郷土をさぐる会トップページ     第05号目次

日新ダム完成迄

仲川 善次郎 明治三十四年二月五日生(八十五才)

私は三重県志摩郡阿児町国府に生れ、高小卒業後家業の手伝いをしていた。
伯父に当る仲川源之助が、先に郷里から中富良野に移住していた山川喜平さんが北海道で成功していると言う話を聞き、大正六年に現地視察に来道、其の時共同で三戸分の土地を買って帰ったのである。
大正七年の春、伯父は三男と共に渡道したが、中富良野の泥炭地より上富良野の土地がよいと言うことで、西二線北二十七号、現在の西小学校と其の隣りの一戸分約十町歩の土地に入植して水田と畑作の経営に当った。しかし、当時は未だ全部の開墾も出来ておらず、初めての水田経営であったので労力不足に困り、応援を頼むと言う事で、私は同年七月に移住し、農作業に従事し全面積の開墾を終った。
大正九年の秋、将来水田経営農業で一家を立てる事を決意して何ケ所かを視察して歩いた処、現住所である元島津家農場の土地が小作権利を売りに出していることを聴き、早速島津農場の事務所にお伺いいたし、管理人の海江田信哉氏から種々農場入地についての規程を承り、入地の了解を得た。
大正十年春早々引越しをしたのだが、開拓当時から島津家農場に入地するには、契約書がない代りに条件として、次の三つを誓約させられた。

 (一) 国法を犯す者
 (ニ) 納税の義務を怠り小作料を納めない者
 (三) 組内の平和を乱す者

以上の三項目を守らない者は退場を命ずるという厳しい規程である。私が入地した頃には既に七十戸程の小作人が住んでいたが、本当に親切なよい人の集りだと感じた。
大正七、八年頃は造田熱の盛んな時代であったが、其の頃農場も用水の取り入れられる処は殆んど造田をして一時は市街宅地の近く迄造田した。
しかし灌漑用水の不足から下流農民からの厳しい取水の制限を受け、不安のうちに辛じて営農を続けていた。
特に大正十二年七月は、連日の好天のため富良野川の水が極度に涸れ、下流の中富良野側から約三十有余人の農民が富良野川本流にある各水門を破りながら、次第に上流に向い遂に三十二号の堰を破り、そこに野宿をして徹夜で番を始めるという事件が起きたのである。
この状況を見た草分上富良野側も続々と三十二号の水門に集り、下流側の破った堰を直し水を止め、大声を張りあげながら破れるものなら破って見よと相手方に石を投げ合ったと聞いている。
後に言う三十一号の石合戦騒動記も、今は知る人も少くなったと思うが、このような状態が灌漑用水の不足から繰り返されており、これ等の争議の原因は急激に進んだ富良野沿線の開拓開田がもたらした困った問題であった。
当時島津農場の管理人は海江田信哉氏で実に立派な方で、よく小作人の面倒を見ていた。
更に小作人の営農指導を始め、用水路の建設計画、営農資材肥料の協同購入等に至る迄よく心を配られこれ等に要する資金についても小作人に積立を奨励した。更に島津農場組合を組織して自ら組合長の大任を引き受けられ、小作人の中から三人の理事と二人の監事を選出させて運営に当らせた。
其の後先代の後を継がれた海江田武信氏も、よい指導者であり良い管理人で、私も青年時代から島津農場組合の理事に今は亡き北野豊氏、北川清一氏と共に選ばれ、魚粕や化学肥料の買入れや配給、其の他営農物資の協同購入や整理事務等海江田管理人の指導の下で活動しており、其の成果も年々上昇しておりました。特に大正十四年は水稲は豊作でしたが、しかし其の喜びも永くは続きませんでした。
大正十五年は、我が町にとっては大きな厄年でした。十勝岳の大爆発により日新部落を始め草分地区、日の出地区、島津地区が大災害を蒙り一時は復興も危ぶまれましたが、時の吉田貞次郎村長の御指導よろしくを得て、現在立派に復興されました。先頭に立って御指導下さいました吉田貞次郎先生の御功績は真に大きいもので、町民として永久に忘れてならない実績と思います。
爆発後農地の復興は出来ましたが、稲作に大切な灌漑用水が極度に酸性化いたし、水量も爆発による富良野川流域森林の壊滅等によりまして一層減水が甚だしくなり、其の対策として種々試験研究を行いました。
災害地については試験圃を設置し各作物の生育試験、一般水田に於ては石灰施用試験、施肥量の試験、其の他客土事業の実施、暗渠排水事業施行等によりまして、辛うじて営農を続けていた程度であったと思います。
この度編集部より日新ダムについて書くよう依頼されましたので、ダム完成迄の関係者のご苦労と御協力下さいました方々の愛郷の精神を皆さんに知っていただく事は意義深いことと思い記述いたしました。
土地改良区以前の組織
富良野地方に於ける水稲栽培の元祖となった人々の造田も、其の時点では皆、無願引水による造田であったが、これ等の先覚者の試作を見て大いに心を動かされ造田した人々の場合も、水利権を取って造田を始めたと言う人は少なかったようで、尤も其の当時は未開の原野で原生林であり、草原であり、何処からともなく流れている流水を導いた造田が多かったようである。
だんだんと造田が多くなるに従い河川から引水するようになったが、この場合も原始河川なるが故に水位が高く、水門を造ったり堰止めをしなくともよい場合が多かったが、開拓が進むに従って各河川の水位も低下し遂に堰止めが必要になり、更に増水時の水害防止のため水門が必要になってきた。
そこで開拓当時の各個人別々の引水による造田から、次第に集団化して共同の取入口と灌漑溝が造られるようになり、何々用水組合として水利権をとるようになった。水利権をとらないで引水することは違法であり、権利がないと上流の用水組合や対岸の用水組合、更に下流の用水組合等に対する論争の場合常に不利であると言う事もあって、明治四十一年頃から大正の初期に入っての急激な造田熱の高まりと共に、水利権の申請も多くなっていた。当然のことながら、用水の不足によって紛争も絶えなかった。
当地区に於ては明治四十一年富良野川用水組合が設立され、其の後大正十四年二月、現在の土地改良区の区域に属する各権利者協議の上、上富良野原野水田発祥の歴史を残すと共に今迄に出来ていた水田水利の統合を図るため、同月二十四日草分土功組合の設立を見たのである。
其の後法の改正により草分土功組合が組織変更され、昭和二十七年七月十日北組第一一三号によって草分土地改良区として認可された。農業経営を合理化し、農業生産の拡大を図るため、富良野川及びヌッカクシフラヌイ川其の他権利を有する各河川からの引水に伴う灌漑施設の維持管理をすることが認可の要件だった。
私も改組以来田中勝次郎理事長の代理理事として土地改良事業に携わって来たが、特に当地区として一番に困っている不足用水の問題と強度の酸性用水を真水に切り替える方法について、種々研究と検討を重ねたのである。結果最終的には下流地域については金山ダムより水を引くことにより、上流についてはピリカフラヌイ川の上流にダムを建設して全地域真水に切り替える方法が認められたのだが、其れ迄に至る過程は中々容易ならぬ苦労の連続であった。
鉱毒水の調査
大雪山国立公園の連山である十勝岳は、前述の通り大正十五年五月二十四日の大爆発で、開拓営々努力して拓いた美田沃野が一瞬にして荒野と化し、其の後三十年この土地に住む人々が涙ぐましい努力を重ね施肥量の研究、栽培技術の改善等に勉めたにも拘らず、四半世紀以上の歳月を費やしても依然として減収、秋落ち等の現象が甚だしく、其の上外面に現れる損害も相当大きなものがあった。
鉱毒水による主な損害の内容を列記すると

  イ、施肥量が他の地帯より多くを要する
  ロ、農機具の腐食が早い
  ハ、真水灌漑地帝より経費が多くかかり、収穫量が少なく、其の差は反当り
    一俵から一俵半程度の差がある

以上の悪条件を改善するため町を挙げての要望により、幾多の専門家によって之等改良の方途が探究されたのである。
秋田県玉川の毒水処理場の視察
昭和二十八年十月、開発局の紹介で秋田県の玉川の毒水処理の状況を田中町長さん等と視察を実施した。
簡単に説明すると地下浸透法というもので、地上に二米角位の枡形の枠を作り、中に割石を詰めてその上に毒水を流し込み、地下に浸透させることにより四、五〇〇米下流の谷に流れ出る地点で真水に変るという。説明は秋田鉱山専門学校の三浦彦次郎教授から受けたのだが、玉川は毒水の量も少なく、湧出の個所も少ないので容易に処理されていたが、この方法を十勝岳の安政火口周辺で活用する事は地質的にも困難の様に感じてきた。
その後三浦教授は上富良野に来られ、ヌッツカクシフラヌイ川の現地を調査されて帰られた。
泥流地帯の調査
食糧増産の時代であり、上川地方開発期成会も昭和二十八年以来戦後の混乱から立ち直って、この山麓こそは終生の楽土たれと悪条件を克服し新しい農業計画を実現せんとする農民の意志に応え、北海道嘱託専門技術員猪狩源三氏に依り泥流被害土壌に関する二ケ年に亘る現地調査が行われた。採集土壌の分析等を行い、其の報告書は昭和三十年に発表された。更に研究が進められ昭和三十二年二月第二報が出された。
其の後、農業専門技術員千葉登氏他地元農業改良普及員各位の献身的な努力によって、昭和三十七年二月十勝岳泥流地水田の土地改良並に肥料試験調査報告書が第七号として発行され、最終的なものが纏ったのである。
鉱毒水処理促進期成会の発足
草分土地改良区に於ては、改組以来鉱毒水灌漑のため年々荒廃して行く水田対策と、更に用水不足になやむ下流農家対策として種々検討を続け、最初に北海道農地開発部加藤勇太郎課長に事情を具申し其の対策について陳情したのである。
課長曰くには、畑地に還元しては如何かと。しかし、熱心に私の説明を聴いてくれるので一抹の明るさを感じ、早速関係者に計り同意を得た。
昭和二十九年七月十二日上富良野公民館に於て、鉱毒防止促進期成会設立総会を開催し、フラノ川水系より二〇名、ヌッカクシ水系より十五名の委員を選出し、第一回の委員会を同月十八日に開催、役員の選任を行い、期成会長に田中町長、副に私が選ばれた。更に下流中富良野側も先に期成会の設立を見ていたので、統一運動機関として連合期成会をつくり、中央官庁に対して陳情運動を展開する事になった。
早速草分側より田中理事長と仲川、中富良野側より松藤理事長と堅田庄太郎氏と東技師が陳情のため上京し、農林省、開発庁、大蔵省と陳情して廻ったのである。当時はまだ終戦の傷跡が残っていて、大蔵省も仮庁舎で開発庁も粗末な庁舎建物であったが、幸い石川先生が参議院議員に出ておられたことから案内をして下さり、大変陳情は良い結果であったと思われた。其の後農林省の酒倉技官が現地調査に来町され、河川の水質の調査から飲料水の調査等をされたのが、この事業についての調査の始めであった。
北海道開発局に於ても其の後毎年調査費等が計上され、各種工法が計画され研究が進められた結果、次の方法が検討され意見が纏められた。
(1) 原流を地下に滲透させる方法
 この方法は区域が広くヌッカクシフラヌイ川の全量を地下に滲透させる
 事は出来ない
(2) 石灰岩の中を通水し石灰岩の溶解により中和する方法
 この方法は十勝岳の場合降雨毎に石灰岩の周辺に雑物が附着して溶解を
 困難にするので適用出来ない(試験の結果)
(3) 石灰使用と投入による酸性の中和
 この方法は費用、施設の面で長期に亘り連続使用することは因難である
以上何れの方法も不適当と言う事に識者間の意見も一致を見るに至ったので、鉱毒水は使用せず放流し他に水源を求めることになった。 そこで関係者の方々には誠に申訳ないが、日新地区にダムを建設する事が最善の方法と言う結論になり、用地関係者の御理解と御協力を得て、開発局により調査が始められた。調査が進むに従い、事業の規模から見ても事業促進のためには両町の自治体も其の一員として参画すべきであるとの見地から、各機関の役職員も参画することに決定、人選も成り強力な連合期成会が発足を見たので爾後促進運動は怠らなかった。
水没者並びに関係住民の協力
計画調査段階では清富のピリカフラヌイ川の水を貯水することになっていたので清富地区と呼称していたが、いよいよ本決りになるとダムの位置は日新地区になるので、関係地区の方は父祖の血と汗で開拓された土地を離れることはしのびないが、公共の為と決意された水没者各位並びに地域住民の心を永久に讃えるため、爾来事業関係総べての書類は日新ダムと変更し、委員会も日新ダム対策委員会として発足することになったのである。
昭和四十一年一月二十一日午前十時から上富良野町役場で水没者二十六名、旭川開発建設部安井部長、中野上川支庁長をはじめ関係者多数列席のもとに、水没補償関係基準書の調印を行った。
この調印のかげには定住地を失う水没農家の.事情もあるので、中野上川支庁長からその善処方を要望され、上川支庁民生課は各機能を動員して残留する部落民に対し、暖かい思いやりをもつべき事を強調したため、その後の補償業務も円満に処理された事は水没者二十六名(氏名は町史に登載されているので省略)並びに関係住民の御協力の賜で感謝に堪えない次第であった。
国営総合かん排富良野地区との関係
鉱毒水処理と補水事業の促進陳情が進むに従い、開発局は既に事業実施中の国営総合かん排富良野地区の事業を一時中止することになった。其の理由は清富にダムを建設しても尚用水が不足で、不足用水は金山ダムによるより他にないからである。富良野地区総合かん排事業計画では灌漑用水路に余裕がないので、鉱毒水事業が採託された場合、計画変更が必要になるので、一時中止は止むを得ぬ処置と言うことであった。
このような事情もあったので、下流の鉱毒水処理事業については農林省、開発庁合議の結果採託される事になり、陳情に上京していた私共五人と関係官庁の方々との手打ち式を、昭和三十四年二月二十二日行った記憶は今も尚忘れないが、残っている人は私一人になった。
山手幹線の測量通水灌漑溝の設計の打合せが三十四年十月十六日、町役場旧庁舎二階で開かれた。開発局建設部からの説明があり、各責任者の計画に対する意見聴取会議により用水路線を決定したが、残念ながら用地所有者の反対で実現出来なかった。
鉱毒水事業の一部が採託されたことから、促進運動にも一層の勅みが出て、各種調査も順調に推進されたが、経済効率が低いと言うような理由で採託は遅れていた。
しかし、昭和三十七年六月二十九日突然十勝岳の爆発があり、富良野川の水質にも更に大きな影響を蒙る事になったことから、爆発の写真を持って急拠中央に早期採託のための陳情に行った処、農林省の階下には既に朝日新聞社からの十勝岳大爆発と言う見出しの大きな拡大写真が十数枚も張られていたので陳情も好都合であった。
昭和三十九年十二月二十八日、漸く四十年度の予算内示で十勝岳地区、幌加内、幌新、南月形の四地区の新期事業が認められ、事業費一億円を四地区均等に配分し、国営直轄濯概排水事業十勝岳地区の名称となった次第で、其の時の喜びは格別であった。
然し上京運動から帰られた田中理事長は、健康を害され病床につかれる身となり、改良区に出る事も出来なかったので私が代理を務める事になり、翁の再起を祈ったが遂に四十年七月八日逝去された。爾後私が理事長の職につくこととなったが、前理事長時代からの懸案事業であり、共に陳情を重ねてきた事業でもあったので、日新ダムの建設推進のために全力を尽す決意を新たにしたのであった。
日新ダム完成の喜び
開発局に於ては実施設計を樹て、ダムサイトの地形、土質、土量等が調査された結果現在地が候補地となったのである。早速関係地主の御協力を頂き、特に用地買収については、ダム対策委員の方々の御尽力により円満に終えることができた事は、円滑な事業推進の大きな力となったのである。
続いて四十一年八月二十六日午後一時から日新ダム現地に於て修抜式、午後三時から上富良野小学校で起工式が行われた。地質調査の結果ダムの構造工法について種々技術者間で問題になったが、勝俣昇技師が当地区の所長に赴任された事により、一気に工法の決定を見るに至った。この事も余り知られていないと思うので記述したが、勝俣所長はダムの権威者であり立派な人格者であった。
其の後毎年促進のため陳情を続けていたが、事業予算も順調に認められ、基礎地盤の関係で本道では始めてと言うエルゼエ法が採られ、工事は旭川開発建設部が札幌市の株式会社伊藤組に発注して進められた。流域変更工事、更に随道工事等困難な工事も多々あったが、四十一年八月起工以来事故もなく、昭和四十九年三月迄七年七ケ月の歳月と総事業費二十四億九千百十万六千円を要した国営直轄灌漑十勝岳地区の全事業の完成を見るに至ったのである。
顧みれば悪水灌漑による影響と用水不足に悩まされていた地域関係者は、この事業の完成により永年の不安が解消され、増収を期待し営農に意欲を燃やしている次第で、この感激を後世に伝えるため受益者の誠意を結集し、協讃会を組織して記念碑を建立することになったのである。題字の「富源の湖」は、北海道開発局長鷹田吉憲殿の揮毫に依るものである。
守護神として水天宮合祀について
新緑の山々に包まれた湖面には、清水が充満し十勝岳連山を映し、余水吐より滝のように流れ落ちる。
その景観は又格別である。守護神の水天宮は、この「富源の湖」の水難を防止し安全を祈願するため、小樽市に行きあの有名な北海道水天宮神宮にお願いして卸分霊を載き、御安置したものである。毎年六月に通水式、八月に断水式を神前で取り行っている。
更にこの社殿は、富原区で建設業を営んでおられる黄田建設社長黄田義栄氏が、心を込めて造営されたもので、その優雅な出来ばえは一段と光彩を放っている。
以上大要を記憶をたどりながら述ペさせて頂きましたが、昭和二十八年以来事業竣工迄二十有余年を要した事業でありますので、詳細には書けませんがこの点は御容赦下さい。

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷  1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一