郷土をさぐる会トップページ     第05号目次

続 戦犯容疑者囹圉記

故 岡崎 武男

囹圉記とは(編集者注)故岡崎武男氏(元農協参事)が第二次世界大戦で憲兵曹長として、タイ国.バンコックで終戦を迎えてから、戦犯容疑者として投獄、ビルマ国ラングーンでの戦犯審理、そして昭和二十二年八月の帰国するまでを俳句や日記等で綴ったものである。特に戦犯容疑として書物が一切禁じられた中で、マッチ棒位の鉛筆を獄窓の鉄枠の中に隠し、毎日支給されたチリ紙三枚の中から一枚づつ残したり、護衛兵の捨てたタバコの包装紙に苦心して書いたのが『囹圉記(れいご記)』である。獄中での所持品検査の際、窓外に投げた事も幾度かあり、復員するときは戦犯で処刑きれた戦友の遺書と共に「リュック」の底に隠し持って帰国したのであった。
囹圉記(七)
自 昭和二十一年一月十三日
至 昭和二十一年二月二十日
一月十三日(タイ・バンコックのバンワン刑務所)
薄暗い鉄柵の監房に、再び詰め込まれた。以前と比べて、夜間の施錠が解かれただけ助かる。警戒兵も入口に居るだけで、中には入って来ない。

一月十四日
日夕点呼の時、第二キャンプの一個分隊が、巡視に来た所長の感情を損ね、明日十二時より二時間、広場で不動の姿勢を執るべし、との懲罰を課せられた。
開放的どころか、全キャンプの者が、皆猫の様に温和しくならざるを得なかった。そして、所長の交替を祈った。

一月十七日
今度収容された監房は、八畳間位の小監房でそれに、十名内外宛入れられた。前面は廊下に面した鉄柵で、背面は一尺四方位の窓が手の届かない高い所に一ヵ所あるだけで、美しい空を眺める事も出来ない。薄暗い陰気な監房だ。
何処の監房の者も粘土を固めて碁、将棋、麻雀を造り始めた。しかし、これも刑務所長に発見されては懲罰だ。

一月二十日
グランドキャンプ当時から、一部の同志が要求していた英語講座が始まった。
講師は、一緒に収容されている通訳官だ。これから三ヵ月の速成で、皆張切っている。命のある限り勉強だ。

一月二十二日
吾々が以前にこの刑務所を出てから、そのあと印度国民軍が約三千人ほど収容され、最近印度に送還された事がわかった。吾々の出獄はそのためであったのだ。
彼らは民族意識が旺盛で、朝夕広場に集って印度独立の歌を叫び、警戒する英人の存在も全く無視した日常を送っていた由である。
英人も又、日本人を扱う様な訳にはゆかず、傍観していた様だ。
一部、この刑務所に残留していた日本人の監房にも、彼等から毎日の様に色々な物が差入れられ、夜半、施錠した鉄柵を乗り越えて、日本人の所に遊びに来たとの事である。この刑務所を、彼らが去る時落書した「アジアを去れ」の印度文字が、到る所に残っている。
英軍の捕虜になりながら、祖国独立の一念に燃ゆる、彼らの民族意識には頭が下がる。

一月二十四日
野菜の補給と心身鍛練の為、印度国民軍が踏み荒した獄庭に農園を始めた。
一鍬一鍬振り上がるショベルや鉄棒に、祖国再建の夢を描きつつ、焼きつく様な太陽を背に浴びて、皆一生懸命だ。

一月二十六日
獄庭に出ても眺むるものは、唯青空に浮ぶ白雲ぐらいなものである。
しかし、使役中隊の当番に当ると、その日は糧秣運搬や残飯捨ての為、獄の門外に出る事が出来る。
わずか数分の事だが、楽しそうな原住民の生活を眺めながら、裟婆の空気を一息吸い込む事が楽しみである。

一月二十八日
昨夜の風で吹き飛ばされた屋根を修理する為、二階建監房の屋根によじ登った。高い所で吸い込む空気は、なにか神聖の様だ。聖ロウの銃機が黒く光っている。
監房の廻りを眺めて驚いた。二階建の監房が数十棟もあるのか、はるかに並び、それを囲むコンクリートの高い壁が果しなく延びて、限界がわからない。
話しによると、このバンワン刑務所は、河と河が交差した三角州の中に在って、約三万人は収容出来る、泰(タイ)国一の刑務所である由、さすがは大陸の設備である。水道や電気の設備もある様だが、みんな老朽化している。
吾々は、この設備のほんの片すみに居る事になるのだ。

一月三十日
この頃、残飯を捨てに門外へ出る機会を利用して物々交換が始まった。警戒してついて来る歩哨の堅い奴に当った者は、不幸にも槍玉に挙がり、所長の懲罰が待っている。
それでも唯一の煙草ルートであるだけに、自分の着る一枚の衣服も煙になってゆくのである。

二月一日
この頃、支給される米が非常に悪く、腹痛を起すものが続出した。赤色を帯びた玄米で、半ば腐敗し悪臭が鼻をつく。その上、籾が二、三割位も混っているので、そのまま炊く事が出来ず、毎朝各人に割当して籾選りすることが日課になった。

二月二日
刑務所内に於ける演芸会の催しが許された。これから、毎週日曜日夕食後二時間半、野天舞台でやるのだ。これが獄中生活中の唯一の慰安である。
警戒兵も一緒に見物しているが、特に女形に扮する役者が出ると、終っても側近から離れようとしない。

二月四日
引揚げられた私物品の整理が始まったが、奪い合いの前例があるので、隊長立会の下に厳重に行われた。
だが、困難な乱梱のため、自分の手元に戻ったものは僅かであった。

二月六日
毎週、連合軍から「世界時報」と称する東南亜細亜軍発行の、日本語新聞が配付された。
国際情勢や、内地の詳報、南方軍戦友の消息、戦犯の状況等が詳細、かつ興味あるニュースで、吾々を楽しませるに充分であった。
戦争中に、敵さんが飛行機から撒いたビラの延長に過ぎないとは思いながら、写真等の事実報道には望郷心を誘われた。

二月八日
刑務所生活はしていたが、この頃取調べも首実験もない。日中は朝の籾選りが終れば自由である。
囹圉記 (八)
二月十日
病院に入院中の憲兵も時折退院してきたが、完全治癒していない者が多かった。
憲兵隊、捕虜収容所、特務機関等が、連合軍から特殊な扱いを受けているため、陸軍病院に於ても、嫌遠して長く置く事を好まないのだ。退院者の中には、間も無く、再び入院する者もあった。
吾々は、この退院者が持って来るニュースやわずかな日用品を楽しみにしたものであるが。

二月十一日
獄舎で、はるかに紀元の佳節を迎えた。「光輝ある二千六百年」の歴史も、これが最後か。

二月十三日
かつて、祭師団長としてビルマで活躍した、渡中将の講演を聴く。戦時中の戦陣訓とは話しが違う。
しかし、元老である。銘肝するところあり。

二月十四日
しばらく平穏であったのに、今朝四名の者が指名され引致された。彼等はシンガポール行きである。
戦犯として起訴されれば命はない。
四名の者は覚悟している様だ。もの淋しく笑顔を見せながら身支度をしている。同期生や同県人に見送られ、唯、黙然として獄門を出て行った。尊い犠牲者だ。吾々は永久に忘れてはならない。

二月十七日
糧秣受領に、英軍の糧秣庫へトラックで行って来た。糧秣庫の入口に小さな机を置いて、一人の英人が居るだけである。伝票を渡すと、自分で持って行けと言う。英軍とは、みんなこんなものかと驚く。

二月二十日
使役や当番や何かの機会に、原地人に触れる事があるが、いつ、どんなところでも、男も女も吾々に対する気持は親しそうである。そして相変らず吾々をマスターと呼ぶ。同じ民族の血を引いているためか、白人には感じられない近親感があるものだ。

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷  1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一