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二度の撃沈から生還

東中 谷口 実 (七十才)

東安省東安駅に着く(昭和十八年十月二十二日)
戦後三十六年、歴史のとばりの中に消えかけた太平洋戦争の傷跡は、日に日に忘れ去られつつあるが、従軍した私達には生涯忘れられない歴史の一頁なのである。
私は当時をしのび次代を担う我が子や孫にも、私が壮年時代に異国の戦場で過した状況を知って貰い、永く語り伝えて欲しいと思う。これが現在の気持である。
果てしもない広野に、赤い夕陽の沈むソ満国境警備のため、私達は昭和十八年十月二十二日、満州国、東安省東安駅頭に第一歩を印した。七八〇部隊第一機関銃中隊に編入されたのである。
中隊の舎前には、射撃、剣術優秀中隊の二本の標柱が建っていて、部隊でも屈指の中隊である。また正面玄関に入ると、「やるぞ負けるなへたばるな、陛下の股肱だ命を賭けて」との額が掲げられていて、如何にも閑東軍の意気を示した文句であった。
翌日から、直ちに重機関銃の操作訓練に入る。およそ四ヵ月の教育を受け、明けて昭和十九年一月、「死にたい者以外の外出禁止」の命令が出る程の厳寒の最中、耐寒訓練のため冬季定期演習が実施された。しかしこうした酷寒のソ満国境近くでの訓練も僅かの期間で終了した。
かくして、昭和十九年三月六日、東安駅出発、牡丹江を通過し、三月十日山海関の国境を走って中支に入り、列車は更に南へ。
歌に知られた徐州、見渡す限りの青い麦畑の、のどかな春景色、南京城内で一夜を明かし、翌日揚子江を渡る。
上海駐屯一か月余、南方戦に備えての猛訓練、まず、海難の対潜訓練、海への挑戦である。
岩壁から海へ突入する訓練など、日夜を問わず、続けられること二十数日・・・。
上海出航と第二吉田丸の轟沈(昭和十九年四月二十六日)
南方派遣軍として、上海を出航したのが、昭和十九年四月十七日の午後。これに先立って山田中尉の訓示あり、「只今よりお前達の命は、この山田が預る」、中尉の声が今でも私の耳に残っている。
輸送船十六隻、護衛艦十二隻の船団は、敵潜水艦の魚雷を避けるため蛇行する。時速八ノット、護衛艦は絶えず船団の周囲を、十四ノットの速さで守備に廻る。
台湾を右に見て、敵の潜水艦の出没するという、潮流の最も激しいバシー海峡にさしかかる。
果せるかな、四月二十六日深夜、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けた。
最初の一発は、かすかな一条の航跡をいち早く発見、巧みな操船によって、辛うじてこれをかわしたが、午前三時五十七分、続く二発目の魚雷を中央機関部に受け、私産三千五百名の乗った第二吉田丸(六千トン)は、三分間を待たずして、暗夜の海上から、最後の汽笛を鳴らし続けて轟沈したのであった。
船体は中央部からX字型に折れ、機関部の重油、・ガソリンに引火して、たちまち火の海と化した。船首、船尾から、芋をころがす如く、突入していった大部分の将兵は、渦巻く海水に呑まれて、船と運命を共にした。
辛うじて海上に浮かぶことが出来ても、火の海地獄。こんな状景を日のあたりにしながらも、何等なす術もなく、只、我が身の退船をあせるのみ。
しかし、潮の流れは速く、手足を激しくかいても、なかなか船辺を離れることが出来ない。
この一時間前に、私は後部甲板で、対空監視の勤務についていたが、下番して、装備したまま甲板に横たわった直後の遭難で、アッと思った瞬間に海水に浸っており、しかも大きな浮遊物の下でもがいていたのが、二、三分後に、奇跡的にも、ポッカリ海上に浮かび上ることができたのだ。
荒波の上では、三人、五人と浮遊物につかまって漂流しながら、より大きな集団を形づくっていった。
上海での退船訓練で教えられた、一人二人のバラバラでは、僚船、或は護衛艦の効率的救助ができないための、集団行動である。
また、いくら泳ぎに自信がある者であっても、単独行動は禁止されていた。
ところが、このような状況の中で、意外な光景にぶつかった。 直径二メートル余りの浮遊物に、将校が一人、抜刀して端然と坐っており、周辺むらがる兵隊に、寄らば切るぞとの態度には、一同唖然とした。
「浮遊物の上には乗らず、ただ事を差しのべて、つかまるように」と教えた立場であった将校のこの有様に、周りの兵隊達は怒りのあまり、彼に向って「降りろLと怒号したが、その将校は降りるどころか、却って反射的に狂った如く、つながって叫んでいた兵隊の手に、切り付けたのである。
あとはどうなったか、私の集団とも遠ざかってしまった。
見渡す限りの大海原、といっても大きなうねりに白波がたっていて、漂流物と衝突の危険すらある中を、点々と数人、又は十数人がかたまって「海行かば」や「軍艦マーチ」を歌う者、ワッショ、ワッショと掛声をかけて励まし合うなど、精神力練磨の努力行動を続けたりした。そして、この時点では、私の周辺の集団には、額見知りの兵隊は、まだ一人も見つからなかった。
ふと見れば、はるか遠くに、我が船団が、煙を長くひいて航行しているのが見えるではないか、「助かるかも知れない」と感極まった一瞬であった。
かくして、三時間あまりの後、私達は駆逐艦「朝風」に救助されて、甲板に引き上げられた。ヤレヤレ助かったと、初めて生還の気持が沸き、何とも言えぬ心境であった。
切角救助されながら、激闘のための疲労と、極度の緊張感からの解放で、意識を失うものが多く、そのまま息を引き取った者も少なくなかった。
そのため、船に揚げるとすぐ救命胴衣を切りはずし、船員は一人一人、尻べたを数回たたいて気力を呼び戻す。かくて救助を終る間もなく、「朝風」は高速で船団に追進した。
救助された兵隊の大部分は、数時間後には落ちつきを取り戻し、船員の手厚い看護の下に、温かいおかゆ、ミルク等の給与を受けて感激にむせんだのであった。
戦かわずして兵員三千名を失ったことは、誠に痛痕事であった。
いよいよ明日はマニラ入港との知らせで、私達はホッとしたものの、私は遭難の苦闘で健康を損ね、遂に、マニラの野戦病院に入院することになってしまった。
一ヵ月余り療養して退院帰隊してみたら、既に「ハルマヘラ」へ移動して、顔見知りの戦友は一人もおらない。
私は静岡出身者の多い「楓」部隊に編入されて、しばらく、さびしい思いをしたが、元気で沿岸警備の任務についた。
〔編集者岩田注〕
バシー海峡は、台湾とフィリピン、ルソン島の間にあって、太平洋戦争中、米軍潜水艦の魚雷攻撃で、輸送船が次々と沈められ、「輸送船の墓場」と恐れられていた。
同海峡で亡くなったのは、日本人十数万人、日本軍に徴用されていた中国や朝鮮人を含めると、死者は二十七万に上る。(北海道新聞に拠る)二度日の轟沈の様子は次号へ。

機関誌 郷土をさぐる(第1号)
1981年 9月23日印刷  1981年10月10日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一