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私の歩んだみち・その2

故 村上 寛次 明治三十年五月三十日生(九十三歳)

私は十四才のとき、飾職人(彫金師)の見習として大阪に出たが、十八才のとき、徳島の実家では一家を挙げて北海道に渡ることになり、大正二年二月上旬、上富良野村東五線北十六号の田中農場小作人として入植した。
寒さが厳しかったこと、その年は大凶作で、一家は途方に明け暮れしたことが強く印象に残っている。
大正五年の春、念願の自作農として村木農場(江花)西四線北二十号へ移った。大正三年夏に始まった欧州の戦乱が拡大し、日本も連合国側に加担して参戦した頃である。
土地を買うための借金はあったが、戦争で物価があがり、農産物も高騰していたし、自作農になる喜びが大きく、厳しい開拓農業も余り苦労とは思わなかった。
大正六年春の徴兵検査で甲種合格になった。兵役は国民の義務であり、名誉なことである。然し家のことを思うと気掛りであった。弟妹は五人いたがまだ幼い。鍬頭が兵隊に行くことは、一家にとっては浮沈の瀬戸際に立つ様なものである。考えれば考える程気が重くなる。私は邪念を捨て、とりあえず一切を農作業に打込むことにした。
幸い天候は順調で良い作柄に恵まれ、この年は豊作であった。秋になって明年から住込んで働いてくれる人も見つかり、安心して入営することができた。
兵 役
当時、我国とロシヤは、日露協約で第三国と日・露どちらかが戦争になったときは、たがいに軍事援助を行うことを約束していた。連合国側のロシヤに兵器弾薬や軍需物資を送り支援していた。旭川第七師団はこの協約に基ずき、大正六年四月七日清洲に派遣され、南清洲鉄道(長春以北はロシヤが経営し、長春以南は日本の南清洲鉄道株式会社が経営していた)の警備と、その沿線の我国の権益の維持と、租借地遼東半島守備の任務についていた。
大正六年十二月十日現役兵として歩兵二十八連隊第二中隊に入営の通知が来た。第二十八連隊は旅順に駐屯している。旅順は関東督監府が置かれ、日本の清洲に於ける軍事、政治、経済の要であった。
上富良野から入営する者は、甲種合格の私と目黒貞一、大友某の三人だった。駅では大ぜいの村民に見送られ、旭川の部隊に仮入営し、直ちに初年兵で部隊を編成し清洲に渡った。
旅 順
旅順は、日露戦争の激戦の地である。小学生のとき、先生から教えられた戦の所をこの目で見、体験するこになった。感慨無量なものがあった。
兵舎は練瓦造りで旧ロシヤ軍のものを使っており、ペチカが燃えていて、外は酷寒でも舎内は春のように暖かかった。隣の第三中隊に二年兵で同郷の藤田 恵さんがいた。上等兵である。軍隊は階級の差別が強い。初年兵は二等兵なので二階級も上司である。
いつも「藤田上等兵殿」と呼んだ。中隊は違っていたが、軍隊の内務のことを良く教えてくれ、進級のとき一選抜の甲班になれたのは、藤田上等兵殿のお蔭であったと思っている。
初年兵教育は厳しかった。独逸(ドイツ)と戦って対岸の山東半島や青島を攻略したばかりであり、ロシヤでは新政府(白系)が樹立されたがソビエート(赤系)革命が起き内戦が始まった。
いつでも応じられる臨戦体制の中での訓練である。行軍で二〇三高地や東鶏冠山の砲台に行った。戦跡はそのまゝ保存してあった。弾痕も生々しく、破壊された城壁、山肌には無数の鉄条網が張り巡らされ、しかも高圧の電気が流されていたという。岩盤をくり抜いたくもの巣の様に交差している地下壕、難攻不落といわれた旅順港要塞の攻防は、いかに激しいものであったかが想像された。
応急派兵
大正七年八月二日連隊に応急派兵が下令された。二十四時間以内に完全軍装を整え戦闘準備をすることである。常に臨戦体制をとっていた連隊が出動するには余り時間はかからなかった。シベリヤ出兵である。
註 大正七年八月二日日本が、三日にはアメリカがシベリヤ出兵を宣言し、日米共同出兵が実施された。第十二師団はウラジオストックに上陸し、ついで満鉄沿線の第七師団、ついで第三師団がソ満国境の満洲里からザ・バイカル方面に出動した。(中央公論社刊―日本の歴史より―)
ロシヤの新政権(白系)を支援して、東シベリヤの治安維持とチエッコ軍救援のためである。
南満洲鉄道を北上し斉斉哈爾(チチハル)より行軍で進出。糧抹や弾薬は現地で調達した二頭曳の馬車(駁者は現地人)に積載する。夜は野営であった。山岳地帯や悪路に悩みながら、百二十里(約四八〇q)を完全軍装(約三〇s)で、毎日三十度を越す炎天下の行軍は容易ではなかった。十三日日に国境の黒河に到着した。他の部隊は既に集結していた。
黒竜江をへだてたブラゴヴュスチェンスクヘの渡河準備が完了したのである。
翌日平穏のうちに舟で川を渡り街に入った。街は新政権派(白系)とソビエート革命派(赤系)の武力衝突が起きたが、連合国側が出兵することで新政権側が実権を掌握し平常に戻っていた。
私達の部隊は郊外で三日間野営をして待機していたが、本来の任務に復帰するため、急拠旅順に帰還することになった。シベリヤ鉄道でハパロスクを経由し、ホクラニチネイより国境を越え、哈爾濱(ハルピン)を通過して約一ヶ月半振りで旅順に到着し従来の任務に復した。
その後尼港事件が発生し、シベリヤに動員された兵力は六万人ともいわれ、連合国と連携して一時期ではあったが東シベリヤを占領したのである。
警乗司令
あるとき、清洲鉄道貨物車の警乗を命ぜられた。同年兵四名である。私は甲班(同年兵の序列)なので司令、他の三名は歩哨である。
始めて受けた責任の重大さに身もしまる思である(大連(旅大)から満洲里を経由して、バイカル湖より手前のシベリヤ鉄道と交差する駅までである。機関手も車掌もロシヤ人である。ロシヤ語の手引書を持たされたが実際には用を達しない。二十数車両引かされているなかで、三車両は日本の軍物資で、東シベリヤ領部隊に届けるものである。特にこの三車両は注意するようにとの特命であった。
貨物列車は主要駅で停車し、一般貨物の積卸しや車輌の入れ替をして進む。或駅で入れ替のとき、軍物資の一輌を一般貨物と間違って、切り離し発車してしまった。
このことを車掌に身振り手振りで話すのだがなかなか通じない。大陸の鉄道は駅間の距離は遠い。貨物列車は主要駅しか止まらない。漸く話しが通じたときは、ニッも三ッも駅を通過してしまってからのことである。
次の駅で軍物資の二車両を切り離してもらい、私と兵二名が残り対策を構ずることとし、庄野留吉一等兵を、残してある貨車の駅まで戻し、警乗してくる様に命じた。
幸い駅間の連絡がとれ、一日半待って後続の列車で車輌が到着し、三車両を連結して興安嶺を越え、国境を渡り、シベリヤ鉄道の目的地で無事引渡すことが出来た。
もしこの貨物が不明になったら、厳罰を覚悟しなければならない事を考えると、身の毛のよだつ思いであった。
往復十数日はかかったと思う。任務の遂行を中隊長に復命した処、ねぎらいの言葉と、二日間の褒賞休暇が与えられた。
射 撃
旅順では毎日厳しい教練が続いた。銃剣術と射撃は歩兵の兵科である。
射撃が中隊で一番の成績だったので、中隊を代表して連隊の大会に出場し、優勝して中隊の面目を挙げた。賞状は今でも持っている。
大正九年一月世界大戦も終結となり、二十八連隊は他の部隊と交代して旭川へ帰還した。旭川駅頭では日露戦争以降の凱旋とあって盛大な歓迎を受けた。
勲八等白色桐葉章、大正三年乃至大正九年戦役従軍記章、戦提記念章が授与された。
大正九年四月二ヶ年半の兵役を終え帰郷した。
注 村上寛次さんは平成元年十一月四日(九十三才)で他界されました。謹んでお悔み申し上げます。(編集委員)

機関紙 郷土をさぐる(第8号)
1990年 1月31日印刷  1990年 2月 6日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一