上富良野歴史年表

明治29(1986)年以前

西暦 元号 月日 出来事
1853年 嘉永6年 この年 藤田良、蝦夷闔境輿地全図にトカチ山(十勝岳)を記入。
1857年 安政4年 4月27日 箱舘奉行所足軽松田市太郎。チユクベツ川筋より石狩水源を見分したる折、焼山なる処より硫黄を少々持ち帰る。(松田市太郎記安政4年「チュクベツ川筋より石狩水源見届日記」を参考とした。)(陽暦5.20)
1857年 安政4年 5月17日 松浦武四郎空知川をさかのぼって野花南付近に達する。(報文日誌を参考)
1858年 安政5年 3月10日 ・松浦武四郎十勝越えのためフウラヌイ(上富良野)に来る時点でビエベツ(美馬牛間宮岳付近)の高地で、「硫黄の燃る烟実に目覚ましく天にさし上がりたり。」と十勝岳の噴煙を眺める。その夜レリケウシナイ〔此のところ、平原なり。…(手控)〕で野宿。その時、茅野に火を放し大火となし野を焼く。(「報文日誌」を参考とした。)(陽暦4.23)
1858年 安政5年 3月11日 松浦武四郎[現自衛隊演習場内]のベベルイ川を渡り更に支流のカラカワを上り、その上流で野宿する。(「報文日誌」を参考とした。)
1858年 安政5年 3月12日 富良野岳と前富良野岳の鞍部であるル-チシ(峠)を越し、ヌモツベイトコ(現富良野市原始ケ原二の沢川)を経て、シーソラプチ川上流に宿泊する。(「報文日誌」を参考とした。
1858年 安政5年 9月21日 松浦武四郎箱館奉行所に、「西場所アツタより石狩上川并ソラチ川筋越、東場所トカチえ新道見込申上書」即ち、道路開発についての総合的献言をする。
1868年 慶応4年 1月15日 新政府、王政復古を通告する。
1868年 慶応4年 2月24日 太政官を東京に移転すること(事実上の遷都)を決める。
1868年 慶応4年 4月17日 政府蝦夷地開拓条項を指令。
1868年 慶応4年 5月18日 榎本軍降伏し、五稜閣開城。箱館の兵乱治まり、慶応4年1月3日鳥羽、伏見で起った戊辰戦争が終わる。
1868年 慶応4年 5月24日 松浦武四郎蝦夷山川取調書等を献する。官-1万3000匹を賞賜。
1868年 慶応4年 05月--日 箱館より京都まで、定飛脚月6回と定める。
1868年 慶応4年 6月25日 諸藩主の版籍奉還を許し、藩知事に任命。また公卿・諸侯の称を廃し、両者を合わせて華族とする。
1868年 慶応4年 6月25日 政府、藩知事家禄の制を封地実収高(現石)の十分の一とし、また、家臣を士族と称する。
1868年 慶応4年 7月8日 (太陽暦8.15)・北海道の開基。蝦夷地に開拓使が置かれた日。
1868年 慶応4年 7月17日 詔書を出して、江戸を東京と改称。
1868年 慶応4年 7月17日 京都、東京、大阪3府以外の府を、県と改称。
1868年 慶応4年 7月22日 箱館府、市在の博奕盛行につき、今後改悛しない場合は、厳に処分すべきことを命ずる。
1868年 慶応4年 7月22日 島義勇を開拓使判官に任命
1868年 慶応4年 8月1日 箱館府、裁判所を府と改称した旨を蝦夷地に布達。
1868年 慶応4年 8月2日 松浦武四郎を開拓使判官に任命。
1868年 慶応4年 8月15日 蝦夷地を北海道と改称し、11国86郡を画定。渡島7郡、後志17郡、石狩9郡、天塩6郡、北見8郡、胆振8郡、日高7郡、十勝7郡、釧路7郡、根室5郡、千島5郡。
1868年 慶応4年 8月16日 民部大輔大隈重信・外務大輔寺島宗則・大蔵小輔伊藤博文兵部権大丞船越衛を北海道開拓ご用掛に任命。
1868年 慶応4年 8月17日 一関藩に白老郡、佐賀藩に釧路・厚岸・川上の3郡、水戸藩に利尻・天塩・中川・上川・苫前の5郡をそれぞれ割渡す。(以後、各藩への割渡し相次ぐ。)
1868年 慶応4年 8月17日 伊達邦成(藤五郎)に有珠郡の地を割渡す。
1868年 慶応4年 8月17日 北蝦夷地を樺太と改称。
1868年 慶応4年 8月17日 開拓使の直轄する郡を、札幌・上川・厚田・忍路・余市・古平・美国・積丹・古宇・岩内・寿都・上磯・茅部・亀田・三石・幌泉の各郡とする。
1868年 慶応4年 この年 開拓使「開拓使日誌」(明治2〜10年)の刊行を開始。
1868年 明治1年 9月8日 詔して、慶応4年を明治元年と改め、一世一元の制を定める。
1868年 明治1年 10月7日 箱館府、来春より、奥州暦を廃し、伊勢暦を用いることを命ずる。
1872年 明治5年 1月29日 政府は、全国の戸籍調査を実施して、戸籍簿を編成した。この戸籍をいまでも、壬の申、即ち壬申戸籍とよばれている。現在は閲覧不能。
1872年 明治5年 9月14日 全道11国と樺太をあわせて6大部に区分し、札幌に本庁、函館・根室宗谷・浦河・樺太に5支庁をおき、その所轄国郡を画定する。
1872年 明治5年 11月9日 太陰暦を廃し、太陽暦を採用する詔をだす。(明治5年12月3日を、明治6年1月1日と改正)
1873年 明治6年 12月25日 太政官開拓使官掌の屯田兵制設置を認める。
1874年 明治7年 7月16日 ライマンの北海道記事に、十勝岳を旧火山と記す。
1874年 明治7年 8月2日 開拓長官に黒田清隆就任。(1874年8月2日〜1882年1月11日)
1875年 明治8年 09月--日 樺太/千島交換条約にもとずき、樺太からアイヌ108戸、841人を北海道宗谷に移住させる。(翌76年6月、さらに石狩国対雁に移す。-後に、有名なアイヌの対雁の悲劇へとつながる。)
1876年 明治9年 6月13日 松本十郎著十勝両河紀行に上川を記す。
1876年 明治9年 7月31日 米国マサチューセッツ農科大学長ウイリアム・S・クラーク札幌農学校教頭として、ホイラーペンハロー両教師および学生11人と共に、札幌に到着。(1875年明治8年5月15日太政官、札幌農学校設置のため米国教師3人雇用の件を承認。)(1877年明治10年4月16日札幌農学校教頭クラーク、札幌を去って帰国の途につく。)
1882年 明治15年 2月8日 開拓使を廃し、函館・札幌・根室の3県をおく。〔太布告〕
1882年 明治15年 2月8日 開拓大書記官時任為基を函館県令に、同上調広丈を札幌県令に、開拓少書記官湯地定基を根室県令に任ずる。
1885年 明治19年 1月26日 ・道庁を札幌に、支庁を函館・根室におく。〔内閣布告〕3月1日開庁。
1885年 明治19年 08月--日 ・道庁技師内田瀞・十河定道等が、殖民地選定事業を開始。
1887年 明治20年 この年 道庁技師柳本通義、フラヌ原野の殖民地選定事業を行う。
1888年 明治21年 この年 〔明治21年大日方一輔技師の報告による。〕「サオロ渓」ヲ遡リテ水源ニ達シ、石狩国空知川上流ヲ更ニ遡リテ水源ヲ越エテ、本道中央ニ横ハル山脈ヲ跋渉シ、噴火山ニ達セリ。是レ全ク、石狩国上川郡ニ古来噴火山アリト知ラレル「ケンルニ山」ニシテ………
1891年 明治24年 6月15日 屯田兵400戸が、上川郡永山村東・西永山に入殖。
1891年 明治24年 7月5日 北海道炭礦線岩見沢〜砂川間および歌志内間の営業開始。
1892年 明治25年 8月5日 上下東旭川屯田兵村に、各200戸入殖。
1893年 明治26年 5月1日 上川郡東・西当麻兵村に各200戸入殖。
1894年 明治27年 8月1日 日清戦争始まる。(宣戦布告)朝鮮をめぐって戦われた、日本と清との戦争。(〜翌1895年4月17日日清講和条約調印される。-休戦-
1895年 明治28年 この年 春、現在の中富良野西1線北19号あたり(西中)に、伊藤喜太郎が単独入殖する。
1896年 明治29年 5月12日 旭川に第七師団が創設され、初代師団長に永山武四郎就任。
1896年 明治29年 5月29日 殖民地区画を設定する。〔本庁決議〕(同上事業の最初の成文規程)
1896年 明治29年 09月--日 三重県からフラヌ原野(現上富良野)に、田中常次郎、川邊三蔵、島義空ほか数名が下見にくる。
1896年 明治29年 11月--日 札幌農学校、空知郡富良野村に未開地3,300町歩余(第八農場)の付与を受ける。