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ホップの由来と栽培歴史

谷越 時夫 昭和九年二月二十二日生(五十二歳)



われわれが、ビールという言葉を耳にする時、すぐに思い浮べるのはあの『ほろ苦さ』であろう。
飲み終えたあと、のどに残らないすっきりした苦味は、まさにビールならではの醍醐味といえよう。
ところで、ビール特有の爽快な苦味は、主として原料のホップに由来する。ホップこそビールの味を特徴づけるためのカギを握る大切な原料である。


ビールとホップの出逢い
さて、ホップがビールに使われ始めた起源は、いまだ定説はないが紀元六百年の頃、ネブカドネザル王時代に一部使われていたと唱える学者がある。それはユダヤ律法集のタルムードの中にホップをさすと思われる『カスータ』という言葉がある。これはユダヤ人がバビロンの幽閉の際にビールづくりに従事し、ホップの存在を知っていたこと、もう一つほかの有名な古代七不思議の一つであるバビロンの吊庭園に植えられていた植物の中に北方山岳地帯から取寄せた野生ホップが仲間入りしていたことによる。
さて、このようにホップの『ふるさと』および伝播経路についていくつかの説があるが、ドイツのブラウンガルト博士が唱える考えが、最近では最も有力である。
紀元前千年のころ、コーカサスの高原地帯にインドゲルマン民族に属するとみられるオセット人が住んでいたが、彼らは身近にある野生ホップを加えた大麦を原料としたビールを醸造し愛飲していた。オセット人こそホップをビールに結びつけた大恩人であるという。ちなみに今も住んでいる彼等の子孫と思われる種族が、原始的な方法でホップ入りのビールをつくっているとの報告がある。
ビールにホップを使うというこのすばらしい知恵は、さらに彼らを仲介して近隣の種族へも拡がったと考えられる。
ヨーロッパへの伝播はスキタイ人、そうしてスラブ諸族を経由して行われたものと推定されるほか、バビロニア人によるホップの使用もあるいはここからアルメイ人を経て伝わったとの見方さえある。
現在世界的に有名なホップの産地でのビールとホップの結びつきのあとを辿ってみよう。
ドイツでの歴史
紀元後八〜十一世紀にビールづくりが家庭内の仕事から封建領主に対する賦役や修道院の生産活動へと移行するにつれて、あちこちにホップ園が出来始めた。しかしこの頃にはホップがビールに使われるというより、むしろ薬草として利用されるために育てられたものである。当時の人々がビールの味付けに盛んに用いられていたのは手近にある香りの強い植物の花とか、苦味や辛味をもつ薬草の茎・実であり、しかもこれらを数種混合して利用されていた。もちろんこの中にはホップも入っていたことと思われる。
十二世紀になり都市が形成され、市民による商業的ビール醸造が行われ始め、ホップも注目され出した。女修道院長で植物学に明るいヒルデガードの薬草の本の中にはホップがビールの味付けに添加されていたとの記録が残されている。さらに十三世紀以降になりホップがこれまでのように野生種を用いる段階から一歩進んで、栽培植物化へと進んでいる中で最もホップとビールの結びつきを固くしたのが千五百十六年南ドイツ、バイエルン君主、ウイルヘルム四世の、かの有名な『ビール純粋令』であり、ビールについては『ビールは大麦・ホップおよび水だけで醸造せよ』との法令である。これが今日でもドイツ国内用ビール醸造で遵守されているという。
かくして十六〜十七世紀にかけて、香味が爽快である上健康にも良く、しかも日もちのすぐれたホップビールがしっかりと地歩を固めるにいたった。
十九世紀に入り南ドイツバイエルン州にあるハラタウ地方を中心としてホップの産地が発達し、量・質両面で世界の代表的ホップ産地が形成されている。
チェコスロヴァキアでの歴史

この国のボヘミアでは、紀元八百五十九年にホップについて最古の記録をもつが本格的に栽培され始めたのが十四世紀である。
時の君主カール三世はビール醸造にとって必要なホップの産地を自ら探し求め、まさしく風土がホップの生育に適したザーツ地方を選び栽培育成に当り、十六世紀にはこの地方の産業としてめざましく発展し世界的にも代表的なホップ産地として今日に至っている。

日本へ
日本人がビールに親しみ出したのは明治維新前後である。文明開化のお酒の代表格としてやって来たビールを最も早く(明治二年)つくって売ったのは横浜の外人ウィリアム・コープランドでノルウェー生まれのアメリカに帰化した醸造技師であるという。当時のビールに使用されたホップは、おそらくヨーロッパから持って来たものと思われる。
わが国での官営ビールの発想が明治政府によって取上げられ、明治四年大阪の政府機関通商司が改組されてできた大阪開商社が工業振興の事業としてビールの製造を計画し、当時の外務省に上申してアメリカのビール醸造技師ヒクナッ・フルストを招いた。しかし開商社はこの事業を中止したため、綿問屋の渋谷庄三郎が個人資産であとを引き受けたが、ヒクナッ・フルストも間もなく帰国したため中止された。
ホップ栽培の始りは、明治五年トーマス・アンテセルが、当時の北海道開拓使がビール事業を開始するに際して、ホップの栽培に関して次のごとく建言しており、これが始りと思われる。
北海道ニ栽培スベキモノハ『ホップ』草ナリ。蝦夷ノ南方ニハ天然繁生スルモノ往々之アリ其土地ニハ必ズ培養ノ『ホップ』モヨク繁茂仕ベク候、尤モ天然生ノモノモ麦酒ヲ醸造スルニ足リ申スベクト奉存候二十封度ヨリ二十五封度迄『ホップ』ヲ此表へ御取寄候ハヾ横浜ニテ一人ノ醸造家ヲ雇ヒ用ニ適スルヤ否ヤヲ試ミ申スベク若シ用ニ適セザル時ハ英国ノ『ホップ』御植付ニ相成候ハヾ二年ヲ不出シテ巨多ノ『ホップ』御国用或ハ輸出物ニ供シ候様可相成候。
右建言ノ趣可然被思召侯ハヾ当秋ノ内ニ開墾等都デノ御用意有之度且ツ其ノ開墾地ノ測量並ニ分賦等ハ最モ肝要ノ儀ト奉存侯頓首。
千八百七十二年第七月二十九日
                          トーマス・アンテセル
黒田開拓使次官閣下
また、翌年『北海道岩内ホリカップ』に自生していた野生ホップを採取して、横浜に送り試験させてみたが、採取時期、乾し方が不完全などから変色し用をなさなかったようで、さらに明治政府では、アンテセルの建言に従ってホップの種子を英国より購入したが、港に着いた時には皆悉く腐敗し、折角の苦心も水泡に帰したと記されている。この他ドイツ、アメリカからも購入している事が開拓使公文録に記載されている。
明治九年九月官営ビール醸造所(現サッポロビール且D幌第一製造所)が開業され、本格的にホップの栽培が始っている。なおこの頃のホップ園の規僕は次のごとく記載されている。
<大日本麦洒且O十年史から>
明治十年  第一園・第二園 一・八f (札幌市北二条〜北五条西三丁目)
明治十一年 第三園      O・八f (札幌市北二条〜北五条西三丁目)
明治十三年 第四園      一・Of (札幌市北二条〜北五条西三丁目)
明治十四年 第四園      一・Of (札幌市化七条西七丁目〜北六条西四丁目)
しかし、明治十五年開拓使が廃止され、ホップ園は農務省の所轄となり農業事務所の主管となる。
さらに明治十六〜十七年になると、北海道農業管理局や札幌育種場に併合され札幌農学校が経営に当るなど、幾多の変遷を得て来たが、明治十九年ビール醸造所が民間の大倉組に払下げられると同時にホップ園も、『菊亭脩季候』へ払下げられ、この地より白石村(現札幌市白石区)に移植している。(約五f)。
翌二十年、ビール醸造所にドイツ人醸造師『ポールマン』が入ると札幌産のホップを斥けて使用しなかったため、自然その需要を失い開拓使以来続けられて来たホップの栽培は絶えてしまっている。
ホップ栽培の再興
明治三十年、ドイツ人醸造師も去り、一方ビール醸造業も年々盛大になると共に、再びホップ栽培の必要性を認め、たまたまビール醸造研究のためヨーロッパへ留学中の技師矢木久太郎がドイツで購入したホップ種子を工場周辺に播種育成を図った結果、これが比較的有望であったため、明治三十七〜三十八年に苗穂ホップ園を(現札幌市東区北八条東九丁目)開設し、明治三十九年、大日本麦酒株式会社(現サッポロビール)が創立されると同時に、さらに山鼻ホップ園をも開設した。(現啓北商業)
しかし、この年発見されたホップの新病害『べと病』は現在でもホップに大被害をもたらしており、十分な防除方法も確立されていなかった当時ではその被害は栽培農家を苦しめた事と思われる。
さて、この当時わが国のビール業界では、その使用ホップを主としてドイツやチェコスロバキア(当時のオーストリア)に仰いでいたが、経済界の変遷や国産ホップの栽培法が確立された事もあって、全国各地で優良栽培地を選択すべく試作を開始している。大正二年には農商務省と協議し長野県下に大規膜な試作をおこない、さらに翌三年には北海道十六ヶ所に農業試験場を通じて試作をおこなっている。
上富良野での栽培
大正六年に札幌市周辺の藻岩村、琴似村、豊平町の一部(現札幌市)にて実施し翌七年から契約栽培が始り、これが北海道での契約栽培の始まりとなっている。
また、大正十二年におこなった上富良野村、夕張町、遠別村などの試作の結果、気候、風土、土質、生育状況、さらに収量、品質など総合して上富良野村が最も優れている事が判明、大正十四年当時の、大日本麦酒株式会社の重役が視察した際、地形がドイツの産地『ハラタウ』地方に似ている事などから最適地と決定、直営ホップ園の開設、さらに契約栽培の計画が進められ、翌年富原にあった本間牧場を当時の『吉田村長』のお骨折で買受け、その年の十月上富良野ホップ園を開設している。
このようにホップの栽培は、会社での直営栽培を主体に、本格的な契約栽培方式へと転換してゆくのであるが、昭和の初期に起った世界的不況により昭和五年から栽培面積の縮小方針が打出され、これが昭和十二年頃まで続いた。
しかしこの年の日支事変の勃発により、外国からのホップの輸入が困難となったので、国産ホップの自給体制の確立が急がれ、再び増反に踏み切った。昭和十四年には山梨、山形、同十五年に福島の各県にホップが始めて導入されている。
また栽培方法も従来の支柱式から鉄線棚方式へ、さらにホップの乾燥も天日乾燥から火力乾燥へと移行しつつあり、その結果、生産性、品質が一段と向上している。
一万、昭和十六年の大東亜戦争の勃発以降同二十年までのホップ栽培は、時局がら経済統制、食糧、軍需、作付面積の割当に加えて物資不足、労働力不足などから困難を極めたようである。(政府の衣料不足対策に収穫後のホップ古蔓十六トンを供出した)
昭和二十年、ビールの醸造停止命令により、ホップは苗木のみ残し、あやうく整理されるところであったが、同年八月の終戦によって、再び栽培が続けられるようになった。
戦後は物資不足と食糧不足に悩まされ、加えて極度のインフレによってホップの栽培意欲が著しく減退する中で、いろいろと減反防止の努力にもかかわらず、主食作物重点政策などの重圧もあって全国的に栽培面積は大幅に減少した。
昭和二十四年、大日本麦酒は経済力集中排除法により二社に分割されたが、この頃漸く食糧事業も好転しビールの需要も増大する傾向が現われ、ホップの増反も進みホップの栽培も明るい見通しとなった。
昭和三十年代に入ると、高度経済成長に伴いビールの消費も急速に伸び、ホップの需要はますます増加し、換金作物への指向などからも安定作物として注目され出して来たが、その反面労力不足、諸物価の値上がりなどから経済栽培のための技術開発の必要性にせまられ、ホップ花摘機、通風乾燥機の導入などが促進された。
一方、ホップ栽培組合の組織替も全国的に進み、従来の申し合せ組合から法人化した農業協同組合を設立し、さらに全国的な連繋を図るため上部団体として、昭和三十五年七月、全国ホップ農業協同組合連合会が設立されている。
また昭和三十一年に秋田県、さらに昭和三十七年岩手県、新潟県にもホップが栽培され全国的には北海道、東北十県の各地に拡大されている。
国産ものから輸入ものへ
昭和四十年代に入ってもビールの需要は続いたため、ホップの生産も飛躍的に伸び昭和四十三年度の全国栽培状況は、栽培人員八千二百九十二人、面積干七百七十三f、生産量三千二百九十五トンで、過去最高となっている。
しかし、この年代は世界的に農産物の自由化がクローズアップされ出した時代であり、さらに米の過剰問題などから稲作の他作物への転換等、日本農業にとって大きな転換期を迎えた。ホップの栽培も昭和四十三年度をピークに漸次下降を辿る中で、外国からの輸入ホップ価格が国産ホップ価格を大きく下廻り、このため国産ホップの生産費低減がホップ生産者にとって緊急な課題とされ、生産規模の拡大、集団化、さらに団地化等による生産体制を確立し、ホップ生産費の低減に努めた。
この結果、長野県、山梨県、新潟県などに多かった小規模栽培者の廃耕が促進され、昭和四十九年度の全国のホップ栽培状況は、栽培人員四千五百四十九人、面積千四百十七f、生産量二千七十四トンでピーク時に比較して著しく減少している。一方、輸入ホップについて見ると昭和四十三年度は僅か五百十二トンであったが、昭和四十九年には三千七百十一トンと実に六倍に増加し、国産ホップの自給率も七十九%から四十四%へと減少している。
明治九年開拓使のホップ栽培開始以来の、札幌地方のホップも昭和四十八年、直営、契約栽培とも廃止され、約百年間続いた栽培の歴史を閉じた。
昭和五十年代に入っても、ホップ栽培の合理化、摘果・加工設備の近代化等による生産費の低減に努めたが、輸入ホップとの価格差解消に至らず、特に昭和四十八〜四十九年のオイルショック時の、ホップ価格の大幅な値上げが影響しビール企業の経営に与える負担が一段と増加する事となった。
栽培の転換期
このため、昭和五十三年頃よりホップの増反は中止され、自然廃耕者の肩替りも認めない現状維持の方針が打出された。一方、長野県等の大都市近郊地帯では、交通手段の急速な発達により、ホップ栽培地を蔬菜栽培に切替える、いわゆる都市型農業の形態が進むなど、ホップの栽培も山間地域のみになっている。また山形県では強制減反の手段もとられている。
このような情勢の中での昭和六十年度のホップ栽培状況は、耕作人員二千三百四十五人、栽培面積干四十七f、生産量千八百八十二トンとなっており、中でもかってのホップ生産地長野県の減少が著しい。
これにひきかえ、外国ホップは年間四千三百二十五トン輸入されており、価植も一s当り国産ホップの買入価格が二千三百五十円に対し干八十四円と半値以下となっている。
近年ビール消費者のニーズは、本物指向へと進んでおり、品質の優れた原料の必要性が益々要求され、ビール業界も原料の品種改良、育種にバイオテクノロジーの新技術を用いるなど育種年限の短縮をおこなっている。この中で、サッポロビール鰍ェ昭和五十九年度農水産省に品種登録をした、ホップの新二品種『フラノエース・ソラチエース』は注目されており、現在世界の最優秀品種とされているドイツのハラタウ種、チェッコのザーツ種などより優れた特性をもっており、近く一般栽培品種として普及される事となろうが、これはホップ栽培者にとって期待されるものである。

機関誌 郷土をさぐる(第6号)
1987年8月15日印刷  1987年8月20日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一