郷土をさぐる会トップページ     第05号目次

婚礼の移り変り

上田 美一 明治三十五年十二月三日(八十三才)

私は伊達市で生まれ、両親につれられて此の地でお世話に成って、最早八十有余年経ちました。
明治、大正、昭和と三世代の恵みに浴する事が出来た幸せ者ですが、生来無粋な者と自認している私に、今年の春編集の方より、当地方の婚礼の移り変りを書く様にとのお話しがありましたので、乏しい記憶を辿りつつ綴ってみます。

縁談

北海道が開拓され始めてから約百二十年位経って居ります。富良野地方の植民の為め、明治二十九年に区画割りが出来たので、農家が開拓に初めて入地し、開墾を始めたのは明治三十年頃になってからです。
最初は四国の香川徳島両県の人達が多く、明治三十四、五年の頃からは、本州から直接移住した人の外に、当別村とか長沼村から一旦彼の地に入地した人が、再び富良野の地に集団で入地して居ります。
いずれにしても、樹木が鬱蒼とした異郷の地で、原始林の中の淋しい生活が始まりました。自然に相互に助け合う生活が行なわれるようになり、出身県の同じ人達が纏まり、国衆と言われる集団が出来ました。此の国衆は、開墾の仕事にも日常の生活等にも強い絆で結びついており、協力することによって立派な成果が上がり、当然のことに結婚も郷国同志の結婚が多かったのです。
開墾が始まってからの十数年は、結婚は余り無かったようです。明治四十年頃から大正の初めには、ぼつぼつと婚礼があった記憶があります。其の頃は現在よりは早婚であったようです。女子は十七才から十八才位、男子の方は二十一才の徴兵検査が終ってから、又は除隊後と言う事が当時としては結婚の目安になって居りました。年頃の青年には、世話好きな人が現われて仲人役を務めるのです。
昔からの長いしきたりかも知れませんが、何れの場合にも男方が主で、女方は従のような立場に立って縁談が進められました。又、家と家との縁と言うことが重要な要素となって、若い人達の意志が無視されたような形の結婚もあったのです。
開墾者が入地して日が浅いうちは、各村県人の雑居です。気心も通じて居りませんので、出身県、家族数、宗教は何、総資産の程度、悪い病気系統の有無、御姑様の事まで両家が調べてから、縁談が成立したものです。仲人さんの苦労は大変だったと思います。
結納
仲人さんや周囲の人達の御苦労で縁談が成立すると、今度は結納が行なわれます。結納には現在の様な立派な物でなく、粗末な物で整えたと聞いております。使いは仲人さんにお願いすることになっており、男の方からは母親と二人で納めに行った場合もあったようです。
結納の金一封の中味ですが、明治四十年頃から大正四、五年の頃迄は、概ねの通り相場として、猪一枚(十円紙幣)位であったのです。当時、物の相場を決める場合、猪何枚と言う事が通用したものです。
(注 十円の紙幣の呼称を猪と言った理由は、紙幣の裏に猪の面が刷り込まれており色彩が奇麗であった事と、当時としては金十円と言うお金は貴重なものであって、雑穀を売って十円紙幣が手に入ると、一升瓶に入れて神棚に御供えしたものでした)
婚礼
縁談が成立し結納も納まりますと、結婚の日取りが決められます。いよいよ婚礼の日が近くなると、国衆は当然のこと日頃仲の良い近所隣りの人達が手伝いに集り、家屋の内外の掃除を始め、婚礼に使う器材等調達から、部落内の料理の上手な人の指導のもとで披露に使用する料理と土産にする折詰の料理作りまでしてくれたものです。見映えは劣って居たかも知れませんが、心の籠った立派な物が作られて喜ぱれたものです。引出物はラクガンで作った大きな鯛又は松竹梅の物が多く使われていました。又羊かんの様な物を使う家もあったようです。
婚礼は婿入りの行事から始まります。新郎は新婦家に仲人に伴われて参ります。新婦の宅では小宴を開いて新夫を持て成し、終ると新郎は新婦を伴って新郎の家に向います。新郎の家では家紋の入った提灯をともして出迎えたものです。これより結婚の式が行なわれます。
結婚式に新郎は紋付羽織に袴を穿き、新婦は三ツ重ねの裾模様の姿でした。新婦が鬘や打かけ等を使う事はなかったのです。
開拓に入地して日の浅い明治の末期あたりの時代は、衣裳や持参する調度の品を整える為に大変な苦労した事を聞かされております。中には母親の嫁入当時の式服を使用した人もあったようです。
特に大正の中期の頃には、新郎の家では身内の者を集め新婦の持参品を披露すると言う行事があり、為に新婦母親達の苦労は多かった様です。
式場は開拓当時の掘立で、屋根は草又は麦稈葺き、床は板張りにムシロを敷き其の上に呉蓙を敷いたもので、戸障子をはずした床間に炭火の火鉢を置き、石油ランプを灯した部屋を屏風やカーテンで仕切ったものでした。
結婚の式は厳粛に取り行なわれました。結婚の儀式が終ると直ちに結婚披露宴が開かれます。其の時代は婚礼.と言う言葉が使われて居り、結婚式と言う言葉は余り使われていなかったようです。婚礼とは結婚の式と披露の宴の二つの行事の総称であったのです。披露宴に招待される人は大体二十人が普通で、三十五人は多い方でした。招待を受ける人は隣り即ち向三軒両隣りと濃い親族と友人で、花嫁の付添人を合せて三十人位が普通の婚礼でした。招待を受けた場合は御祝儀の金壱封を持って御祝に参加したのですが、中味は金壱円位が多かったようです。
宴会は、和式のお膳料理が並べられた会場で行なわれ、非常に豪華の内に重味を感じたものです。参会した人が決められた席につきますと仲人さんに伴なわれて新郎と新婦が着席し、仲人の新夫妻の紹介があります。続いて招待を受けて来た人達の代表の様な人が、例外の場合を除いて普通は一人で祝辞を述べ、次に新郎の父親か其れに代る親族の人の御礼の言葉で終ります。時間にすれば十分か長くても十五分位であったと思います。御国訛り丸出しの訥々とした言葉は何かしら心の暖みを感じたものです。
宴が始まりますと、相互で酒を飲み交して談笑し、歌う人、踊る人等で盛り上がりました。其の頃を見計らった様にどこからともなく、紐を付けた大きな徳利が宴会の席に転がし込まれて来るのです。徳利には祝の言葉が書かれたメモの様な物が付けられて居ました。此は古くからある風習で結婚式の良い景物として喜ばれました。婚家では、これに分相応の酒を詰め、料理等を添えて渡したものです。夜も更けて一番鶏が鳴く時刻になると、新郎と新婦は席を離れて婚礼は終ります。
婚礼が無事に終ると心の負担は軽くなったのですが、入地して日の浅い農家では、経済的に大きな荷物を背負う人もあったようです。新婦方では嫁入り衣装を始め持参する調度品、新夫方では結納金始め披露宴に付随する雑費と経費が嵩み、息子の嫁取り又嫁入りの為にとの親達の貯えも使い果し、尚負債で苦しんだ農家もあったようです。
新婚旅行
顧みますと、明治三十年に当地の入植が始まってから数年で日露戦争が起り、戦争が終ると、明治四十三年には国力回復のため戌申詔書が発布せられて、国民に奮起を促された窮乏の時代があり、大正二年には北海道は未曽有の大飢饉に遭い、大正六、七年の農産物(特に豌豆と色豆)大暴騰で一息ついたのも束の間、大正八、九年には農産物が暴落し、しまいには買い手が無いと言う悲惨な有様で、倒産する農家が多く毎夜夜逃が続いたものです。
此の様な時代の結婚ですからささやかな披露宴を開くのが「やっと」で、新婚旅行の様な浮かれた事は到底不可能で、当時の若い人達にとっては高嶺に咲く花の様なものと諦めていたのです。
結婚祝賀会
人生で一番大きな慶事は結婚ですが、此の行事のために農家は出費が嵩み、この痛手が長く農家の生活を圧迫している状態でありました。これを改善する方法として、当地域では祝賀会を行なう事に話が纏まり、東中公民館を利用して始めたのが昭和三十二年頃でした。会費は三百円で、献立は折詰料理、果物、刺身、薄皮巻、赤飯、洒瓶詰一合で、時間二時間と定めたのです。式が始まると主催者の挨拶があり続いて仲人の紹介、来賓とし一名位の近い友人の祝辞等で偉い人の名演説等なく十分位で終り、後は来客同志が談笑して、打ち解けてなごやかな雰囲気で盛り上りを見せたものです。集る人は、大体三十人から五十人位だったと思います。
此の方式は地域の人達に喜ばれ、三、四年は年に十組位利用者がありました。しかし其の後時代と共に人や経済事情も大きく変り、昭和五十一年東中会館が新設備の施設が建設されたのではありますが、この新施設ではたった一組の利用者があったのみで後は無く、現代は経済の高度な成長に従って人々の意識も変り、加えて商業主義の波に流されるが如く結婚祝賀の行事は都市の華やかな会場を求める様に成って来て居ります。行事も多様な物が多くなり、会費は五千円がいつの聞か六千円となり、既に七千円の声を聞くようになっている様です。
此の様な豪勢な結婚祝賀に接し、思いは遠く開拓時代の柳行李一つを持っての嫁入りがあったと言う古老の話、明治末期から大正の末期頃までの親達が苦労して開いた結婚披露宴、又第二次世界大戦中の男子は国民服、女子はモンペ穿き姿の結婚式等を想い、激しい時代の流れを感じつつ筆を擱きます。

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷 1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一