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西谷元右ヱ門伝

東中 西谷 勝夫(七十六才)

上富良野移住まで
明治八年八月、三重県多気郡外城田村に父忠蔵の長男として生れる。家は代々農家であったが、十四才の時、同国飯南村の雑貨商、竹岡商店に奉公した。
六年後の二十才の時独立して、米穀、茶を王とした商店を開いたが、時は日清戦争の経済界の不振で、事業は失敗した。
明治二十八年三月、同郷の人、板垣贇夫を団長とする北海道移民団に加わって、父と共に空知郡幌向村に移住したのが二十一才の時であった。団体移住者には普通五町歩の未開地を与えられたが、元右ヱ門は特別待遇によって、十町歩の割当を受けている。
開拓事業は父子兄弟協力して行ったので成功したが、元々商売出身の元右ヱ門は農耕の傍、雑穀の商いにも手を広げ、幌向原野の主産物である燕麦を大量に買い占めたりしたのが、日露戦争前後の経済界の波乱に巻き込まれて大失敗に終り、上富良野に転じたのが明治四十一年二月であった。
記録によると三百三十町歩の牧場が明治四十三年十月成功附与と記載されているが、入地して僅か二ヶ年にしてこの成果を得たものは、元右ヱ門のそれまでの苦い経験が、開墾事業に対する非凡な手腕となって発揮されたものと考えられる。牧舎や住家のあった所は東十二線北十九号で、牧場は中富良野の時岡牧場に隣接していて、成功検査を受ける際には相互の牛馬を貸借したと聞いている。
人物像
西谷元右ヱ門を評して「容ぼう怪異偉人の相を備える」と評した人がいたが、常人離れの風格があった。豪気無口にして感情を表わさず、必要最少限のことしか絶対ものを言ったことがない。用件や相談事で訪ねて来た人にも会釈するだけで無言である。
たまりかねた相手が用件を話し出すが、最後まで黙って聞いており、話が終って始めてその問題はこう考えるとか、こうして上げるとか結論だけを手短かに話すだけであった。相手方もそれで納得して帰って行く。
来客があってもソロバンをはじく手を休めない、柏手が待ちきれずに要件を話し出す、話し終って始めてソロバンの手を止めて、簡単に結論を言うのみ、棒で鼻をかんだ様だが、相談に来た人はそれで満足して帰って行くという応待のしかたであった。
また私が、伯父元右ヱ門の家を訪ねたとき、南瓜や羊かんを食べているところへよく出会ったものだが、自分だけ食べて一言も「お前食べないか」と言った ことがない。そこでこちらも勝手に持ち出してきて食うのだが、良いとも悪いとも知らん顔である。
木材業に手を染めた頃から、朝、家を出て夜に帰って来る毎日であったが、どこへ何をしに出かけたのか、家人には全くわからない。聞いても無言。一年の半分位はこの繰り返しだった。
西谷元右ヱ門は何物か詳細ではないが、木工場を経営しながら土地山林の売買も手広くやっていた。殆んど村外で行われたため一般の人々は何も知らずにいたが、税務署開係者が富良野沿線の木村王だと言っていたのを聞いている。
彼は決して金を貯めたり、財産づくりはしなかった。鉄の様な意志と七転八起の事業意欲は、彼の生涯を通して変りがなかった。
西谷牧場
西谷牧場に牛馬がいたのは、大正五、六年頃迄でないかと思われるが、それまでは附与検査を受けるために相当数の牛馬がいた。その殆どは外国産のもので、牧場産の馬が函館競馬で優勝している。調教の為に馬を連れに来た騎手の見馴れぬ服装が、今も記憶に残っている。
或る夜更け、小便に屋外に出た家人が、牛の集団の異様な気配に気付き、牧場の中に入って楢の大木に近づくと、楢の根本にどかっと腰をすえ、角を構えた牡牛が巨熊とにらみ合っているではないか。驚いた家人が、かねて用意してあった石油缶を打鳴らし大声を上げて熊を追い払った。西谷牧場でも隣接する時岡牧場でも、度々熊による牛馬の被害が起きた。
やがて欧州大戦の影響で豆類の値が暴騰し始めるにつれ、牧場は農場に変って行った。
公共にも尽す
元右ヱ門は東中産業組合の創始者で、大正五年自宅を事務所に開設したに始まり、昭和六年まで組合長として、経済基盤の弱い農村経済発展のために尽力した。
欧州大戦後の豆成金が終ると、急速に水田化の気運が台頭したが、それまでの用水組合の水利権では造田には限界があった。
そこで元右ヱ門の着想は、現在の富良野市ヌノッペ川に水源を求めることであった。五百五十町の新規水田造成計画と、富良野、中富良野、上富良野の三町村に渉って漕漑溝路掘さく工事を行わんとするもので、時の村長吉村貞次郎を動かし、三町村の関係の調整をはかって、中富良野の一部を含めた千二百町を以って、大正十一年二月東中土功組合設立の認可を得、同年五月着工、翌十二年四月竣工した。かくて当時の五十嵐農場を中心に五百町歩の美田の夢が実現したのは、実に元右ヱ門の水田開発に傾けた情熱の賜物に他ならない。もちろん元右ヱ門は推されて民選初代組合長になった。
東中住民はこのような元右ヱ門の偉大な指導的役割とその功績を讃たえ、昭和十二年東中神社境内に「西谷翁頌功碑」を建立して、その恩に報いたのである。
また元右ヱ門はこれより先、明治四十五年村議会議員に初当選以来、昭和二十二年まで(明治三十五年、若冠二十六才から四ケ年札幌村の総代就任期を含めると、実に四十ヶ年以上に亘る)村政に参画し、或は大正六年から昭和二十年まで三十年間村農会の副会長の要職にあるなど、村では第一級の政治家であった。終戦後第一線から勇退した後も、村の元老として村民から尊敬されていたが、昭和二十六年業成り名を遂げ、七十七才を以ってその生涯を閉じた。

機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷  1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一