郷土をさぐる会トップページ     第05号目次

憶い出

白髭 一雄 大正二年三月二十九日生(七十三才)

私は白髭孫四郎の長男として、上富良野村に於て生を受け幼年時代を過し、大正八年春両親と共に大阪市に転居、同地で小学校に入学、昭和六年北陽商業学校を卒業、昭和八年上富良野村の祖父猪三郎の元に単身帰り、八月から江幌小学校で教師として勤務、昭和十年六月一日から上富良野村農会に奉職、昭和十二年二月十七日村役場に転職、勧業係、教育衛生係、庶務係として勤務しました。
昭和十二年六月九日、現道議会議員西尾六七氏が当時上富良野村役場の庶務主任として発令赴任され、私は部下として勤めることになりました。
西尾主任は非常に町村事務に堪能な方で公文書の処理、特に文書の決裁等について徹底して指導されました。私も部下の一人として指導を受けた事が、生涯の公務員生活に大きな力となった事を今尚感謝しています。昭和十五年八月八日戸籍主任兼兵事係を命ぜられ、翌昭和十六年七月八日に兵事係主任兼土木係を命ぜられました。戦事中の兵事の業務は増し、輻輳を極めており、その中で慰問にいった時のことを記述します。
背に食い込む程の重い慰問用の羊羹を背負った谷さんと私を含む五名が、上富良野駅頭に集合したのは、秋の気配漂う昭和十八年八月二十九日でした。
銃後の護りの充実に心を砕く金子村長の、上富良野村出征兵士の方々に心から感謝し、村の近況を伝えたいとの思いを受けての旅出ちでした。
当時、樺太、敷香町(シスカ)に守備隊として、当村出身者百名程が駐屯していたからです。
一行は村長を始め、国防婦人会々長金子シナさん、副会長土田カネヨさん、在郷軍人会副分会長谷与吉さん、そして兵事主任の私の五名でした。
当時としては貴重品の羊羹を、堀井菓子店に特別発注(普通の倍の大きさのもの)したものを一二〇本土産に用意し、いささかでも故郷の味をかみしめて頂こうとの思いでした。樺太へは、稚内から一日一回大泊行きの連絡船が出ていました。
八月三十一日夕方、大泊桟橋に到着、桟橋は堂々五、六町もあったと思います。桟橋から見える景色は、小高い丘が切り崩され、赤土と低い樹木、草等の緑色と、海岸にはコンクリートの建物や赤い屋根が姿を見せて、港町の美しい調和を保っていました。
又驚いたことには、上富良野より一ケ月も遅い馬鈴薯の花が、今を盛りと咲いていました。
大泊から、豊原に行きましたが、豊原は樺太庁のある市で区画整理の整った、立派な町でした。
目的地の敷香町は、人口三万人程で、凍土地帯の為、材木に関する仕事が町の主な産業でした。
そして部隊は上敷香に置かれていました。
翠朝、私等は部隊に行くと、上富良野出身の菊地さん、井下さん、岡崎さんが出迎えてくれました。三人の案内で、部隊の集会所に向かうと、一五〇人程の兵隊さんが我々を熱狂的な拍手で迎えてくれました。その人等は上富良野出身者だけでなく、親戚、知人が、当村に住んでいるだけの人や、上富良野に住んだことが有る人達迄、集ってくれていたのです。
皆さんは、金子村長の話を食い入るように聞いていました。村長は、皆さんの一人一人に、親兄弟の近況を知り得る限り語りかけ、又、上富良野村民の期待に応えるべく努力願いたい等々、その時の言葉情景は今でも記憶に新しいものがあります。
部隊に許された面会時間は、懐しさと感動のひとときとなりました。我々は彼等の手をとり、一人一人に「ガンバッテ下さい」「身体に気をつけて」と又「きっと、再び上富良野に御無事で帰って下さい」と、万感の願いを込めて武運長久を祈願し、つきぬ思いを残しながら、皆さんの見送りを受け部隊を後にいたしました。
帰りに、我々は「オタスの杜」と呼ばれる敷香原住民教育所があると聞き、視察させてもらいました。
樺太の原住民は、オロッコ・ギリヤーク・キーリン・サンダー・ヤクートの五種族です。その大部分はここに集って定住生活をしていました。オタスは川が幌内川と敷香川に分れる三角州の砂丘地で、地形的には島のようになっていました。
学校は「敷香土人教育所」と称し、子供等は新しい生活様式と文化にふれ、日本人教師に憧れと信頼を寄せて、勉学に励んでいるように見えました。
教育所の教育目標は、彼らに原始以来の遊牧生活をやめさせ、食物を生産し、規律的な生活を教え、立派な日本人に育てることですと、情熱を傾けていた校長先生の姿が印象的でした。
部隊での慰問で見た、兵隊さん達の切実な思いをこめた眼差し、土人教育所で我々に熱っぽく語ってくれた校長先生の言葉等々、最果ての地で得た数多くの貴重な印象を胸にして帰路につきました。

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷  1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一