郷土をさぐる会トップページ     第06号目次

舞台めぐり

高橋 七郎 大正九年三月十五日生(六十七歳)

今年の児童、生徒による「音楽の集い」に孫娘が出場するとの話をきいて、昔の学芸会を観る様な軽い気持ちで出掛け、上小講堂に入った。一般観客は僅かであるが、各校出演者と共に、後方の席で鑑賞する。
プログラムが進むにつれて段々舞台に引込まれて行く。斉然と並んで、可愛い口を揃えて唄うコーラスを聴きながら、自分も半世紀前に唄った事が思いだされて懐しさ一杯になって来た。
コーラスが済んで、器楽演奏に移ると、場内一杯に拡がる軽快なラテン音楽『エル・コンパンチェロ』のメロデーに続く『コンドルは飛んで行く』『ペルシャの市場で』と、私好みの曲が次々と演奏された。
町内各学校の幼ないながらも、しつかりした熱演の姿に目頭も熱くなる。これまでに教え込まれた担当教師の努力と練習の賜と感激もひとしおである。
最終の『紅葉』全員コーラスを背に聞いての帰り途、
♪秋の夕陽に照る山紅葉
と口づさみながら、遥かな遠い昔に思いをはせていた。
始めて上富小学校の学芸会で舞台に上った時、ドキドキと胸を弾ませて唄ったあの歌や、生卵を飲まされて張り切って出場した雪降りの日の舞台の様が、つい先日の出来事の様に次から次によみがえって来る。
波瀾に富んだ人生を振り返ると共に、且その波に翻弄されながらも、折に触れ俗に云う余興的であったにせよ、劇場で、又軍隊で、地の果てシベリヤでと、素人なりに些か舞台と自分との因縁があった様に感じられ、ここに舞台めぐりを書き始めた次第である。
その他大勢の中の幼年期
五・六才の頃、父が度々夕食後仏壇の前で、文盲の筈だったのに経文を開き、正信偈経文を声高らかに唱えていた。
経文後段に入り、念仏を反復唱える箇所となる。
な〜〜あもあみ〜〜だーあんぶな〜〜もあみだ〜〜ああんぶ〜〜
上り下りの口調が段々と進むにつれ、自分のほしいと思っている文句に聞えて来た。
あーめ玉五〜〜せーんーまーんじゅはーんぶん〜〜
暫くの間父の念仏が続くうちに、その後に押入れから引き出した座布団を積んで座り、手を合せては「あーめ玉五銭、まんじゅ半分」と真似ごとをしてお袋に後々まで笑われたものであった。
店が古道具屋でガラクタも多く、廻らない蓄音機や、すり切れたレコードも沢山あったが、その中で取り分け私は慢才の砂川捨丸のレコードが好きだったらしく、回転盤にレコードをかけて、盤を指で廻しながら反復繰返し、いよいよすり切れて聴こえなくなってくると、盤に耳をつけながらも覚えたものだ。後日、シベリヤボーイズのネタにも取入れ役立つことになる。三つ子の魂なんとやらである。
 A とりとり掛けたヨ、何のとり掛けた?
   始めは竹に雀、松に鶴、梅にうぐいすの組合せ掛合いだが、次に
 B ちりとり掛けたヨ、何の木に止めた
 A ちりとり?ちりとり?!ほうきに止まらかして一寸そっちへ渡した!!
 B とりとり掛けたヨ何のとり掛けた?
 A 借金とり掛けたよ何の木に止めた?!
 B 借金とり借金とり?アッ座しきに止まらかして裏から逃げた!!
   鳥と木との組合せ掛合いである。

 家の裏の杭は引抜きにくい
 隣りの家の裏の杭も引抜きにくい
 向いの家の裏の杭も引抜きにくい
 三ーつ合せば三隣りの三裏の三杭は三ひきぬきにくいー
早口言葉、掛合万才の一節であった。
昭和初期小学一・二年生の頃は、十勝岳爆発の末曽有の災害に見舞れた時でもあり、その復旧に村を挙げての大事業が行なわれた折であった。子供達の楽しみは矢張りお正月、運動会、お祭り、学芸会と偶に観る映画(活字写真)くらいのものであった。
これといった娯楽も少ない当時には、学芸会も盛大なもので、在学生、家族が揃って熱心に観覧し、出演者も仲々張切って練習を重ね、合唱(コーラス)、演劇等一生懸命上演されたものである。
学芸会の場合、プログラムには必ず各級代表の独唱が組入れてあって、二級上の黄田義栄さん、上級生では坂口某さん等が独壇場で、マイクもない時代であり、場内一杯に自慢の喉を響き疲らせて活躍していた。
幼な心に、高い舞台の上で人前で歌う度胸は仲々着かず、始めは何を歌っているのか無我夢中の内に幕になって我に返る。
先生が再三言われた「南瓜畑か、水瓜畑で歌っているつもりで‥‥」、観客を南瓜に見立てては申し訳ないところであるが、当人を落ち付かせる教えであった。
一、二年生の頃の初舞台はその他大勢の一番後列に立って、「俵はごろごろお倉にどっさりこ!!」の合唱であった。小学三年生になり故吉田勝子先生に見出され、故北原利男さん(上小教員)とハーモニカ合奏、二人で得意の『軍艦マーチ』と『山の人気者』等を演奏した。この時は、観客の後部席まで眺める余裕が出来た。
一本立ちの少年期
小学校四年生になって音楽(唱歌)担当は故小田としえ先生となり、特に引立てて頂き四年間連続で独唱舞台に立つこととなった。出演前には必ず喉薬の飴を頂き、又生卵まで飲ませて貰って、同級生から随分と冷やかされたもので、尚忘れ得ない恩師であった。
小学四年生最初の独唱歌は『おたまじゃくし』、小学五年生は『秋の夜半』の独唱歌、小学六年生には『紫式部』の独唱と当時連載漫画の人気者『のらくろ二等兵』の喜劇。この時には主役ののらくろを演じて、低学年からも「のらくろ」と呼ばれ人気が出たせいもあって舞台自信もそこそこに付いて来た。
高等科一年生『シューベルトの子守唄』独唱。
当時受持ち担当教師ではなかったが、珍らしく文化人であった木村清臣先生の薫陶に預り、少年野球剣道、音楽等で上級生グループ仲間に入れて頂き、故金沢 昇さん等と木村先生門下になって行動を共にした。
昭和十一年秋に、栄楽座(旧上富劇場前身)で小学生では珍らしく木村先生指揮の元に、ハーモニカ合奏で『森の鍛冶屋』『カルメン』『アルルの女』『ドリコのセレナーデー』『かっぽれ』の五曲演奏、更に落語劇『古道具屋』が上演され、その芝居の客人役をさせられ、手振り身振りも儘ならず、学芸会とは違った雰囲気に呑まれ、金縛りになった事を覚えている。
めまぐるしい青年期
昭和十三年、愈々社会人として国鉄下富良野駅(現富良野駅)勤務となったが、この時期に声変わりとなって喉には全然自信を失なってしまう。声が駄目ならせめて笑いのある歌、面白おかしな歌でも唄うことと悟って行った。日支事変も泥沼化していたが、職場勤務の余暇は専ら野球投手として登板したり、冬はスキーと映画鑑賞で明け暮れ、非番の日には度々札幌まで出掛け、一日三館馳けめぐり九太立てを観て帰ったが、頭の中でストーリーが混乱してしまったり、私の生活もあれこれと泥沼化した時代であった。
エノケン、ロッパ、アキレタボーイズ等の出る喜劇は必ず片っ端から観て廻り、笑いの唄を反復練習して覚えてのみこんでいた時であった。然し時節柄唄は軍歌かブルース流行りで、鉄道勤務三年間の間、遂に舞台らしき所で唄う機会はなく、そのうちに現役兵として入隊することになった。
満洲里に応召
昭和十六年一月、鉄道第三聯隊要員として厳寒乾しい国境の町、満州里に入隊、寒さと闘う新兵教育の三ヶ月が終り、ハルビンで特業教育有線手として修業していたが、七月には、独ソ戦激化に伴って国境が緊迫した情勢となり、急拠満州里原隊に復帰して戦闘訓練に明け暮れ、爆破作業が繰返えされた。
ソ連側も負けずと爆破音を轟ろかせて、連日黒煙を沖天高く舞い上らせて、お互いに牽制策を講じていた。偶々戦斗訓練中、右膝関節挫傷害を受けて、十月から翌年八月までの間、一年余りを白衣生活で暮らした。この間大東亜戦に突入したせいもあり、ハイラル―チチハル―興成病院と、転々と治療生活が続いたが、興成病院で昭和十七年の正月を迎え、演芸会となった。同室患者で旅役者上りの、小柄な関二等兵の奨めもあって、二人で寸劇『盗賊鼠小僧次郎吉』をやる事になり特訓を受けた。
三つ児の魂役に立つ
舞台で始めて見栄を切る役の次郎吉の台詞で始まった。
―勝手知ったるゥ法蔵院!!‥ぬれ手で粟の方千両箱、今宵も貧しい人々に…掛ける情も掛川宿、船宿渡世の泉星がー八百八丁に隠れのネェー、鼠小僧の次郎吉タァー(拍子木)「ババン!!バン!!」おしゃか様でも〜〜ご存じいやさァーあるめえーババン!!―
寸劇であったが貴重な舞台経験であった。
一ヶ月後、比較的軽易な患者が多数原隊復帰をすることになり、その前夜に病院挙げて送別の宴が催された。復帰者の中から私も演芸出演の指名を受けて、観客全員が白一色の舞台に立ったが何か雪原の中で唄っている様であった。
エノケンが全盛期に唄った『酒落男』を全部十番迄女声をまぜて唄い喝釆を受けた。お蔭で看護婦さん達にも顔を覚えられて、翌日の朝、おみやげを頂いて別れを惜しみながら原隊に復帰した。
満洲里に戻ったものの、脚の傷は元に戻らず、事務室要員として勤務することになった。
昭和十七年秋から翌十八年には、世界全面戦争が熾烈となり、日本の戦局も重大危機を迎えつつ、日一日と敗色の度を増していた。しかし満洲国境ではソ連を牽制しながらも、上辺は平穏を装い、満洲里市内の野球大会に中隊チームで参加したり、部隊創立の記念祝賀も例年通り実施されていた。
隊門アーチ看板やら、演芸場舞台幕を画き、又中隊の出し物『弥次、喜多道中』の弥次さん役となって、オペレッタ風の喜劇であったが、痛む脚をかばって、走り廻った。
舞台は鉄道隊お手のものの枕木を積み重ねて造り観客は勿論市内在留邦人の、満鉄、一般官公庁、商店街家族、兵隊で、約千名位の人が一日を楽しく過したが、軍隊での舞台づとめもこれが最後となってしまった。
終戦そして囚われの身に
昭和十九年の夏、転属者も日増しに多くなり、南方へ、北支へと異動して、我々は残留部隊となって四年間暮らした国境の町とも別れて南下を始めた。
この一年の間に、成高子〜遼陽〜朝鮮(韓国)の釜山まで移駐を続けて来た。ここで本土決戦の決意で続々と関東軍兵士が港を出て征く姿を見送ったものだが、この輸送途中で数多くの兵士が、海底の藻屑と消えた。
昭和二十年四月、釜山から小人数の中に入り、ハルビンに逆戻り、鉄道第20聯隊編成要員としての転属になった。編成完結が五月三日、新部隊づくりの慌ただしい裡に三ヶ月が過ぎ、そしてソ連軍の侵攻が始まった。
満洲里を離れてから二年間は転々と各地を移動していたものの、僅かにB29爆撃の洗礼を受けた位で、戦火とは程遠い存在であったが、ソ連軍侵攻で一挙に阿修羅場と化して、日系人類が悲惨な運命を辿ることになった訳である。
シベリヤ抑留となり、アルタイスク地区で、伐採の重労働が続き、加えて飢餓地獄に陥った五百余名の身は生ける屍さながらとなったが、一冬を過した翌年の春に、急拠山を降りて、ビースク収容所に入れられて辛うじて死地を脱し、人間性を取り戻したところである。
夏を迎え、体力もついたところで又移動が始まる。
半数は近くのコルホーズ行き、後の半数二百余名はアルタイスカヤ収容所入りとなった。この収容所には通信情報部隊を主力に十二程の部隊が入所していて、中には陸軍々医の朝倉、遠藤さん二組の夫婦が幼な児を抱えて抑留されていた。然しこの冬は発診チフスが流行して、収容者一、〇一二名の内二二八名が死亡したという(赤い月資料より)ことから、如何に犠牲が多かったかが伺える。
その犠牲者の穴埋め補充に、伐採組が肩代りさせられたのかも知れないが、我々が編入になった頃、所内の人達も精気を取り戻したところであった。
アルタイスカヤ全線座結成
人間喪失から目覚めて、失意のどん底に喘ぐ抑留者に、僅かでも生きる希望を与えようと、大隊本部の肝いりで、各所内の演芸希望者が集められた。
本部付村松曹長の音頭で、各得意とする種目の選出になり、歌、踊り、漫才、浪曲、手品、物真似の好きな人達が、それぞれ名乗り出て二十二名のグループが、新たな目的達成のために努力することになる。
先住部隊から十一名、伐採粗から十一名で、鶴田、新井と私が歌謡曲の部であった。その時司会役の、松村曹長が「歌を唄うなら三人でボーイズ式で、何かまとめてはどうか」と問われたので、自信の程は無かったが、好きなボーイズの話が出たところで高橋式ボーイズを決意、実行に移った。ここに通信隊出身の沢井 明を座長として、名称も「全線座」とし、沢井一座が誕生した訳である。
愈々第一回全線座の開演は、昭和二十一年の夏の夜であった。所内には寝食場所以外に会場となる部屋もないところから、結局食堂で行うこととなる。
(食堂とは名ばかりで、毎食分配は厨房との窓口から、各班毎に飯盒か空缶を差出して受取って持ち帰った。各人の寝台上でゆっくり食べたもので、常時食堂卓の上では誰も食べなかった)
木造で、小丸太を半切りにて並べた頑固で重たい食卓机を全部土台にして、その儘机上が舞台となった。会場の広さはあまりなく、満員にして精々三百名位が収容限度であったが、抑留されて初めての演芸会は予想以上の超満員で、屋外にはみ出された者達は、窓をはずして鈴なりになった。如何に娯楽にも飢えていたことか、出演に先立って身震いが止まらず、受けるか、失敗かの断崖に立った。
全線座第一回公演
ようやく開幕となって、初めに歌謡曲、浪曲、物真似、漫才等の素人芸が次々と披露されて、最終がボーイズ登場であった。中央が私で間に合せのギター(箱にピアノ線を三本張った簡単な鳴りもの)を抱え、右側に鶴田が小机の上に鉄なべ、桶、空缶、フライパン等を並べ、天井から大鋸をつるし、手造り太鼓まで用意して、打鳴らしながら拍子をとる役左側の新井は拍子木をカスタネット代りに使用する。
 ♪またも出ました アキレタボーイズ
  暑さ寒さも ちょいと吹飛ばし
  春夏秋冬 明けても暮れても
  唄いまくるは アキレタボーイズ(チーン)
(高橋)=経文句調= それーつらつら思ん見るにー
(チーン)そもそも音楽の始まりはー太鼓三味線琴胡弓、昔かわらぬ
  独々逸や、端唄、小唄に流行歌!!
(チーン)それ紅屋の娘の言うことにや、お前待ち待ち蚊張の外、明
  けて悔しい玉川の、水にさらせしチャーシューメン、支那と境の
  鴨緑江に、流す筏の仲乗りさん、天竜下れば、しぶきがかかる、
  それをあなたに疑われー 私ゃ涙の渡り鳥 =略= 腹が減って
  は唄にもならず、貴男奮って頂戴ナー、天ぷら、天どん、海老フ
  ライ〜〜早く喰わせてェーちょうだ〜〜あ〜〜いな〜〜
(鶴田)♪ダイナー ダイナは何だいな〜〜
  =歌謡浪曲節=ダイナは英語の独々逸でェー
  口から出まかせ 言いまかせー
  思ったことや 言いたいことや
  あの娘に 打明けたいときはあー
  一寸唄ってェー チョーダァーイナ〜〜
(新井)♪ダイナのダの字は駄酒落のダの字ー
  ダイナのイの字は、イロハのイの字、ダイナのナの字は
  =百人一首=「あしびきのー山鳥の尾のォ しだれれ尾の〜〜
  長々し夜をひとりー かもねん〜〜」
♪長々し夜のアァァー ナの字なーぁ チャカチャンチャン=略=
三人交互で、拍子をとりながら進めて行く。金色夜叉を満語、露語を交えて唄い、笑いのある唄を調子よく『煙草屋の看板娘』『八木節』そしてフィナーレに『結婚行進曲』として五番の歌詞となる。
♪みんな仲よく手を握りー これから築く新しい
 おいらの国だ日本をー 担うこの腕このかいな
 求めているのは富士の山 清く気高い心意気
 強く雄々しいー 心意気 チャカチャン!!
万雷の拍子が続き、興奮して夜は眠れなかった。
当時座長の回想
手前味噌になったが、真偽の程は幸い座長であった沢井 明氏(元シャープKK最高幹部)が昭和五十年に五年の歳月をかけ、自費出版された題本三八二頁のシベリヤ抑留記『赤い月』を賞っているので原文を抜粋させていただいた。
   《「全線座の唄(2)項より」(原文)抜粋》
全線座の運営リーダーは私(沢井筆者)であったが、実際には総て団員の合議制をとった。
高橋と鶴田、白井の三人は「アルタイボーイズ」を編成した。始めの頃のプログラムは極めて幼稚なものであった。プロローグは歌謡曲か漫才、そして声色か浪花節である。
次はアルタイボーイズのリズム漫談だが、これは人気が有った。リーダーの高橋七郎の素晴しい才智が光彩を放っていた。
♪村の鎮守の神さまの 今日は楽しいお祭りだ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
この唄で始まる「村祭り」は、小学校唱歌をバックに懐しい故郷のお祭り風景をボーイズ三人の掛合いで楽しく展開させていた。
高橋こと「赤助」が持っているギターは、最初の頃は板切れをギターの型に切り抜き、これにピアノ線を張った手作りの代物だったが、三回目の公演の時に全線座の仲間が、工場労働で得た賃金を出し合ってソ連将校に頼み、近くのパルナウルの町で買って来た只一の本物楽器であった。
鶴田正之こと「黒助」は、米国製の牛肉缶詰の空缶を利用し、適当な大きさにカットして、音色を作り、横木に糸でつり下げて木琴の様に棒でリズムをとっていた。これも赤助のギターが本物に変って暫らくたった頃、本物の皮を張った小太鼓に変った。
白井一郎こと「白助」は、専ら歌と子供の声音に特徴を出した。そして拍子木を作ってカスタネット代りに叩いていた。
観客の捕虜達は逆境の苦しみ、空腹を暫らく忘れて、故郷の夢を懐しみ、溢れる涙をぬぐいながら、子供のように泣き、そして笑った。
アルタイスカヤの日本人捕虜に、生きる希望を与えた功績に対して、もしも表彰が有るとすれば、アルタイボーイズをその第一に挙げねばならない。
(中略)。
昨年(昭和二十一年)の十一月に私(筆者)は大変な企画を持ち出した。
『シベリヤ忠臣蔵』の上演である。
捕虜にとっては総てが創意であり工夫であった。
特に、自己の可能性の限界に挑戦する、という絶好の機会であったとも云える。
そして、その終局の目的は、生き抜いて帰国する事であった。(中略)最初の間は、そのスケールの大きさから座員一同は、冒険すぎる、と不安の声も出たが私の思い切った演出のアイデアと、それに賛同し、更に自分なりの筋書を思いついた高橋の言葉にみんなが乗りに乗った。そして面白い様に各人の役割が決った。脚本は高橋七郎と私の担当で、オリジナル合作とする。衣装は佐々木、かつらは日比野、照明道具方は矢野外一名、小道具は藤井と玉本等。
昭和二十一年十二月十四日午后六時、ここアルタイスカヤ収容所の仮設舞台で『全線座』の総力を結集した『シベリヤ忠臣蔵』の開演ブザーが鳴り響いた。
この夜のアルタイスカヤは久し振りに吹雪も止み、冴えかえった冬空に、北斗七星が凍りついて輝いていた。屋外は既に氷点下三十余度を越えているというのに、劇場内は満員の捕虜ではち切れそうになり、むんむんする熱気に溢れていた。
仮設劇場に変ったこの食堂も三百人が限度であったが五百人近い観客が集って来た。
五百人といっても、ここには千二百人の捕虜が収容されていたから、残る七百人は折角の機会を失ってしまった。公演は一回限りの上演と決められていたのだ。今夜は特に前評判が高かったため本部では制限を図り、三百枚の入場券を発行したが、券にプレミアム(パンかたばこで)が付いたし、本部や炊事、医務室勤務者にコネを付けた潜りの兵が多数入り込んでいた。
『シベリヤ忠臣蔵』は延々三時間半の大作となった。(後略)
実際のところ、ないないづくしの中でよく出来たものと思った。衣装は藁ぶとんの中味を出して、全部仕立替えの白装束、刀も鍛冶屋組が本物の様につくり、かつらから履物まで全部現地づくりであった。
舞台裏騒動
裏話しになるが、幕あけと共にボーイズが各場面の進行役をつとめていたのだが、先ずは刃傷松の廊下の場面はボーイズ式に運び、切腹の場は芝居、お軽勘平の道行きはオペレッタ風に、又定九郎が登場する山崎街道勘平二ツ玉の段では、ボーイズが義太夫扮装で上手に坐り、掛け合いで喋り、歌い合わす。
それにつれて定九郎が見得を切り、猪が踊り跳ねる。コミック的完全なパントマイムで、ぎこちない仕ぐさも加わって、その珍妙な演技、演出に、爆笑に次ぐ大爆笑で湧きに湧き、乗りに乗った。
ボーイズあり、オペレッタ、浪曲に手品、芝居に踊りとバラエテーに富んだ忠臣蔵は、全員白装束の扮装と併せて、前代未聞の珍芸であろう。
後段討入りの場と進んで、一人三役の座員は忙しい。黒助(鶴田)は安兵衛に、白助(新井)は女形に、赤助(自分)は楽団担当(吾れ独り)に早変り。音楽と申しても、ハーモニカ、左手は肩からつったギター、左脚は太鼓をたたき、右脚は鐘をける段取りである。
見せ場である堀部安兵衛と小林平八郎との乱闘シーンとなって、両者お互い名乗りを挙げて斬り合いとなる。
「イザ!!」『イザァツ!!』の声と同時に、音のチャンバラ伴奏よろしく チャンチャン、チャンチカスカラカチャン!! とハーモニカを吹き、ギターを掻き鳴らし、鐘をたたく……
息が合った上に、乗りに乗って演じていた時だけに、物凄く気迫の籠った立ち廻りとなった。
安兵衛に扮した黒助(鶴田)は、早稲田大学剣道部の五段の腕前であり、相手の小林(沢井)は座長で芝居狂。この二人が暗い舞台で音楽に合せて斬り合う様は、真に迫り、殺陣も型にはまっていて、刃を合わせる度に火花が飛び散る力の入れ様であった。
所内の前評判が良く、上演を許可したソ連将校、幹部連が家族共々「ヤポンスキ、サムライ」の言葉だけは知っていても、姿を見るのは初めてとあってかぶりつきで並んで坐って観ていたが、チャンバラも真に迫まるや、皆驚ろき慌てて椅子のまま後ずさり始めた。体力も回復したヤポンスキーの姿は余程恐怖であった様で、これ以来「時代劇」チャンバラ上演は全面禁止のきつい達しが言い渡された。
フィナーレで、義士一同(座員全員)が勢揃いし、勝どきを挙げた。
「エィ!!エィ!!オー!!」の声に答えて、場内一杯の破れんばかりの拍子と喚声に加えて、口笛が何時迄も鳴り続き、止まず、この時こそ全線座の勝どきでもあった様である。
実現するか最終公演
総べてが無から有となして、創意と工夫、衣裳から小道具、かつらから刃物まで分担作業で作り上げ脚本も参考とすべき何ものもない、ただ頭の中にあった見覚え、聞き覚えを寄せ集めて、冒険過ぎるとも思った企画に一役買って出て、やれば出来るとの自信が湧いたことと、自分の可能性の限界に挑戦できる機会に巡り得た喜びもひとしおであった。
抑留中二度目の冬を、ひたすら演劇に意を注ぎ、希望の無い灰色の日々に幾分なりとも人間性をよみがえらせる糧として、「シベリヤ忠臣蔵」完成と共に脚本づくりに意を燃やした。
収容所は又新しい混乱状態となった。それは民主化運動の活発化に伴い、共産思想洗脳の謀略的風潮である。
然し、私達は意に介することなく、帰還が近づいた気配も感じられるところから「全線座の公演も最後になる様だ」との沢井座長の予想を知って、タネ切れの頭を絞って三月最終土曜日の公演に向けて脚本づくりとなった。
三人寄れば文殊の智恵と鶴田、新井の協力を得て日夜原稿づくりに没頭したところである。
結末はいかに………。
(以下次号へ続く)

機関誌 郷土をさぐる(第6号)
1987年8月15日印刷  1987年8月20日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一