郷土をさぐる会トップページ     第05号目次

戦時下の農村生活 配給制度を主として

上村 重雄

はじめに
この稿は、今次太平洋戦争下、銃後農村生活の苦闘の歴史の一端を、主として配給制度の面から、その状況を私達の体験したものばかりでなく、先輩から見聞したものも加えて、取りまとめたものであります。
戦後四十年を経過した今日、過去を振り返ってみますと、時代の変遷の激しいことに只々驚くばかりですが、特に我が国にとっては、あまりにも悲惨な結末を告げた戦争のことは、私たちの胸に深く焼きついていて、まるで咋日の出来事のように、よみがえってきます。
私ども戦争体験者は、戦争によって尊い生命を捧げられた犠牲者の御冥福を祈りますと共に、再び過ちを繰り返さないためにも、戦時下農村生活の一端を、若い世代の方々や後世に言い伝え、書き残したい念に駆られてペンをとりました。
銃後の国民
昭和十二年の支那事変開始直後から始められた、国民精神総動員運動は、銃後の国民としての自覚を強くうながすものでした。さらに、昭和十五年の新体制運動、大政翼賛会の結成を通じて、国民の私的生活には戦時体制の強い影響が浸透することになりました。
「勝利の日まで」が映画の主題歌として登場した.のは、昭和十九年四月であったと記憶していますが、すべての生活を決戦と言う掛け声のもとに、決戦非常措置がとられたのです。
国民の生活は、「撃ちてし止まん」「勝利の日まで」等のスローガンに囲まれ、道行く人々も男性は国民服にゲートル、女性はモンペが常識とされ、引締った服装をすることに心掛けなければなりませんでした。
新聞や雑誌などの統合や改題などが行われ、「キング」は「富士」に、「オール読物」は「文芸読物」に、「サンデー毎日」は「週間毎日」と改題され、読物の内容も戦時一色に全紙面が埋まったのでした。
また、軍事作家が多くなり、軍国物語などが掲載されることが多くなって行きました。
米の配給統制と食糧事情
米の配給は昭和十六年から通帳制になり、当初は成人男子一日当り三三○グラム(二合二勺)が基準で性別、年令、労働の種別によって十六区分されていました。
戦争が拡大進行するに伴って需給が窮屈になると、基準の切り下げが再三行われるようになり、昭和十八年頃からは精白歩合を七分搗、五分搗、或はそれ以下に落したり、その上、米の配給枠内に麦は勿論のこと、豆類が組み込まれるようになりました。
とくに、終戦から昭和二十一年にかけては、総合配給制と弥して、馬鈴薯、コーリャン、澱粉粕まで代替配給されることになりました。
「注」道の調査によると、主食代替配給品目は、五十品目にも及んでいる。
それでも配給事情は悪化の一途を辿り、五日が十日、さらには二十日の遅配になり、遂には遅配でなく欠配になってしまうのでした。
消費者は生きんがためには、なり振りかまわず、親類や知人につてを求めて、何がしかの食糧を手に入れたりしましたが、それにも限度があることで、特定の心当りのない買出しや、タンスから衣類など持ち出して物々交換したり、手段を尽して食糧をあさりました。
闇売りのかつぎ屋さんが、取締官に駅頭で米袋を取り上げられたり、時たま農家に出かけて、無理に頼み込んで手にした米の入ったリュックサックを抑えられた不運の主婦もありました。
食糧管理法を破った人間を裁く立場の裁判官(東京地裁の山口判事さん)が、法律規則を忠実に守ったために、餓死されたのはこの頃のことでした。
占領軍は一千万人の餓死者が出るかも知れないと思ったそうです。そして、日本は人口が多過ぎる。
この狭い国土では今の三分の一が適正人口だとの言葉も耳にしました。
しかし、幸いにも軍政を成功させる第一歩の手段として、占鎖軍が確保していた食糧の放出と、緊急輸入食糧四百五十万トンが認められて、日本人を飢餓から救ってくれたのです。
なお、統計によると、昭和二十一年の日本人一人当りの摂取カロリーは、一、四四八カロリーで現在の六〇%に過ぎません。
また、小学校では欠食児童が多く、発育盛りの六年生男子の体重が、昭和二十一年当時、二八・三キロとの報告を見ましたが、昭和五十九年の全国平均三六・四キロに比べると、実に八・一キロも軽く、四年生の二九・四キロにも劣るひどいものでした。
次に、エンゲル係数(家計支出に占める食費の割合を現わす)が、北海道平均昭和三十年は四五%、昭和五十五年の勤労者二八%等に対して、昭和二十一年は実に七二%と言う高いものでした。
当時の米の闇値は、一升の公定価格二円八十八銭の時に札幌市では六十円にもハネ上るなど、諸数値から客観的に食糧危機の様相がうかがえるわけです。
尤も苦しい配給事情の対策として、一般家庭では庭先きの花畑を掘り返したり、猫の額ほどの空地も耕して、いも、南瓜何でも作って配給不足を補おうと努力しました。
町内会や職場の人達も共同で、鉄道用地や奥地部落で傾斜地のやせた不作付地を借りて、自活畑として耕すことに汗を流したりしました。
こんな食糧情勢の中で、農村には昔から、娘は町にお嫁にやりたいと思う人が多かったのに、こんどは、娘の一人は稲作農家に、もう一人の娘も食物関係の職業にと考えるようになりました。
砂糖の配給
砂糖は国内需要の大半を輸入に依存していたので、海外からの入手困難が予想される中で、早くも昭和十五年七月から切符制がとられ、一人一ケ月二四〇グラムに規制されましたが、それが年毎に減らされて、終戦の頃には配給は殆んど皆無になりました。
お菓子屋さんの店先からも、お菓子が姿を消し閉店に追いこまれたのです。そればかりではなく、調味料として使う砂糖や、人工哺乳児から病人用すら満足に与えられなくなりました。
軍政下の砂糖の生産目標は、全国の乳幼児、病人用として必要な五〇万トンでしたが、北海道のビート糖の生産は僅か四万トン弱で、とても需要に応えられるものではありません。これを現在の年間の砂糖の消費量四〇〇万トンに比べると、百分の一と言う微々たる状態だったのです。
重病人や人工乳児をかかえ、どうしても砂糖がほしい時には、公定価格の八十倍の闇値でやっと手に入れることが出来たのですが、米の闇価格が公定の十倍か十五倍に比べても、砂糖がいかに貴重品であったかわかります。
しかし、窮すれば通ず、農村では一般家庭で、ビートを煮詰めたり、麦芽と澱粉で水飴を作ることが行われるようになったので、砂糖不足感は大分緩和されることになりました。
酒類
お酒は、昭和十六年五月から配給統制が行われ、一世帯当り一ケ月酒四合、ビール二〜四本、但し冠婚葬祭については一回一升、入営、出征の場合は二升の特配がありました。
洒の配給は平等割でしたので、一たん配給を受けてから、ゆずり合ったり物々交換によって、ほかの必要品を手に入れる手段としたので、愛酒家にとっては有難くない結果を招き、いわゆる闇酒の横行となり値段はつり上がり、水増しのいかがわしい酒が現われたりしました。
終戦後のことでしたが、酒飲みたさのあまり、少し位は大丈夫だろうと思って、工業用や、試験室や理科実験室からメチールアルコールを持ち出して飲み、不覚にも命を落した人が道内には何人かありました。
こんなことから、窮余の策として「どぶろく」と言う密造酒作りが流行して、中には味も透明度も本物に劣らぬ逸品を造る名人クラスが現われて、いろいろな会合などで大量に必要な時には、予め名人級の人に醸造を依頼したものです。
たばこ
戦争のはじめ頃には、まだ、たばこ屋の店頭には一定量がおかれていましたが、昭和十六年頃から不足気配が見えはじめ、一人一個売りになったので、子供を買いにやったり、何軒も買いあさったりしました。
なお、昭和十五年十一月から、当時の大衆たばこ「ゴールデンバット」を敵国語追放で「金鶉(きんし)」に改称、箱のデザインも変り十本入り九銭で売られました。ところが、図案の金の鶉(とび)の下の弓と、下方枠角の菊花が空箱を捨てたとき、神武天皇を踏むことになって不敬に当ると言うので、昭和十六年に弓を取り除き、十八、九年には金色から褐色に、そして絵もトビだけの簡素なものになってしまいました。
また「チェリー」は「桜」に、「カメリヤ」が「椿」になったり、或は配給も隣組を通じて行われるなど戦時色が濃くなって行きました。
配給の当初は、吸わない人にも受配の権利があったので、たばこ好きの人には一層不足感が高まりました。
その頃、愛煙家達が次のような、たばこかえ歌を口ずさんだこともありました。

  「金鶉」輝く十五銭、栄えある「光」三十銭
  「鵬翼」高い五十践、紀元は二千六百年

巻きたばこがどんどん減って、刻みたばこが配給されるようになっていましたが、最後には殆んど皆無に近い状態になってしまいました。
禁煙を考えても果たし得ない愛煙家は、何か代用になるものをと種々試みましたが、結局イタドリの葉が広く愛用されることになりました。終戦後になってからは、巻きたばこを手軽に巻ける器械も考案されて発売されました。
イタドリたばこの味はどうであったか、玉蜀黍の毛よりは増しだったそうですが、いやに喉がらく、煙り臭い味は今でも、ほろ苦い思い出になっているのではないでしょうか。
なお、イタドリの葉については、小学生が動員されて大量に採取して出荷が行われたりしました。
マッチ
マッチは昭和十四年頃から不足が目立ちはじめ、先ず大箱の徳用から姿を消し、ついで食堂などのサービスマッチがなくなりました。たとえマッチを請求しても、たばこに火をつけてくれるが一箱全部はくれなくなりました。
昭和十五年六月から配給制度になりましたが、一日五本ではとても満足出来ません。それに質の低下でマッチをすっても不発になるものや、軸木の折れ易いものや、短かいものになって行きましたので、節約して大事に使うように心掛けました。
それでも足りないので、火種を絶やさないように炭火を灰に埋め大切にしましたが、その木炭も手に入り難くなって、家庭の主婦ばかりでなく、愛煙家にとっても深刻な悩みでした。
衣料の配給
戦前は化学繊維のない時代でしたから、外国依存度の高い綿花、羊毛、ゴム等の輸入が困難になると衣料事情は急速に悪化して行きました。
昭和十七年二月から衣料切符制度が行われ、大人一人の年間点数を、都市で一〇〇点、農村では八〇点と定められ、背広五〇点、婦人ワンピース一五点、ワイシャツ一二点、モンペ一〇点、手袋五点、足袋二点、くつ下一点、小幅織物一反二四点などとなっており、およそ戦前消費の四〇%を目標に決められていたのですが、戦争が長期化するにつれて次第に点数が削減されて、しまいには、実質戦前の二〇%まで需給が悪化しました。
その上、品物はスフ、人絹など粗悪なものばかりで、耐久性、保温性が劣るので、衣生活は極度に窮屈なものになりました。勿論古い衣料を再利用したり、タンスからよそ行き着物を作業衣におろしたりしましたが、なかでも切実なものは、補修用の縫い針が足りないのには、主婦たちは辛く情けない気持で一杯でした。
ただ、戦争末期から戦後にかけて、繊維資源として野生の、イラクサを採集したり、大麻を栽培して利用する生活の智恵も生れました。
灯火用石油
農村には電化が進んでいない時代でしたから、家庭のランプや畜舎や農作業用安全灯に必要な石油は配給を受けなければならなくなりました。
はじめの頃は二戸に一ケ月一升でしたが、次第に減って一合も来なくなってしまったのです。石油類は国内のストックしかなかったのでしょうから、止むを得ない措置でしょうが、国の方針としては家庭の灯火用を削って、農産物の脱穀調製用として、田畑面積を算定基礎にして一ケ月に一升か二升ずつ農事組合を通じて配給になりました。配給を受けた農家では貴重品扱いをして貯え、発動機を動かすことにしましたが、経営面積の少ない農家では、脱穀は足踏式や人力で行ない、石油はランプや安全灯用に転用することにしたのです。
家庭用ランプの石油の代用には、ローソクが配給されたりしましたが、とても必要量を満たされませんでしたから、部落に居住する非農家の家庭が一番暗い生活をおくったのでした。尤も市街地に住む電灯家庭でも電力不足による電圧の低下は、所謂、ローソク送電になったり、時には、線香送電と言って、電球のありかが分るだけで照明の用をなさないこともありました。
暖房用燃料
都市も農村も暖房用燃料は石炭が主体でしたが、軍需産業の原動力も石炭ですから、満州事変以来それまでの二倍以上の出炭計画が樹てられましたが、日中戦争に入って昭和十三年九月には、「石炭配給統制規則」の公布となり、次第に民需が抑制されて配給量ばかりでなく、質も低下の一途をたどりました。
むかしのような良質の薪の入手は出来ないのでしたが、雑木林の持ち主は柴木の伐採をしたり、水田農家では籾ガラを利用して、大分不足分を緩和しましたが、真冬になって火力の弱い低質炭に依存した家庭では大変苦労しました。良質炭を焚きつけに使って着火しても、ズリ炭を砕いたような低質炭は、単に赤くなるだけで煙も出ない、無煙炭ならぬ燃えん炭だったのです。
そこで、低カロリー炭が利用出来るルンペンストーブが登場したり、籾ガラ専用やオガクズ専用ストーブが考案されて発売されるようになって大分助かりました。
道の統計によりますと、昭和十九年の家庭用炭必要見込量二四五万トンであったのに対して、実際に配給出来たのは、六〇%に当る一四五万トンに止まったのでした。
靴とゴム製品
皮革製品は、軍需用として絶対欠かせない関係から、昭和十五年八月に早くも切符制が採用されました。そして、同じ頃から代用皮革製品も出廻りはじめましたが、靴底にボール紙が挟み込まれたものまで現われる始末で、耐久力がないので一般からは嫌われました。
たとえ、本革だと言っても牛革はなく、豚革か、鮫革でしたから、今日のような化学繊維のなかった時代だけに、大変不自由を感じました。
ゴム製品についても、天然ゴムを産しない我が国では、戦争中は原料ゴムは民需にはまわらず、専ら再生や人造ゴムが使われるようになりました。
ゴム長靴、ゴム短靴、学童用運動靴、さては地下足袋も質が落ちて、すぐに駄目になってしまいましたので、国民学校では夏には下駄が復活したり、裸足の子供も現われました。
そのほか、自転車のタイヤ、チューブをはじめ、ムシゴム、ゴム糊、ヤスリまで粗悪品ばかりで、タイヤがひび割れしたり、チューブも弱くてパンクの連発につながり、一度パンクを修理しても、同じところからまた空気が漏れるので、安心して自転車にも乗れない時代が大分続きました。
釘その他
住宅、納屋、畜舎、農業機械、器具、馬車、馬橇などの修理、補修に当って、最少限の資材で効率的なものは釘ですが、その釘さえ手に入らなくなりました。
配給もありましたが、名ばかりで一本ずつ数えての微々たるものでしたから、古い曲り釘を伸ばしたり、節約出来そうなところから抜き取って使ったり、また、なるべく短かいもので間に合わせたり、或は少しでも本数を減らすことに心掛けましたが、それでもならなくなって、釘無しのわら縄での応急処置ともなりました。釘ばかりでなく、針金、金網、戸車、チョウツガイ、カスガイなど金偏のつくものは一切姿を消してしまいました。
金属製品その他の供出
国は、軍需資材の確保と、併せて国民の戦時意識の昂揚強化をねらって、昭和十六年八月に金属回収令を公布して、全国的に供出運動を展開しました。
指輪など貴金属の装身具は勿論のこと、古銭から使用中の火鉢、鉄びん、やかん、アルミニウムの弁当箱まで供出しました。
このような家庭用品ばかりでなく、公園など公共施設の柵、ベンチから、神社やお寺の神仏具までがその対象とされ、梵鐘、鳥居、銅像もすべて撤去することになりました。
金属の他、綿や、ふとんから、毛布など毛織物、皮革、毛皮も進んで供出しました。
また、各家庭で半ば愛玩用として飼っていた家兎を、軍用兎として繁殖することが奨励されて、軍の防寒衣料として本町からも、毎年何干匹も納入しました。
しまいには、犬や(軍用犬だけでなく)猫も供出の呼びかけに応じて出征させました。
国民義勇隊の結成
戦争遂行のためには色々な組織がありましたが、昭和二十年六月これらの一切の団体を解散して国民義勇隊一本にしぼられることになりました。そして乃木将軍の詩の「山、川、草、木、転、荒、涼」の一句を各町村に配して隊名にしたのですが、上富良野は「山」部隊と命名されたのです。
この隊は軍用道路の工事出役と言われていましたが、実際に手をつけたのは、ほぼ、旭川〜浦河線で南富良野〜占冠〜日高を結ぶ山間地帯の拡張工事であったようです。
昭和二十年六月二十三日に公布された義勇兵役法には、十五歳以上六十歳以下の男子、十七歳以上四十歳以下の女子が、国民義勇戦闘隊に編入され、国土防衛の任に当ると言うものでした。
この他に、戦時教育令が昭和二十年五月二十一日に公布されて、全学校、職場に学徒隊を結成することが義務づけられたのでした。
国債割当購入
戦費調達のために、国では国民の理解協力を求めるために、種々な手段が講じられましたが、一番記憶に残っているのは、昭和十七年頃から始まった国債の割当購入です。
一円、五円、十円券があって、証券の図案は大砲飛行機、戦車などの絵が用いられていました。その国債も敗戦後インフレーションによって貨幣価値が下り、ゼロにも等しくなったので、償還期限が来ても現金に代えることもなく、小物入れの底に眠ったままで終ってしまいました。
このほか、俸給生活者の場合、雇傭者が給料支払に当っては、二〇〜三〇%の天引き貯金と言うのや郵便局の簡易保険などの加入も、国民は当然の義務のように考えて、家族全員加入を行ったのでした。
終戦の日の思い出
私達は、終戦の日昭和二十年八月十五日は早朝五時から、東中国民学校校庭において、国民義勇戦闘学校隊、東中中隊の編成完結式並に戦闘訓練が男女合同により開催され、郷土防衛の使命を担って立ち上ったのでした。当日、午後も終戦を知らずに第一小隊の竹槍訓練を、東七線北十七号道路上で藁人形を使って男女合同で実施の最中、当時、少年隊伝令として久保田英市隊員が来て、「本日正午戦争が終った」との本部からの通告を口頭で、私達青年隊員に伝達したのです。
全員が涙を流し、その場で宮城を遥拝し、最後の「君が代」をあふれる涙をぬぐおうともせず斉唱し、その日は夕方散会翌日には幹部隊員が上富良野青年学校に緊急集合して、今後の対策を協議したのでした。
この時流した涙には様々な思いが秘められて、敗戦による虚脱感と、同時にこれでやっと平和が訪れると言う安堵感が、複雑に錯綜したのでした。
そして二度とこんな悲劇が起らないことを願ったのですが、今日になって当時を思えば万感胸に迫るものを禁じ得ません。
昭和六十年八月記

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷  1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一