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市乳の始まり

加藤 清 大正八年一月二十六日生(六十七才)

我が町の市乳の始まりについて古老のお話しや、文献、特に海江田武信前町長より生前お伺いした処に依り、乳牛を飼育した本間牧場の状況から記述します。
本間牧場は富良野市布礼別を中心として、明治三十四年二月初代本間豊七翁が未開地四千町歩の貸付を受け、明治三十六年始めて小作者数名を入地せしめ、本間牧場と称して拓き始めたものでした。耕作面積千四百町歩を有し地味頗る肥沃にして畑作農業に適し、また水利の便もよく、数百町歩の牧野適地も含んでいたため混同農業適地として、富良野唯一の地域であった。
当時、馬二百数頭、乳牛三十余頭を飼育していて上富良野村にも第二本間牧場を保有するなど、その規模の程度は、古老の語りぐさに出てくる本間牧場は七里四方とも言われて、その面積の広さがしのばれます。此処で言う第二本間牧場は今の富原のホップ園の処に、事務所、畜舎等があり、乳牛も十余頭飼育していました。この牧場で働いていた方で、松井武雄さんは空知農学校獣医科の一期生で、毎朝牛乳を缶に詰め市街地迄運び個人に分配していたと海江田元町長さんから聞いております。海江田さんは獣医科の七期生で、小学校の三年生か四年生の頃であると話されていました。推測しますと明治四十年か四十一年頃の事ではないでしょうか。
松井武雄さんは、鷹栖で装蹄師を兼ねて獣医師を開業されていましたが、昭和二十二年十二月二十五日の農業災害補償法の制度に依り、数年後の昭和二十六年一月八日から三十七年三月三十一日迄、農業共済組合の獣医師として勤務されていました。退職後は旭川市に転居、昭和四十二年八月十一日ご逝去なさっています。
松井さんが鷹栖で開業されていた頃、現在役場職員樋口康信氏の父君義雄氏は彼を師として蹄鉄の技術を修得され開業された事もあり、本町に縁のある方でした。
大正三、四年頃になってからは、宮町に居住されている伊藤勝次さんが小学校四年生の頃、富原の本間牧場から毎日お姉さんと一諸に生乳を運び、夜の中にサイダー瓶に詰め翌朝お兄さんと二人で区域を分けて配達したと聞いています。
その後故三枝光三郎氏が今の藤田モータスの処で居住され、エアーシャー種の乳牛を飼育、毎日天秤で牛乳を配達していたと言われています。
更にその後現在の本町公園の処で、聞信寺先代住職故門上浄照氏の実弟盛さんが乳牛を十数頭飼育し、生産した生乳を市乳として広く販売していたと古老の方より聞かされています。開設の年代は、次の四名の方及び門上信子夫人のお話しを総合判断しますと大正九年以前と推定されます。
前町長の和田松ヱ門氏によると、和田さんの家で水車を動力として精米をしていたのは大正六年からで、大正九年三月小学校を卒業した年には、門上牛舎で働いていた関利八氏(北栄区の葛本武さんの父君)が麸、米糠等を飼料として運ばれた事を記憶しているとお聞きしました。
及川熊夫さんによると、彼の実家が今の小玉病院の処で杉山九市氏の果樹園に居住していた頃、関さんが天秤で牛乳を配達しており、その帰りにオカラをおいていったことを小学生二・三年の頃でよく知っていると話されています。
又、錦町に居住している本間庄吉さんは、大正十年六月一日富良野警察署東中駐在所に赴任した年、門上牛舎より牛乳を買って飲んだと話されていました。
現在留萌市住之江町で南町ペット診療所を経営しておられる久保森義氏(中富良野町久保栄作氏実弟)は、大正十一年三月高等学校を卒業後、門上牛舎で一年勤めたと話されています。氏は大正十二年四月十勝農校獣医科、東京麻布獣医学校に学び獣医師となって各地で勤務、昭和二十二年満州国より引き揚げ後中富良野村で十三年、豊富村で約十年勤務され、現在前記の処で開業されています。
門上盛氏は大正十三年春転業され乳牛は全部、日の出の浦島与三之さん父君与一郎氏が引き受け、昭和四十年代まで飼育されていました。
以上の通り本町の市乳は、明治時代から先人の苦労に依り、幾多の変遷を経て事業が引き継がれ、今日に至り町民の健康管理保全の為貢献しています。
今では酪農家も熱心な方のみとなり健全な経営がなされ、消費者も安定した供給を受けていますが、家畜を飼育することはご苦労が多いわけです。基幹産業の中で大きなウエイトを持つ酪農の伸展に尚一層の御活躍を期待いたしております。

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷  1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一