郷土をさぐる会トップページ     第09号目次

和田松ヱ門君の業績の半生を編る

横山 政一 明治四十年一月二日生(八十三才)

まえがき

少年時代から和田君の友は多勢いたが、今では私と長沼善治、黒田孫吉、杉山芳太郎君ぐらいになってしまった。
和田君の生涯はドラマにも等しい。数寄な運命に生き抜いた上富良野発達史・開拓秘話の一頁と思うので、祖父の北海道移住から述べることにした。
尚参考として若林功箸「北海道開拓秘録」及び和田君の少年時代からの日記や記録、著書などから引用したので、本人の供述的表現法になっているので、了承ください。

祖父の北海道移住
和田君の祖父和田兵九郎は、安改元年岐阜県郡上郡川合村で、林九郎右ヱ門の三男として生れたが、明治三十年同郡寒水村、和田金造の養嗣子となったので和田姓となる。ところが数年のうちに養父母は相前後して他界する。
そこで木挽き渡世の兵九郎は、北海道移住を志す。
明治二十八年の春、家財を整理して渡道の準備を整えたが、出発の間際になって妻なよ急死の不幸に見舞われる。しかし兵九郎は坐折に屈せず、二男庄吉(七歳)を実家に預け(養子として)五月の末、郡上郡八幡町を後にして、長男柳松(九歳)に位牌と仏様を背わせ、長女こと(四歳)の手を取り四日市港を出航したのである。
室蘭に上陸した兵九郎は駅で、「この汽車に乗って正午頃に着く駅はどこですか」と尋ねると、「由仁あたりだろう」と教えられたので、由仁までの切符を買って下車すると、郵便局で岐阜県人を調べてもらい、コウヤ久太郎と言う家を訪ねて、一先づ厄介になる。同郷人と言うと親しみをもつのが新開地ではあるが、岐阜人で子供二人連れて、難儀している話をきいて訪ねて来た畑中良作という人の好意に甘えて、同家の小屋に落ち付くことが出来たのである。この年四反程新地を鍬で拓き、食料を作ったので大助りだった。
冬になると兵九郎は小屋に子供二人を残して、長沼村馬追山へ杣夫で稼ぎ、十日毎に米を買って小屋の子供を見に帰る。柳松は夕張川の提防から枯木を拾って焚木を集める。風呂に入ったことのない二人の体には虱がわく、近所の小母さんに教えられて、夕張川の氷を割って着物を浸し虱退治した。着換えのない兄妹は丸裸で煎餅布団にくるまって、狐の訪問におびえながら夜を明したこともあった。
翌二十九年春、兵九郎は幌向村に移住、開墾に精を出し新地二町歩を拓き作付したが、八月の夕張川の氾濫で収穫皆無という悲運に泣く。冬にはまた子供を小屋に残して山稼ぎに行った。
翌三十年兵九郎は幸いにも、「林つな」とめぐり会って再婚、一家は明るさを取り戻し、再出発の決意を固めたのであった。
兵九郎は水害の多い幌向村に見切りをつけ、三十一年深川村に移住する。ここで十二歳になった長男柳松は開墾請負業の杉本精左ヱ門の家に奉公に入り、三頭曳のブラオ開墾の駁者(手綱)取りをした。二年間の奉公の体験は柳松にとって可成り辛いものであったが、後年の開墾事業のために大きな自信になったのである。
上富良野への居住
岐阜を出て六年目の明治三十三年四月三十日和田一家は上富良野東一線北一四三番地に移住。島津農場の東一線の東側現自衛隊駐屯地と西側現安藤苗圃十町歩を開墾、牧草を播種して一反歩一円位の賃金を得た。
この頃国鉄富良野線は上富良野が終点で入植者はまだ多くはなかった。島津農場も開設当初で東一線とヌッカクシフラヌイ川の間には、北川石松と和田の二軒だけで何かとお互に助け合った。
島津農場で稼いだ金で東三線北二十六、七号の原野十五町歩を百円で買い、、ここにはじめて安住の場所を得て本格的に開墾に着手する。兵九郎は附近の樹林から伐り出した雑木を手挽きして、馬屋併用住宅建坪三十二坪を建てた。内地の構造そっくりの当時としては、可成り大きく立派なものだった。
この段階で兵九郎は開墾事業を長男柳桧に任せて、自らは市街で味噌・醤油醸造工場(現松浦糀店)を始める。かくして柳松は明治三十五年から自作農となり耕馬二頭で、原野を開墾耕地を拡大していった。
三十七年四月柳松(十九歳)は姪の林ハル(十七歳)と結婚、翌三十八年四月八日長男松ヱ門君が出生した。なお祖父兵五郎は四十年九月七日五十八歳で病没して柳松が世帯主となった。
優等生・和田松ヱ門の幼少時代
和田君は明治四十五年四月上富良野尋常高等小学校に入学、大正九年三月高等科二年を卒業した。和田君は幼少の頃から虚弱体質であったが、学業は優秀で八ヶ年間全甲の優等生だった。級では常にトップクラスで三年生から卒業まで副級長をつとめた。
苦難の青年時代
和田君は農学校を志望したが赦されず農業に従事し、中学講義録で自習したが農作業の疲れで長続きせず、何時しか新聞、雑誌や同人誌等に俳句、短歌等を投稿して文芸の道によって慰安を求めるようになった。
和田君が働くようになると、父柳松は農業を省みず、母や奉公人任せにしてブローカーの仲間に入り昼間は殆んど市街に出て、遊んでおられたそうだ。
和田君は卒業すると直ぐ日の出青年会に入会第二班長、ついで会計、副会長と四年間選出された。
大正十四年徴兵検査、第一乙種合格で第一補充兵役に編入となる。
この年六月上富良野連合青年会の陸上競技会に、日の出青年会の選手として出場した。この時の無理が崇って病床につく。旭川赤十字病院で肺尖カタルの診断を受け入院。七月三十一日に退院したが、あと一ヶ月程自宅静養して元気になる。
実は退院の帰途伯母から父の不行跡を始めて聞き、世の中が一ぺんに真暗になる衝撃を受け、母と祖母、七人の弟妹を抱え煩悶苦悩の日が続いた。
一方大正十五年一月、日の出青年会長に当選就任したが、この後昭和五年一月に団長を退任するまで四ヶ年連続再選されたのである。
五月二十四日十勝岳大爆発が起る。全く予想しなかった泥流の大惨事、日新、三重団体、日の出部落三分の一が流失した。被災外の会員は救助作業に数日出動となった。家庭間題と役職を背にした和田君には、復興作業に精神を集中したことは良い気分転換になったようだ。
十一月役場で木工講習会が開かれた。農民美術を志す伊藤告七、北川三郎、和田松ヱ門、久野専一郎、黒田孫吉、長沼善治、伊藤実、西山君等十一名が二十一日間受講、盆、菓子器、碁壷、本立、玩具等製作し最終日には即売会を開き盛況を極めた。十二月旭川で副業品展覧会が開かれ、本会員も十数品目出品したが会期中に、大正天皇崩御せられ中止となる。
昭和二年二月一日より「一日の会」を提唱し毎月一日の夜研究会、討論会を行った。この集りには広く村内の有志青年が毎回十数名参加、大変有意義な集いとなり何年も続いた。
十月全道青年指導者講習会が層雲峡に於て(四日間)開かれたが、上富良野からは和田君と東中の岡校長が推薦を受け、全道からの八十余名に加わり受講した。この時の宮沢説成講師先生の「尊く生きん」の講話にすっかり感激し、今までの人生観、社会観から新たなる開眼の思いがして、光明の社会に生れた感概だと帰村早々話してくれた。
十二月十九日祖父の十七回忌法要を自宅で営み、伯父達を交えて親族会議が開かれた。松ヱ門が落ち着いて農業をする為には、二戸分だけでも名儀を変更して、楽しみを持たせてやろうとの相談だったが、所有地は殆んど負債の担保になっていて、僅かに川向いの一町二畝の土地しか残っていなかった。そこで負債を分担して、父と別々の経営をすることになった。
負債総額一万六千円のうち、相馬商店の元金四千五百円と延滞利息、拓殖銀行の元金千五百円と年賦償還金を彼が引受けることになった。和田君は父や伯父に励まされ家を守る決意を固め独立したのであった。冬には災害復興の砂利道搬や災害地の客土運搬に働き現金収入に努めた。
昭和三年八月十八日大日本連合青年団主催の産業講習会が(七日間)遠軽村の家庭学校で開催され、北川、長沼の両君と共に受講し、十勝農業も視察して帰る。
昭和四年一月十四日北海道連合青年団の内地視察に久野君、西谷勝夫先生と三人で参加した。彼は初めて津軽海峡を渡り内地の風景を見る。松島、日光、東京、多摩御陵、伊勢神宮、奈良、京都、大阪と観光を終えて解散。彼はその機会に父の郷里の岐阜の川合村などを訪ね、二月二十日帰村した。
七月家の前の土地三戸分を、三千円で拓銀から買戻すことを決め、中の土地と旧屋敷の二戸分を担保に二千円借金し、家の前の四町六反歩を代金千円と手数料百三十円を払って、松ヱ門名儀に登記した。
これで永年悩んでいた土地の買戻を果たし、積極的な土地改良も行い、経営安定の将来に明るい希望が開けた思いがした。
昭和五年一月十二日の新聞に、北海道庁が募集した「郷土における青年の使命」という懸賞論文に、和田君一等に当選、翌日には道庁から通知と賞金が書留で届き、夢心地で喜んだ。思えば彼の精根を傾けた開墾、土地改良、青年団活動等貴重な体験があった。たゆまない自学自励の態度から、考え抜かれた理想とする農村青年の心構え、在り方が自信信念になって表現されたことが、栄冠に結びついたものと思う。
三月安田久治や同志と共に「家の光」を中心に産業組合研究会を発足させた。そして熊谷先生と相談して早天修養会を五月から、毎月神社において行うことにした。毎回十余名が集って、黎明の境内にて荘厳の裡に研修を終了、感激して散会するのが常であった。
七月世界的経済恐慌の嵐は、経済機構の矛盾を露呈し農産物価格の暴落となる。彼はこの時から現在の経済機構に強い疑惑と不満を感じ、経済社会の改革に意欲を燃すようになった。
七月二十七日彼は上川支庁より模範青年の表彰を受ける。その時長官代理の加勢先生から激励の言葉を受け感激する。
八月全道産業組合青年協議会に出席。意見発表、討議の後神田主事の講演があったが、産業組合主義経済組織社会の建設に共鳴したのである。
十月七日報知新聞に彼の苦心奮闘談が写真入りで掲載されたので、友人皆で我が事の様に喜ぶ。この喜びも束の間彼には又悲しみが待っていた。
十月十三日突然旭川裁判所から執達史が来て、耕馬三頭と住宅の建具を差押え赤紙を貼って行った。
父の知人佐藤十之助が、吉田アキから借りた三百円の連帯借用証書に父が無断で松ヱ門の印を押したことが分かり、突然の事で強いショックを受けたのであった。父に差押えられた話をすると、連帯保証と言っても只印を捺しただけだから、佐藤に払わせると言う。だが十二月になって佐藤は裁判問題で敗訴したので、完済の見込みがないから話し合いで解決したいと言う。ホップ園の菊地さんは義母である吉田アキの差押え事件について、和解の労を取りたいとの申出であった。吉田アキの息子の誠と言う人が菊地さんの話を理解してくれて、母を説得して吉田アキの債権額四百円のところ、現金で二百円とあと五十円を無利子で待つと言うことで話がまとまった。翌日出旭、飯島弁護士を通じ裁判所へ供托金の取り下げ手続きをして、差押え問題は一応解決を見たのである。
吉田誠は易者タイプの人で、和田君に村のため青年指導のために一層働くよう力づけた。腹の修養、魂の修養で病気も治り、何事も成就する、すべては神仏の御恩に依るものだなど精神訓話した。和田君もこの吉田誠の解決策に対しては、地獄で仏に会った心地で感謝した。
一方仕事の方は九月二十一日から澱粉工場を運転したが、機械の調子がよく澱粉生産も好調、農産物の暴落する中で十月二十八日三円六十八銭の高値で十屯を販売、秋の支払に当てることが出来て一安心する。
十月十五日から十日間青年団で夜学会を開いたが、和田君は青年講座を担当して満足する成果を得た。
家運挽回期
昭和六年和田君は二十七歳となった。先に妹が石川清一(後に農協組合長)と結婚したので、両親は和田君の嫁探しを急いだ。山崎小一郎さんに依頼して、北川ソトさんに白羽の失が立ったが、最後は矢野辰次郎さんの応援で決った。婚礼は二月二十一日自宅で門上浄照師の司会のもと仏前結婚式が行われた。和田君は懸案の結婚成立によって、人生問題に一つの区切りがつき、その後の経営改善と社会的活躍の基盤が確立したのである。
なお、この月十一日村内有志青年八十余名の参加によって、産業組合青年連盟郷愛会の結成総会が開かれ、安田、北川、上田、石川、長沼、和田の理事による合議制で運営に当ることになった。
四月五日上川産業組合青年連盟の発会式があり、郷愛会理事と他に近藤、中山君ら九名出席、安田君が常任理事に選ばれた。
和田君の土地の大部分は平担で、且つ沖積土壌の見かけは一等地であるが、実際はペーハー三の強酸性水のヌッカタシフラヌイ川(通称、硫黄川又はガンビ川)流域の強酸性土壌地帯であって、作物の中で一番酸性に強い燕麦でさえ、満足に生育出来ないところがあって、平均反収二〜三俵の低生産で、一時は農耕不適の噂さがささやかれたこともあった。
しかし優れた頭脳の特主であり、研究熱心の上に努力家でもある和田君は、土地改良を重点に地力の復旧増進に執念を燃やす。農業技術参考資料を集めたり、農業関係講習会には欠かさず受講して、知識の吸収に努めた。殊に十勝岳爆発災害地復興の指導に当った、農事試験場の技師の教示を受けて、種々改良方法を試みると共に、更に創意工夫を重ねて実践することによって、年々収量増加となって成果が挙って行くのであった。
十数年間に及ぶ記録の中から代表的な昭和六年の経営改善計画の実践項目を列挙してみると、
一、除草兼覆土ハロー考案製作。試用の結果良好で新案特許申請(藤田
  鉄工場)認可となる。
二、温床(一坪)を作る。野菜、花井類の育苗。
三、燕麦(ビクトリー一号)の採種圃及び施肥試験圃設置。(七畝)
四、酸性土壌改良試験。一号、五反(石灰六四貫)二号、一町歩(石灰一四
  四貫)施用。
五、ダスト試験。(農会委託)石灰代用セメントダスト三六貫施用区。石灰三
  〇貫区。堆肥三百貫区。一反二畝にて試験する。
六、肥料試験圃設置。燕麦一反五畝、馬鈴薯一反歩。
七、コンモンベッチ緑肥試験。燕麦間作三ヶ所二反歩。馬鈴薯間作一反歩。
八、酸度試験の土壌採取、農事試験場に委托。
九、農事視察。村内一回、美瑛試作場二回。
十、澱粉ロールの目立てを研究改良。成果挙る。
十一、落葉松林の間伐、枝下し、五町歩施行。
以上の様な改善計画の実施結果は、毎年年末にこれを整理し、詳細に分析検討を加え反省点、改善点をまとめて次年の計画、経営に反映させたのである。
以下紙幅の都合で貴重な記録であるが、大部分を割愛して目につく項目のみ摘録することにする。

昭和七年二月、産青連郷愛会の総会で理事に再選、四月日の出処女会創立準備会で会長に就任する。
この八月から経済市況が一変、農産物も暴騰に転じ、四円台の澱粉が十二月には八円以上に値上りした。この恩恵に浴した和田君は滞納負債利息全部と当年の償還金を完納した上、元金の一部返済にも当てることが出来た。これは正に天の救いと喜んだ。
十一月吉田村長の推薦で東京市武蔵小金井の浴恩館で開かれた、大日本連合青年団の農家経営講習会へ参加した。(五日間)全国から集った四十名の篤農青年と共に研修し、大いに啓発されたと言う。彼は出発に当って経営概況一覧表、作付表、収支予算決算表、農産物売り上げ表、荒廃地開墾、土地改良計画表、耕地分布図、肥料試験、澱粉歩止りの研究などを準備した。
昭和八年一月、日の出処女会創立、彼は会長になる。二月農林省地方事情調査員を任命される。
昭和九年二月、北海道庁主催農漁村更生青年座談会にて体験発表する。三月上川産青連常任理事となる。七月大日本連合青年団より、農業簿記の表彰を受け研究費として十円が授与される。同月上富良野連合青年団長より表彰される。
昭和十年一月上富良野仏教青年会創立会長に就任。同月日の出負債整理組合理事となる。二月上富良野産業組合信用評定委員となる。十二月北海道農会長から農家簿記功労者として表彰される。同月北海道産業組合青年総連盟理事当選。
昭和十一年四月、北海道農会燕麦生産費調査委嘱、六月満月会を発会する。
昭和十二年三月、酪農合理化運動連絡委員嘱託。十一月自家用発電機設置(水車利用)。
昭和十三年三月、日の出農事業実行組合長となる。
和田君はこの年三十四歳、負債整理も遂に完了し、経営の基盤も確立したのである。和田家は明治三十五年の開墾に始まり、強酸性土壌のハンディを背負い、しかも経済界の激変に翻弄され、多額の負債を余儀なくされて苦しい経営。彼はさらに父にかかわる家庭間題の桎梏に時には家出を考え、自殺まで決意したが、弟妹八人の後事を考え思い止まったのである。
和田君はそんな十数年前の逆境苦境のジャングルの中から、立派に立ち上って偉大な実践を成し遂げたのである。今や部落は勿論、村の改革青年指導者であり、全道的にも注目される人物になったのである。
昭和十四年四月、村農会総代、ついで評議員に就任。
昭和十五年四月、産青連全国連合代議員当選。同月上川産青連理事長に当選。同月農業実態調査農家、郡農会より委嘱。五月三十一日上富良野村会議員に最高点当選する(三十五歳)八月産業組合監事当選。十一月上富良野村青年団顧問を委嘱される。
昭和十六年一月、上富良野壮年連盟組織幹事長就任。二月食糧増産実行共助委農林省より委嘱。同月大政翼賛会上富良野支部常務委員委嘱。農業報国挺身隊上富良野支部長に就任。
昭和十七年三月、農林大臣官邸に於ける食糧増産実行委員墾談会に出席(全道四名)。同月上富良野村翼賛壮年団長に就任。九月上富良野村農産物出荷協力隊長に就任。十月農業報国挺身隊上川支部幹事。
昭和十八年二月、上川支庁参与委嘱。同月上富良野村森林組合理事に当選。八月上川翼賛壮年団総務。
同月大政翼賛会上富良野支部事務長任命。
この年翼壮と郷軍共同で飛行機献納運動を起し、村内にて十三万円余の募金を得て、上富良野号を献納した。
戦局愈々苛烈となり、戦時体制益々強化されるに当り、和田君は村の最高の指導者の一人として活躍し、上川支庁からもその手腕が認められ、管内の指導者としても活躍したのであった。
昭和二十年六月、上富良野農業会設立、和田君は常任理事に就任した。当時役員は報酬を辞退、中堅職員は皆応召されて少なく、和田君は家業の一切を妻に任せ、正に身を挺して農業会の業務に励んだのである。
八月十五日、富良野の会議に出張した処、会議が中止になり、終戦のラジオ放送を聴き呆然となる。その夜は金子小二郎と無念の酒を汲み交し、二人で神社の前に土下座して哭いた。「国破れて山河あり」を染みじみ思い、日本再興を誓ったのであった。
次号は「名誉町民 和田松ヱ門氏を語る」で和田氏の後半生を長沼善治氏が綴ります。

機関誌 郷土をさぐる(第9号)
1991年2月20日印刷  1991年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会会長 金子全一