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吉田貞次郎さんの想い出

日の出二の上 和田松ヱ門(七十四歳)

吉田貞次郎さんは昭和十年六月、村長の席を去ることになったが、村の内外にまだ多くの公職を持っていた。
上富良野産業組合(上富良野信用購買販売利用組合と称す)の組合長であり、昭和十二年八月に東中信用購買販売組合と合併し、上富良野共立産業組合となり組合長に就任して居る。(組合長就任は明治の終りから)
それから全国に帝国農会があり、道に北海道農会があり、旭川に上川他四郡農会があり、本町に上富良野村農会があったが、吉田さんはその会長を明治四十三年から、上川郡農会評議員を大正二年からやっていた。
事務所は何れも役場の中にあったが、村長を退いてから、産業組合の方は駅近くの石造倉庫の横の詰所に移り、後に道路向いに新築された。
農会の事務所は役場の横の空地に新築されて移った。その後家畜診療所が増築された。

又帝国在郷軍人会があって、吉田さんは明治四十三年から上富良野在郷軍人分会長であり、昭和九年から上川連合分会長もやって居た。
昭和十一年十月、北海道で陸軍大演習が行われ、天皇陛下が大元師として御統裁なされた。大演習が終って十月七日に天皇陛下より、北海道開拓功労者四名が表彰を受けられたが、吉田さんは軍事功労者としてその栄に浴したのであった。
その節御前講演者が二名選ばれ、一名は北海道農業について、栗沢村の山田村長だったと思う。
もう一名は北海道国防について吉田貞次郎さんが内定したのであった。ところが地元から、吉田さんには反対者がいるという中傷が上川支庁に入り、遂に辞退させられることになった。
そして吉田さんは副分会長の山本逸太郎さんを推薦したので、御前講演の光栄に浴したのは山本逸太郎さんであった。
この時の吉田貞次郎さんの胸中は、想像に難くないものがあったようだ。

昭和十四年四月に農会の役員改選があった。一日に総代選挙があり四月二十四日に総代による評議員、会長、副会長選挙があった。
この時も吉田反対派の根強い工作が行われたが、開票の結果四票(二名)差で、吉田さんが会長に当選し、副会長には西谷元右衛門さんが再選された。
その他に黒沢酉蔵さんらが中心になって北海道製酪販売組合連合会(酪連)が昭和八年に出来、昭和十五年から吉田さんは常勤の監事になったので村にいる日が少なくなったが、以降の産業組合の役員選挙は、理事互選で組合長は問題なく、吉田さんが選ばれた。

昭和十五年には大東亜戦争が、いよいよ苛烈となり、民間の団体の解組、解散が奨められて国家総動員態勢に入った。
昭和十六年一月には大政翼賛会が発足し、道、支庁、町村に支部が結成され、役員は任命であった。又、翼賛壮年団の発足したのもこの年であった。
昭和十七年に衆議院が解散になり選挙が行われた。この選挙には翼賛会が候補者を推せんした。
二区では吉田貞次郎さんも推せん候補となり見事に当選したのである。この時も村内には吉田反対の者がいたので、私は吉田さんがたとえ落選しても、村だけ固まってくれれば他町村に、恥をかかないであろうと思い、村会議員二十四名中二十二名の同意を得て、全村の有権者に自費で推せん状のはがきを出した。
選挙が終って初の議会で反対の北原稔さん、松原照吉さんから、強い非難を受けたが、私は真意を述べて村会は終ったのである。

その翌十八年の末に農会と産業組合を統合して農業会設立の法案が出来た。その頃は大東亜戦争もいよいよ深刻となり、日本の退兆となり一億総決起の時となった。
この時北海道農会は解散し、北海道農業会が発足し吉田さんは理事となった。
上富良野村にも設立委員六名が任命されその準備に入ったのであるが、会長問題が導火線となって、村を二分する大問題に発展したのであった。
農業会設立の指導要綱の中に、会長は町村長がなることが望ましいということを理由として、金子村長は自分がやると主張した。又、金子支持派は国の指導方針でもあり、吉田さんは国会議員であるから村のことは村にまかせるべきだとこれを支持した。
一方青壮年層と吉田支持派は産業組合と農会の合併であるし、永年育ての親である吉田さんが会長となることは当然であると主張し、吉田貞次郎さんもその意欲は強かった。
この紛争は昭和十九年一月六日村会議員協議会、一月八日の村常会等で村長の露骨な工作が、農業報国挺身隊の反発をかった。
村長派は実現に、吉田派は阻止運動に、両派の文書戦や署名運動等泥沼のような紛糾が長期化したのである。
この文書活動は数回に亘って行なわれたのであるが、全文は上富良野町史六一三貢〜六一六貢に記戴されている通りである。
八月の設立総会が流会となる。その間翼賛壮年団や、中富良野安井村長が調停に入ったが、金子村長の譲歩がなく不調に終った。
昭和二十年二月頃より大東亜戦はますます苛烈となり、四月十七日両派の歩み寄りにより設立委員会が開かれ、六月二十三日設立総会が開かれて、会長田中勝次郎、副会長海江田武信、理事六名が選任し吉田貞次郎さんの懇請で、私が常務理事に就任することになった。一年半に亘って紛争した農業会設立問題もようやく終止符を打ったのである。

省みて本町の開拓当時より、十勝岳爆発による災害復旧と献身的活動をされ、上富良野町の自治、産業の基礎を築かれた功績は偉大なるものがあるにかかわらず、復興反対に端を発して吉田反対は根強く尾をひいて、農業会設立と同時に村の重要な要職をことごとく退かれたことは、余りにも残酷な仕打ちであったと思う。
終戦後、公職追放のマッカーサー命令により吉田さんは一切の公職を失い、自宅に籠られ農業をしておられたのであったが、二十二年の夏頃より健康勝れず遂に病床に就かれることになった。

私の父は二十一年九月三日に、母は二十二年三月二十七日両親共癌で亡くなったのであるが、吉田先生も癌であると知って、私は毎月一回位お見舞にお邪魔したのであった。玄関横の応接間に通され、暫くお待ちすると、先生の病床に案内された。
先生は村の様子を尋ねられたり、種々なお話をされたのであった。
先生は何時も、胸が少し苦しいだけだから一ケ月位で治ると言っておられた。勿論御自分の病気に気付いておられない様子だったので、私は先生の晩年の胸中を察し、何んとも言い難い気の毒さと憐れさを感じたのであった。

昭和二十三年七月二十五日、六十三歳の若さで他界されたのであるが、吉田先生の清廉潔白な人格は、村民に真に理解されなかった。晩年の吉田先生をこの様な姿で送ったことは残念でならない。
しかし、本町開基八十年記念式典や、三浦綾子著「泥流地帯」等により、吉田貞次郎先生の偉大なる功績が見直されて来たことは、せめてもの喜びであります。
昭和五十三年九月十四日記

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛