れれば指の皮が剥がれるなどという詰もある。ラクダのシャツ上下だの毛糸の手袋の上に革の手袋なども探してくる。アノラック・アイゼン・アザラシはもちろんだが、その他でも気のつくものは全部そろえる。食物のほうは別に苦労はないらしいが、チョコレートやハムなどを持っていく。これらは現地にもたくさんあって、無知ゆえの無駄もあったようだ。
なんとか準備も整ったし休暇の許可も得て、昭和六年も暮れる十二月三十日の夜の十時半、上野駅を発つ。のろのろの急行三等寝台で、三十一日午後四時十分青森駅に着く。五時半の青函連絡船に大きなリュックを持ち込み、だいじな「物干竿」のスキーを抱え、船室で雑談の四時間半、十時に函館に着いて十一時発の急行まではさすがに寒い。またもや夜行列車だが、三人だから、何かと心強い。列車は昭和七年元旦の朝七時五十三分札幌駅を通過し、十一時四十八分下富良野駅に着いたが、ここでも連絡は悪い、十二時五十分の旭川行きに乗り換えて一時半、ようやく上富良野駅に着く。
これからは馬橇で吹上温泉に向かうので、その支度に手間どる。馬橇の上に七輪まがいの炬燵をのせこれに毛布をかけて二時出発。これも菅平の馬橇同様、坂道を上るのだから速くないし、寒さは相当だ。
途中にある中茶屋へ四時半に着いて三十分ほど休む。距離が結構あるので、馬も休養が必要らしい。
一日じゅう天気なのはありがたいが、吹上温泉到着は七時十分、今と違って家を出てから、まる二日かかったわけだ。
一月二日も晴れとはありがたい。吹上温泉は大きな宿で待遇も悪くない。十勝岳は煙を上げているが、今日は足馴らしに、上ホロカメットク山を試みることにする。九時に野崎君らと外に出て滑ってみて驚いた。内地の雪とはまったく違う乾粉雪で、回転すると雪煙が頭の上まで上がるし、軽くて回りよいから一躍上手になったような気がする。それより野崎、坂本君らの技術は驚きで、直滑降から右小回りのあと、すぐ直滑降から左小回りを続ける。アーノルド・ランの本にあるドロップ、アンド・チェック・ディッセントという奴だ。
見ていてもしかたがないから登りはじめる。九時半、硫黄小屋を過ぎナマコ尾根(泥流尾根)を登って十時十五分尾根上で休む。三段山を登りきって十一時四十分、十勝岳との鞍部に出る。カリカリのクラストなので、ここをスキーデポとしてスキーを深く雪面に刺して立て、アイゼンに履き替える。気温はマイナス七度だ。十二時四十分登りはじめたが、一時十分、特徴ある通称大砲岩のあたりまで行ったら、すっかり曇ってきて気温もマイナス八度である。
知らない土地で迷ったらと一時半引き返しを決める。
上ホロカメットク山(一九二〇メートル)は目の先だが初日だし知らない土地で冒険はしたくない。
一時四十分スキーデポに戻り、スキーに履き替えて三時硫黄山を過ぎ、三時十五分吹上温泉に戻る。すっかり曇ってしまって視界はゼロとなったから、撤退は賢明だったと思う。― 中 略 ―
一月七日はいよいよ吹上温泉を引揚げる日だ。天気はなんと昨日に引替え曇って、しかも暖かい風が吹き、雪はべたべたで上越地方あたりと変らない。
北海道の雪質をほめすぎだが、こんな日もあるのかと思う。八時に懐かしい吹上温泉と別れて下の道を滑るつもりが、スキーはさっばり滑らない。それでも九時に中茶屋を過ぎて、十一時五分上富良野駅の乗換駅は四十分待ちだが、二時滝川を経由して四時半札幌駅に着き阿部旅館に泊まる。― 原文のまゝ ―
著者 小串靖夫 氏の紹介
明治三十九年十一月二十二日生(八十四歳)
略  歴
昭和二十三年横浜市豊田農協組合長理事をふり出しに、神奈川県連会長、家の光協会々長をつとめられた。
私は仕事の都合で多くの人にお会いするのですが「出身地はどこですか」と良く聞かれます。そのとき「十勝岳の麓の上富良野です」と返事をすることにしております。上富良野生れを誇りに思っているからです。十勝岳連峰、旭川から富良野までの景色の美しいこと、自然条件に恵まれて沢山の農畜産物がとれること、良い町です上富良野は。国際化時代を迎えて、むずかしい課題もありますが、みんなで力を合わせて町づくりに精進されるよう期待いたしております。
― 床鍋繁則氏の経歴等の紹介 ―
床鍋繁則氏は、大正十一年九月二十日、上富良野村字東中に父了作の八人兄弟の三男として生れ(長兄正則氏は元上富良野町議会議長)、昭和十二年三月東中尋常高等小学校を卒業し、家業に従事する傍ら、十七年三月卒業まで東中青年学校に学び、また地域青年団の幹部としての農村青年運動で活躍され、同年二月全国青少年団の大会に上川支庁管内代表として参加された。
昭和十八年四月現役兵で入隊、二十年九月終戦により復員帰郷。
昭和二十一年二月、久保直枝さんと結婚(繁則氏二十四歳、奥様二十三歳)
昭和二十一年三月、分家として網走町字越歳に移住、住宅は母方の祖父岩吉氏が、大正年代に建てたという、古い草ぶきで入口は戸の代りにムシロを下げ、飲料水は小川の水、電気、自転車、馬車もなく、馬一頭と手造りの馬橇で大変苦労をされた農業のはじまりと聞いています。
昭和二十二年一月、新生会(農業技術研究会)を結成初代会長に就任(二ケ年)
昭和二十九年一月、西網走農協壮年部結成初代部長に(二ケ年)
昭和三十一年七月、西網走農民同盟書記長に(十四ケ年)
昭和三十四年四月、網走市議会議員に当選三十六歳(二期八ケ年)
同年九月、北見地区農民組織連絡協議会書記長に(八ケ年)
昭和三十八年七月、網走市農業委員に(三期九ケ年)
昭和四十二年二月、北見地区農民連盟委員長に(四ケ年)
昭和四十三年二月、全北海道農民連盟書記長に(三年五ケ月)昭和四十六年四月、西網走農業協同組合長に就任、四十八歳
昭和五十年六月、北見地区農協組合長会会長、北見地方農業協同組合連合会会長に、五十二歳(一期三ケ年)
同年北農中央会理事、農協学校理事、北農電算センター理事に就任(一期三ケ年)
昭和五十三年六月、ホクレン常任監事常勤に(一期三ケ年)、同時に関係関連会社、公社等十四社の監査役に(三ケ年)
昭和五十六年六月、北海道農協中央会会長に就任、同年から北海道開発審議会委員に、また昭和六十二年六月から家の光協会会長もつとめられています。
また床鍋繁則氏は、今日までの功労に対し多くの受賞をされております。
・北海道産業貢献賞、北海道知事  昭和六十年二月二十日
・黄授褒章受章内閣総理大臣    昭和六十二年五月二十七日
・感謝状農林水産大臣 協同農業普及事業に尽力
                 昭和六十三年十一月十七日
・表彰状全国農業協同組合中央会長 農業協同組合特別功労者表彰
                 平成二年三月八日
以上、床鍋氏の生い立ちから現在に至る役職の中から、主な経歴を紹介しましたが、その経歴が示すように、青年時代から農業ひと筋に活躍をされてこられました。
ここに百数十を数える団体機関の役職を歴任されておられる床鍋氏の情熱に深く敬意を表する次第です。
現在床鍋氏は、札幌の宿舎から東京へ、地元の農協へと東奔西走の毎日です。
床鍋氏は「上富良野は、私の大切な故郷、先生もおられる、多くの友人もいる」と語ってくれました。
御壮健で、益々の御活躍を祈念申し上げ、床鍋繁則氏の紹介といたします。
(編集委員 高橋寅吉)

機関誌 郷土をさぐる(第9号)
1991年2月20日印刷  1991年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会会長 金子全一