郷土をさぐる会トップページ 第02号目次
泥流に流されて
高田 コウ(八十一才)
私は大正四年十九才の時、三重団体高田次郎吉の四男信一と結婚、五年後の大正九年には国道沿いの西二線北二十八号に分家し、水田主体の農業を営んでいました。
大正十五年当時は、六才を頭に、四才、二才と三人の子供がおり、家族全員健康に恵まれ、平和な生活が続いていました。近くのコルコニウシュベツ川では、イワナが沢山獲れました。
爆発のあった五月二十四日は、朝から雨模様でしたが、子守奉公の十ニ才になる上坂キクエさんに三人の子守りと留守を頼んで、夫と二人で、鉄道の東側にある田圃の代掻き作業に出かけていました。
なかなか雨が止まないので、もう少しで仕事を切り上げようと思った時の事です。先き頃から気になつていた地響きに似た異様な音が、次第に近づく間もなく、「硫黄山が爆発した」という叫び声を耳にしました。
咄嗟に家に残した子供のことが気になり、夢中で家路を走りました。途中で電線が『バタンバタン』と地面を叩く音を聞きました。一瞬地震かと思いましたが、これが全く予想もしなかった、山のように押し寄せる泥流の前触れだったのです。
隣りの一色春子さんの「恐いわ」という叫び声を背にしながら、我が家に着いてみると子供達はかたまって震えていました。子守りを頼んでいたキクエさんが「お姉さん、どうしたらいいの」と恐ろしそうに聞いたが、私は「皆死ぬんだから、お念仏を唱えなさい」としか言うことができませんでした。
「南無阿弥陀仏」と言った途端に、私達はパサッと泥流を被り、押し流されたのでした。
流されながら私は、死ぬんだなあ、としか考えず、只々念仏を唱えました。頭から全身泥を被っていたので、何も見えず真っ暗でした。
そのうちに、流れて来た大きな木に引っ掛かったらしく、急に目の前が明るく感じたので、目の泥をこすり取ると、何と空が見えるではありませんか。私は死んで極楽に来たのかと疑ってもみましたが、段々と、ほんとうに生きているという実感が湧いてきました。
丁度その時、主人の兄の利三さんが近くで叫ぶ、「早く木の上に上がれ」という声に励まされて、漸く助け上げて貰った次第です。そうしてそこに、奇しき縁といいますか、偶然にも私の衣類の入った行李も流れ着いたのです。
私は近くの仲川源四郎さん宅に、おぶって連れて行かれ、お風呂に入り泥を洗い落として、やっと、生きた心地がしました。行李の中の衣類は好運にも濡れていなかったので、着物も着替えることができました。
翌日、医師の診察を受けました。流されている時に、お尻に何かぶつかったのは覚えていましたが、顛や手足や腹に至る迄、傷だらけでした。それでも四番目の子供が腹にいたのに、母子供に大丈夫とお医者さんに言われた時には安心しました。しかし暫くは体の具合が悪く難儀しました。
子供達とキクエさんは一緒に流されたのですが、西二線北二十六号の久野専一郎さんの前で、キクエさんだけが助けられたのでした。我が子は可愛想なことをしましたが、キクエさんだけでも助かったのは幸いでした。
皆さんから、何故子供を連れて逃げなかったのかと言われましたが、押し寄せる泥流の前には逃げる余裕もなく、私は只「死ぬんだなあ」としか思わなかったのです。
昔親達から、爆発した時は鍋かバケツを被りなさいと教えられましたが、よもや水が出るとは、考えてもみなかった事です。
主人は、馬が暴れるのを押さえながら、流れて行く私を見つけたそうです。助けようと、泥流の中へ飛び込もうとした処を、部落の人が必死になって止めたと後で聞かされました。家もろとも流されながら助かった一色さんのおじいちゃん、おばあちゃんも、その時私と同じ方向に流されていたと言う事です。
私は、灌漑溝に沿って流れる大きな木の後を流されていたので、幸運にも泥流に巻き込まれることもなく助かったのだと思いました。
近くの専誠寺のご住職夫妻は、お寺の中に泥土や流木が流れ込み、流失寸前の危険状態に陥りながらも逃げることもなく、阿弥陀様をお守りされたと聞きました。助けられた時は、お二人共全身泥まみれだったそうです。
私が泥流から助けられた時腹にいた子も、今では五十七才になり、家を継いでいます。私は流された時のショックで、長い間体の不調に苦しみましたがこんなに長生きするとは思ってもいませんでした。きっと災害で亡くした子供達が、守っていてくれるのかも知れません。
機関誌 郷土をさぐる(第2号)
1982年 6月10日印刷 1982年 6月30日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一