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田中勝次郎さんを偲んで

一色 正三 大正三年八月十一日生(七十一才)

田中勝次郎さんについての思い出を記述いたします。私の父一色丈太郎とは少年の頃より大の仲よしで、意気投合する無二の親友であったことから、当然のことながら私も子供の時代から昵懇にしていた間柄だからでしょうか。
私共夫婦の媒酌もしていただきお世話になった方ですので、父を通じ聞かされた事や、私なりに田中さんに接した思い出を記述して見ました。

人柄

田中勝次郎さんは温厚篤実な方で又楽天家でもありました。
己を捨ててよく人の面倒をみてくれた方です。
兵役は上等兵で樺太守備隊に勤務されたと話していました。
あの当時は兵役で甲種合格になることは大変名誉な事であったと聞かされていました。
生い立ち
田中勝次郎さんの祖先は元北畠家の家臣で、三重県内でも比較的裕福な農村地帯として知られている安納郡安東村納所で郷士として農業を営んでいましたが、米相場に手を出して失敗したため父君常次郎氏は家運を回復すべく、大成を果す土地を北海道に求めたのです。
単独に北海道の様を探検された結果フラノ盆地が有望であると考え、板垣贇夫氏に相談しました。
北海道開拓を真剣に考えていた板垣氏は幌向村に第一団を送り込み、次いで赤平の平岸に第二団を移住させた矢先で、ふらの盆地を選んだ事は当時の開拓移民選定調べをよく理解されていたので、父君常次郎氏を団体組織総代に選び、新天地の開拓の夢を託す同志を募り集団入地することになったのでした。
板垣贇夫氏のお世話に依り、ふらの盆地開拓の黎明は訪れたわけでした。
あくる年の明治三十年団体として移住することになり、一行は二月二十八日四日市港から出帆したのでした。
少年時代
田中勝次郎さんは十三才の時、団体入植より一年遅れ、父常次郎氏のいる三重団体に入植、昼なお暗いうっ蒼と茂る密林地帯で熊を始め野生動物の出没する物騒な、いわゆる未開の地に入植、開拓に従事されたのであります。
父親が団体の代表世話人であったため不在がちで、母と兄と共に開墾に従事しなければならなかったので私のために子供用の鍬を作ってくれたと話していました。
冬は馴れない馬追の仕事をしたのですが、ドサンコを使っての丸太運搬中、馬がジャメて動かず涙を流した事も度々あり、私の父丈太郎は年上の十五才であったので、そのような時にはよく面倒を見た等と話していました。
時代が違うと言ってしまえばそれまでですが、十三・十四才というと丁度今の中学校の生徒と同じ年頃です。
今では、通学はスクールバス、校舎はまるで一流ホテルのようで完全暖房、教材も整っているばかりでなく、必要な物があれば即座に準備されるようです。
田中勝次郎さんの少年時代と比較にならないほどの世の変わりようですが、それがごくあたりまえと思う人も大半で、私のように昔を知る者には、只々「もったいない」という言葉が思わず口からこばれてしまいます。
青年時代
この頃になると開拓も相当進み、人口も日々増えてきていました。
父丈太郎は若い者の頭であったため、よく若い者が集ってきては、力比べ、食べ比べなどをして騒ぎ回ったと聞いています。この中にはもちろん勝次郎さんもいて、快活で聡明であったことから、勝ちゃんの愛称で呼ばれ皆に親しまれていたそうです。
また、青年達が集まり芝居を上演したり、浪曲に興じるなど様々な催しを行なっては若い力を発散したのでした。
その中でも、丈太郎と勝次郎さん、若林助右衛門さんの三人は大の仲良しで、その助右衛門さんへ勝次郎さんの妹が嫁ぐことになった時、常次郎さんに頼まれて父丈太郎が媒約人を務めたそうです。
この嫁入り準備のため旭川までこの三人で出かけた折、当時はどうしても日帰りができないため旭川で一泊しました。
嫁入りする買い物ですから相当の額のお金を持っていたため、晩酌が進む内に気が大きくなってしまい、夜の街で別の買い物をしてしまったそうです。
そんなことで、碌な買い物をせずに帰ったものですから、常次郎さんから大変なお叱りを受けたのでした。後日、よくこの話をしては皆を笑わせていたのを覚えています。
父も含め勝次郎さん達は、よく働きよく遊んだそぅです。新井牧場の開墾を引受けたり、富良野線の鉄道工事人夫をしたり、また、嫁入があれば樽入れにも良く出かけました。
農業組織
今の農業協同組合の前身である上富良野産業組合が大正三年に創立され、組合長理事に吉田貞次郎、理事に高士仁左エ門、増田嘉太郎氏を選んで動き始めましたが、大正六年の改選で高士氏が退いて田中勝次郎さんが当選し、以降上富良野村共立産業組合と改組されてからも吉田貞次郎組合長の片腕として敏腕を発揮したのでした。
この頃は、欧州戦乱による豆景気の到来と、これに続く豆類の価格下落によって経済界は大変な波乱にみまわれ、特に農業関係者には大打撃を与えた時期でした。
その後、国策により共立産業組合に代り農業会の設立が進められた際には、吉田さんを助け努力され、昭和二十年四月の設立総会において会長として選任を受け、土地改良を始めとする農業基盤の整備と福利増進事業に尽力されました。
十勝岳の爆発
あのいまわしい十勝岳の爆発について田中翁は次の通り話してくれました。
大正十五年の五月二十四日は、朝から雨が降っていたが、農作業が遅れていたため作業を続けている内被服も濡れたので午後四時頃仕事も早く切り上げ、家で休んでいると、大変、大変と声にならない声で大騒ぎして、皆あわてました。
鉄道線路の向うに泥流が流れている楼を見て、声なんか出るはずがない。真黒な山のようなものが向ってきて、今迄建っていた附近の家がなくなっている。私の処の住宅は昨年新築したばかりで小高い処のため、何事が起きたか判らない時に高い処に上って見る人間心理、家内中皆が屋根に登って荒れ狂って流れる泥流の姿を見ていたんです。
小高い処にあった屋敷だったけれど、ここでは危険だと気づいたのは、富良野川沿いの隣り近所の姿がなくなってからでした。
身に迫った危険を知った時無我無中になると言うが、達者な母でしたので私共が屋根に登っている時も、二十九号道路を西の高台に向い走った時も皆一諸だと思っていたが、此の間母は家の中で仏様を拝んでいたんですね。
仏壇にローソクの跡がありましたから、母と馬が一頭災害の犠牲になり、住宅はどうやら流出をまぬがれましたが、母も一諸に走っていると思って逃げたんです。−
開拓以来寝食を忘れて耕した田畑が、一瞬のうちに泥流が流れ、一面泥海と化した有様を呆然として眺めた姿は察するに余りあるものがあります。
此の姿を眺め、時の村長吉田貞次郎さんと田中勝次郎さんの開拓以来父母の血と汗で耕した此の土地を必ず復興するぞという決心が、反対者を説得、復興に尽くされ、今日の美田にしたのであります。
私はつねに吉田さんと田中さんの銅像を建立したいと考えていました。
行政
大正八年若くして村会議員になり、頃を同じくして第四代から七代村長を勤めた吉田貞次郎さんの右腕として活躍しました。
当時村長は村会議員の互選で決められていました。
大正八年は一級町村制が施行された年で、これは名実共に独立自治の体制を整えたことを官が認めたことで、官選任命による村長から公選村長の時代へと変った時でした。
戦争
昭和六年満州事変が導火線になり、昭和十二年に日支事変へと発展していきました。
上富良野にも召集令状が降下、馬も徴発され、三十代の働らき盛りの男子、そして馬と次々と動員されていき、田中さんも銃後の守りにと随分と苦労されていました。
しかし、昭和十六年十二月に大東亜戦争へ突入するに至って、益々銃後の守りが重要性をおびてきて食糧生産をになう農村の指導者として、地域住民の先頭に立って活躍されました。
また、昭和二十年の敗戦によって終戦を迎えると、今度は戦後処理が残されていて、どれだけ苦労されたか計り知れません。
村長
戦後の第一回公選が昭和二十四年に行なわれ、田中勝次郎さんが第十一代村長に就き、以後十二代村長、そして昭和二十六年八月一日町制施行による初代町長を勤めました。私もその頃村会議員に席を置いていたため、親孝行するつもりで田中村政に微力ながら協力したものです。
当時は戦後のことであり、物資はなく、金もなくそれはそれは並々ならぬ苦労がありました。
また追い討ちをかけるように、昭和二十四年には八町内の大半を焼き尽した大火が起こり、この復旧にも多くの労苦を割かなければなりませんでした。
自衛隊駐屯
郷土の歴史の中で最も重要なことは、自衛隊の駐屯ではないでしょうか。昭和二十六年の町制施行後の上富良野に、将来の躍進の基礎を与える事件でした。
この動きは、昭和二十六年、林総監から十勝岳山麓に実弾射撃演習場設置の要望が出されたことに始まり、田中村長は議会に計り万場一致で採択されました。これを受けて設置の方向へ町、国双方が動き出しましたが、次第にこの設置計画の全容が明らかになるにつれて、その規模の大きさに驚いた町側は、民生安定を根幹とした七箇条の決議文をもって縮小の要望を提出したのでした。当初の計画は、現演習場の三倍の面積を持っており、この規模で実施するとなると、農耕地や森林が失なわれることになり、上富良野自体の存亡が危ぶまれたからでした。
このような経過を経て、昭和三十年演習場の整備と並行して駐屯が始まった訳です。市街地の容貌も一変しました。急速に増える人口に対して、住宅の確保が大きな問題となってきており、当時副議長であった村上国二さんと私で資金集めをして、その年に五十戸の隊員住宅を建設して急場をしのいだことを思い出します。
町制
昭和二十六年の町制施行、そして自衛隊の駐屯と慌しい時期でしたが、人口も昭和二十五年の一万三千人台から、昭和三十年には一挙に一万六千人と増加し、学校の改築などの施設整備が進められていきました。
その頃色々なことで接待の機会が多くあり、酒席を盛り上げるためによく田中町長が踊ったものです。
それは、若かりし頃の青年芝居などのお陰かもしれませんが仲々上手で、興ずるに従いよくヨカチンを踊りました。それがあまり評判になったため、昭和二十六年の公選時の投票の中に「ヨカチンの田中さん」というのがあって、他事記載の理由でこの一票が無効投票になった事件があり、ヨカチン町長と言われてより一切踊らなくなった事を覚えています。
勇退
田中さんは、町制施行、自衛隊誘致などで現在の上富良野町の基礎を作った方でした。
しかし、いつまでも町長の座を占めるわけにもいかず、必然的に世代交代の時期が訪れたのでした。
首長の選挙の場合、どうしても町を分割しての争いになるため、事前の話し合いで決着をつける方法がとられることがありますが、この時も四釜卯兵衛さんと私が使者に立ち勇退を勧めることになったのでした。
御本人としては、自らが卒先した駐屯地誘致の締めくくりとして、自衛隊の入場式は自分の手でとの意志を持っておられましたが、最終的には次期に海江田武信さんを擁立することに快諾を得ました。
昭和三十年九月一日、旭川から鳴川一佐の率いる一隊が到着、多勢の町民が日の丸の旗を振る中、ラッパ隊を先頭にして堂々と入場してきました。
マルイチ十字街の観閲台に、海江田町長と並んだ田中さんの胸中を思うと、感慨無量ではなかったかと推し量られました。
日新ダムの完成迄の貢献
田中さんは前述した通り多くの公職を通じて、町行政伸展の為実績をあげていますが、特に土地改良区理事長時代の功績について記述しておきます。
大正時代の草分土功組合設立当時は、理事議員として初代組合長吉田貞次郎氏、二代金子浩氏を助け組合運営のため尽力され、更に昭和二十七年七月十日草分土地改良区に改組の折は、認可と共に理事長として灌漑用水の改善に力を注がれました。
昭和二十八年毒水処理期成会、連合体の組織と共に会長となり、日新ダム建設を悲願として運動をしていましたが、昭和二十九年十二月関係者と共に上京運動、漸く事業予算がついた事を聞き一同喜びの中に帰郷してきました。
しかし、悲願成就を果たす間もなく過労から入院され、一進一退を繰り返す闘病生活が続く中、先生方の適切な医療と暖い家族の看護の甲斐もなく、昭和四十年七月八日ご逝去なさった次第で、日新ダムの起工式迄生きていてほしかったと悔んでいます。
名誉町民として推薦される
私は田中さんが富良野盆地の開拓の先駆者であり、生涯を通して村づくりの為に尽された功績は誠に偉大なものと考えていた矢先、名誉町民として推薦され、昭和四十年二月二十四日町議会で万場一致を得て上富良野町第一号として可決されました。私は我が事の様に快哉を叫んだ次第であります。
今静かに田中さんのお人柄やご功績を偲び、ご冥福をお祈りするばかりです。

機関誌 郷土をさぐる(第5号)
1986年3月25日印刷 1986年4日 1日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一