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開拓当時の駅舎と鉄道の変遷

加藤 清 大正八年一月二十六日生(六十九歳)

富良野原野開拓初期

明治二十九年富良野盆地の殖民区画が設立され、富良野市基線零号を空知川と富良野川の合流する富良野太(清水山付近)から三〇〇間ごとの区画は、富良野市の空知川から北東全域にわたるもので、中富良野・上富良野両町に永久に一つの規格がつくられ、開拓事業が進み、現在ではその線・号が立派な道路になっている。
明治三十年四月十二日、三重団体田中常次郎以下の団体入殖により、開拓の鍬が打ち下されたこの年から、農場・牧場等が払下げられると共に、個人入殖者等により人口は急激に増加した。
開拓の進捗に伴ない全道主要鉄道の計画が樹られ、北海道鉄道敷設法が公布になり、北海道庁に臨時北海道敷設部が置かれ鉄道に関する業務が開始された。
開拓と鉄道
わが国の最初の鉄道は、明治五年九月十二日新橋・横浜間で開通、その後明治二十二年東海道線が全面開通した。
北海道の主要な鉄道は明治年間に開通されたと記録されている。
明治十五年十一月幌内・手宮間九十一・二キロメートルが完成している。その後全道的に主要路線が計画され、そのうちで十勝線の旭川、帯広間の計画の路線の中で、明治三十一年旭川、辺別間の竣工に続いて上富良野駅が開設され、明治三十二年十一月十五日には美瑛・上富良野間が開通したのである。
その頃汽車が黒煙をあげて、沼崎方面から三重団体の平地に遇進して通過する様をみて、怪物が来たと騒がれたと古老の方から言い伝えられている。
道内の主要鉄道は明治三十年代に全部開通され、続いて大正十二年十一月、滝川・富良野間の開通により富良野線となった。
現富良野線は、根室本線富良野駅から函館本線旭川駅を結んでいるが始めは十勝線といっていた。明治四十年に旭川・釧路間の全開通によって釧路線となる。開拓当時十勝鉄道が予定されていたので、測量当時は上富良野・富良野に至る鉄道は東中に駅が出来ると言うことが噂となり、急拠この方面に入地する者が出来、鉄道開通以前に入地した人々は、鉄道のつく位置そして停車場の出来る箇所について、非常に関心がもっていた様である。
以上の各線は、資材輸送もない不毛の原野に敷設しなければならなかった為、線路や構造物はとりあえず仮のまヽで施行し、開業後順次改善することにした。この為各線とも開通当時は木造の仮橋が多く、枕木や道床なども不十分なものが多かった。
又鉄道並びに主要道路の建設には囚人の労働力が大きく貢献している。古老の話しに依ると、囚人達は「タコ」と呼ばれ苛酷な労働を強いられたと生々しい事実が語り継がれている。上富良野駅は明治三十二年十一月十五日の開駅であるが、町史によると、終戦時に沿革誌を失っているので、知る事が出来ないとあるので、この開設当時の駅舎等は、日本国有鉄道百年史及び富良野繁栄誌から引用した。
駅周辺の火災
上富良野駅周辺の火災は数回に及んだ。幸い駅舎の焼失は免れたが、大正十五年五月二十四日の十勝岳爆発は、上富良野村の三重団体を縦貫している鉄道を埋没失等、一瞬の中に大災害を受け交通不能となった。
翌二十五日以後、各方面より復旧材料が到着し、線路工手四百名、人夫が二百名出動、復旧作業には開拓者と共に、全員昼夜兼行で全力が注がれた。僅か四日間の短時間にて開通を見、罹災者及び救護隊に多大の便益を與えたので、世人から深く感謝されていた。
火災に依る災害は、昭和六年七月、昭和八年六月及び昭和二十四年四月の三回に亘り火災が発生した。この火災では昭和六年及び昭和二十四年は付属建物の一部を焼失したのみであったが、昭和八年の火災は本屋まで類焼を受けたのであった。
炭鉱鉄道
北海道の炭鉱鉄道は明治二十四年、幌内線の延長線として、岩見沢・歌志内間、同二十五年砂川・空知太(滝川)間、室蘭・岩見沢・追分夕張間が夫々開通された。わが村の団体入植者の一番早かった団体長田中常次郎氏以下十八戸の方が、小樽から石炭運搬用の無蓋車に乗り歌志内で下車、そこから平岸まで歩いたと言われている。汽車も無蓋車のため、ミゾレの降る中をぬれながら歌志内迄輸送されたと伝えられている。
鉄道敷設も軍備上と開拓上から気運が高まり、日清戦争時には軍事輸送で大陸各地に兵員の輸送が行われた。各地の師団所在地には殆ど鉄道が開通して、幹線鉄道との連絡が可能となって、日露戦争時には日清戦争を遥かに上回る兵員を速やかに出港地迄輸送することが出来たと言われている。
当時の汽車の状態
鉄道の始め頃は、イギリス製の小型タンク機関車で客車も全てイギリス製であった。明治八年から官設の鉄道神戸工場で製作が開始され、同十二年から新橋工場でも製作に着手、台枠、車輪等鉄製部分を輸入し、車体の木工部は国内の前記両工場で製作して完成車に組立てた。ボギー客車は創業後数少ない台数であり国産車が使用されていた。長距離輸送に適応する設備も整備され、車両も改良され長い期間国民に親しまれていた。
世の移り変りと共に、昭和三十三年一月二十五日から富良野線も客車全部がデーゼル車(気動車)によって運転される様になった。
昭和二十四年十月二十四日・二十五日、上富良野開駅六十周年記念式典が挙行された。これと同時に上富良野農業協同組合の事務所新築落成と、陸上自衛隊の創立という記念行事を、全町的行事として同じ時期に夫々実施したが、この開駅を中心に盛大に町を挙げてお祝いした駅が、半世紀もたゝない中にこの様な変ぼうをしようとは当時夢想だにしなかったことである。
車両の改良製作
蒸気機関車及び各車両は、明治四十四年から大正二年にかけ、イギリス・アメリカ・ドイツから輸入して使用していたが、国産車両の製作技術も世界的水準に達し、大型の機関車も量産できるようになったので、大正三年以降国産化に踏切ったのである。
蒸気機関車は大正十二年に製作を開始し、幹線貨物用蒸気機関車を使用、更に強力なものを製作、匂配線区旅客列車にも使用されるようになった。
北海道の開拓は鉄道と共に発展して来た。特に僻地の開拓は鉄道が大きく貢献したのである。世界経済の中で農業経営を維持することが困難となり、転業する農家も出て僻地は過疎化し人工も減少の一途を辿っている。鉄道の必要性は大都市圏より過疎に苦しんでいる地方の方が大きいと思考されるが、経済の原則の中で、国鉄の改革も効果を挙る事が出来ず、もうからないから打ち捨てることは、政策としてはそれでよいのかどうか理解出来ない。開拓時代から鉄道と共に発達して来た駅は街の中心に建設されている。
十年程前から国鉄ローカル線の廃止の話が出て、不採算路線から逐次切り捨てる方針が打ち出された。
関係地域の方は生活を直接脅かすものだけに、各線共住民代表で構成する対策協議会をつくり、地元の者が一丸となって存続運動をしているが、各地共採算がとれず逐次不採算路線から切り捨てられている現状にある。二・三年前から北海道の長大四線の存続が問題となり論議されていたが、平成元年から逐次バスに転換され、残る名寄線は第三セクターに依り経営すると言う。こうゆう報導をきく度に、目先の経済性に心を奪れ、先人が築いた鉄道を失くすことは誠に残念である。

機関紙 郷土をさぐる(第8号)
1990年 1月31日印刷  1990年 2月 6日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一