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軍用保護馬普通鍛錬と指導員

平塚 武 大正十三年六月三日生(六十一才)

軍用保護馬普通鍛錬指導員のことについて書くように依頼を受け、当時指導員をなさっていた林寅一さん、橋本公也さん、升田武夫さん、塩田義虎さんなどから御協力を頂き乍らまとめてみましたが、四十数年も経過しており、記憶洩れの事項もあることをおことわりしておきます。
私が上富良野村役場に奉職したのは、昭和十六年八月一日で馬籍係を命じられました。(現在の農政課畜産係である)
当時の村長は金子浩さん、助役は本間庄吉さん、産業主任は北川与一さんでした。私は北川与一さんの配下で、直接指導していただいたのが安井敏雄さんでした。戦時中であり、馬は軍の兵器という扱いもあって、軍関係の事務を担当している兵事係と共に、役場内の仕事では大変重要とされていました。それだけに事務量も多く、残業することが多かったものです。
(1) 軍用保護馬指定
昭和十二年頃に軍馬として購買された馬が、馴致不十分のために実戦に於て役にたたず、大変苦しんだ軍では、昭和十四年軍馬資源保護法を制定し、軍の動員上必要とする牡馬、幼駒を軍用保護鳥に指定して、これに適切な飼養管理と不断の鍛錬を加えて軍馬資源の充実を図ることになったわけです。
村内に飼育されている馬は約千四百四十五頭でした。毎年実施される軍用保護馬の定期検定検査のための検査台帖を作成するわけですが、赤と青のインクしか使用出来ず、しかも三日間徹夜で作成させられたときは過労のため、目が疲れ字が見えなくなったことがありました。検査は上川支庁から松田貞次郎畜産技師及び上川畜産組合の七戸理三郎技師など十名が来村し、家畜市場(現在の中央保育所及島津野球場敷地)で実施されたものです。
検査の結果、軍用保護馬に指定された頭数は三才以上約八百五十頭で、軍用保護馬と優良牝馬の優、良に区分指定されたもので、この指定区分に従って検査台帖と馬籍にその旨、赤ゴム印で押印し整理したものであります。
道内各家畜市場(大楽毛、北見、十勝、池田、厚岸など)で購入する二才馬でも、軍用保護馬候補馬に指定されている場合一級なら六百五十円、二級なら四百五十円、特級は八百十円、優良牝馬の良は八百五十円、優の場合制限なく高い価格で売買されました。
(2) 軍用保護馬普通鍛錬指導員
軍用保護馬に指定された馬は、在郷軍馬として各部落の学校のグランドや、提供された私有地及び家畜市場で月二回、一日と十五日、夫々指定された場所に集合し、午前中約五時間指導員の指導を受けたものです。
私も係として各部落を月別に巡回して、指導や訓練の状況を視察し、激励やら出席簿の整理事務の手伝いなどを致しました。
話はそれますが、近衛騎兵でありました故伊藤富三さんが、馬籍係は乗馬が出来なければ一人前とはいわれないと、親身になって私の乗馬の指導をして下さいました。おかげで職責を果すことが出来たことをほんとうに有難く思っています。
鍛錬の指導内容はまず集合した鍛錬馬が (イ)一列横隊に整列 (ロ)指導員に対し敬礼 (ハ)点呼(出席の確認) (ニ)前進 (ホ)後退 (ヘ)右廻り (ト)廻り (チ)速歩 (リ)馴致(接触の馴致、肢あげの馴致、引き馬、静止の馴致、装蹄の馴致、馬添及び離列の馴致、鞍の馴致)等が行われました。
鍛錬指導員には騎兵、砲兵などの在郷軍人や特に馬事に熱心な方の中から、各部落単位に選んで村長が委嘱したものです。又指導員には左肩に馬の顔のマークのついた制服とバッヂが支給されておりましたし、手当として年二十円程度が支払れていたようです。
各方面別の鍛錬指導員は次の方々であります。
清富・日新  対馬政太郎  佐川 清男  小泉 字一
草分    篠原藤一郎  前田 力蔵  北村 亀一  高士 茂雄
      吉沢 春男  吉田 清治
里仁    菅野 忠夫  長沼 正春
静修    遠藤 豊治  遠藤 末蔵
江幌    近藤 政雄  安達 芳雄
江花    松田 佐市  升田 武夫  高橋吉之助
日出    橋本 公也
市街    伊藤 富三
島津    本田  茂  細川 覚助  西村  栄  細川 勘七
      金山 一郎  谷  与吉  北川 春吉
旭野    林  寅一  道井 義房
富原    堀江 小市  大場 定二  岩崎 与一
東中    南 米次郎  南 繁次郎  塩田 義虎  島田 良友
      江森 孝一  実広 清一  天白 竹夫  高橋 隆信
      反怖伊太郎
(戦時中のため応召により異動が多く記憶洩れのあることをお許し下さい)
(3) 馬事訓練所
鍛錬指導員の養成機関として登別町中登別に馬事訓練所が設置されて、人馬一体の訓練が行われました。この訓練所の入所は各市町村毎に人員の割当があって、全員が順番に入所することになっておりました。
訓練所の施設は、木造二階建延八十坪の宿舎と三十頭の訓練馬に、厩舎、馬事訓練のための原野約十町歩でした。訓練所の職員は所長一名、教官三名、畜産技師二名、女子事務員二名、用務員数名で、一回に入所する指導員は三十名でした。
訓練所の日課は起床午前六時点呼、馬に飼料を与え、午前七時朝食(軍隊と同じもの)、午前中は馬の飼育管理に関する学習、昼食、午後一時より乗馬訓練(実技教育)、午後五時夕食、午後九時就寝というところでした。
村から訓練所に入所された指導員の方に思い出をお聞きしますと、所長は陸軍少将従四位勲三等の小堀是繁閣下で、馬術に優れ軍隊同様、厳しい教育が行われたことと、特に訓進号という手のつけようのない荒馬に乗馬させられたときの苦労が、忘れられないとのことでした。
(4) その他軍用保護馬に関する行事
@ 鍛錬馬の競技として毎年七月に家畜市場において馬術競技会が開催されました。競技種目は一定の位置に鞍を置いてあって、その鞍を早く馬につけて走るものや、伝令競走、二百m速歩競走、障害競走などでしたが大変盛況なものでした。

A 二月には雪中鍛錬競技会が行われました。東一線北二十四号から東二線に向けて新雪の中を一チーム乗馬五頭、馬そり十頭の十五頭編成で直径十五p長さ四mの橋材十本を馬そりに積んで、定められた位置まで来たらいかに早く橋材を並べその上を渡るかの競技で、一位が赤、二位が黄、三位が紫の旗が渡されます。この競技に出場するのは全町から優れた鍛錬馬を集めて三チームを編成して競技するもので、実に壮観でありました。(場所は現在自衛隊駐屯地のあるところ)

B 上川管内鍛錬馬競走大会が旭川競馬場で開催されました。この大会に出場出来る馬は、上川支庁松田畜産技師が検査し出場を指定するもので、当村からは、青柳寿郎氏飼育の出征号栗毛八才が出場し見事第一位に入賞し賞状及び軍刀を授与され、又、北海道代表として興亜馬事大会にも参加するなど大変名誉なことでありました。

C 鍛錬馬一斉検閲が毎年九月頃実施され一町内会から八町内迄整列し、各班毎に指導員の号令により検閲を受け検閲官の講評が行われました。

D 馬事思想普及のため映面会も行われ「聖戦愛馬譜暁に祈る」を東中小学校で上映し大きな感動を与えました。
参考資料
資料一 馬車訓練所長から訓練生に投与された修業証書
資料二 訓練指導の成績優良な者に北海道庁長官から授与された賞状
資料三 馬車振興に功績のあった者に上川馬匹組合長から授与された感謝状
資料四 昭和十七年秋季旭川鍛練馬競走に入賞した出征号(青柳寿郎氏飼育馬)の賞状
資料五 昭和十六年興亜馬事大会の参加賞

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷  1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一