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ラジオの共同聴取について

上富良野町東中 床鍋 正則(七十歳)

このことは、今から二十九年前の昭和二十五年に、私がNHK旭川放送局より放送した時の原文です。
十年前のこと
ラジオの共同聴取の沿革について少し申し述べて見たいと思います。それは今から丁度十年前の昭和十五年であります。
この頃は、私共の東中七部落は農家二十五戸で、その内電燈のついて居たのは僅か私の家の附近七戸であったのであります。
私は、この電燈のついていないために、電池式のラジオで経費がかさんで、思う様にラジオ聴取の出来ないと云う大きな悩みと組合長さんが毎日自分の仕事も顧みず、組合員の連絡に苦労され難儀されて居られる姿を見て何とかこれを解決したいと考へ、電燈のある家に親ラジオを置いて、無電燈地域一帯に有線でラジオを送ると云う共同聴取を計画致したのであります。
然し当時は、御承知の如く戦争直前の事でもあり、総ての資材が極めて不足を来して居りましたため、この計画も仲々実現する運びに至らなかったのであります。
こうして計画は持ちながらも慌だしく年を送って昭和十八年の春を迎へたのであります。
この頃私は、空知のある専門家を訪ねてその施設が可能であるかをお聞き致しました処、仲々学理的に困難な点が非常に多く施設する事が不可能であると云われたのでありますが、私は何と云ってもこの計画は断念する事が出来ませんので、その不安な気特を抱いたまま町のラジオ商である蝶野氏を訪づれて、日夜忘れる事の出来ないこの望みを御話し致しました処、未だかって経験した事もないこの大きな問題を「それではやって見ますか」と心よく承諾されたのであって、この弛まざる研究心と犠牲的な精神には頭の下がる思いが致したのであります。
いよいよ八月になって、九球のスーパで、出力一〇ワットの受信機の組立も終り、資材の準備も出来ましたので、希望に輝く意気を以って工事に着手する事になったのでありますが、丁度その時私には召集令状が来たのであります。
それで後の工事の総ては、後任組合長さん始め役員の方々に一任致す事になったのであります。
その当時、不安で困難なこの事業を必ずやり抜く、完成させずにはおかぬと誓って下さった組合長さんのその言葉を、農村文化発展の一筋の光明と信じて、私は出発致したのであります。
十九年に成功
その後、五ヶ月を経過した十九年の一月十三日に、大陸の陣中に於いて私は、組合員一同の真剣な努力により完成、大成功を納めた喜びが天に通じてか、空は俄かに雲を呼び感激の涙にも等しい静かな雨が降り、春以来寝食を忘れて技術面と取組んで奮闘し続けた蝶野氏の瞳には、技術者として成功し完成した嬉し涙が溢れていた夢を見たのであります。その翌日計らずも私にとっては最も嬉しい、ラジオ共同聴取完成の知らせを島田組合長さんから受取ったのであります。
その手紙によると、組合長さん並びに役員の方々が中心として、全組合員が真の一丸となり、そんな事が実現出来るかと云う世間の嘲りの声をよそにして、道端に立てた地上四米の支柱(吉田貞次郎産業組合長から特別に配給をいただいた)に、幹線三千六百米、引込線一千二百米を一・五耗の鉄線を複線式に配線したものでした。
各家々に配置した拡声機に連絡致しましたが、各戸の引込線のショート状態を完全に是正する事が出来ませんので、大きく聞こえる事を信じて居た声が至って小さく、到底満足できない状態でありました。組合長始め組合員の悲観的な歎息を聞きながら、蝶野氏も極めて沈痛な面持ちで、今度は試験的に複線を単線に改めてアースを利用致しました処、八月十三日の夕刻になって予想以上の大成果を納めたから安心して下さいと云う便りでありました。
その手紙を手にした時は、組合長さん始め組合員一同の真の一致協力された尊い努力と蝶野氏の終始一貫した献身的なお働きに依って、この夢の様な計画が遂に出来上ったかと、暫くは故郷の彼方を眺めて、感激の涙に咽んだのであります。
この画期的施設に対する一戸当りの負担は、現在では大体二千円程度は必要としますが、当時は僅か二十八円であったのであります。
この確実にして正しい聴取と、電力の節減並びに資材の節約を目的とするこの施設が、村の人達に最も新らしい文化ニュースとして伝えられた時、この施設を見学に来られる人々が非常に多く、それより七年を経過した今日では、次々とこの施設が部落毎に設けられ、既に私の村には、十五組合を数えるに至り、その戸数六百戸にして、富良野地方としては二十幾組合という著しい進展振りを示して居るのでありまして、全道的にも昨今では、この施設の利用度は極めて高い事が認められて参った様であります。
このラジオ共同聴取の急激なる進展と共に放声装置、即ちマイクの使用が許された今日では、農村のへき地と云ヘども、文化の恩恵に浴する事が出来ると共に、通達機関としても又重要な役割を果す事が出来るのであります。
明るく賢くなる村
この共同聴取の長所として、私が特に申上げたい事は、親受信機のある家の屋上に取り付けられた大きな拡声機から流れ出る放送を聞きながら、田圃や畑で楽しく愉快に働き、作業が終って家に帰れば、小さな拡声機からラジオが聞けると云う事と、次には農村に於いて最も大きな悩みとされている、広い山間へき地の家々に連絡する日毎の通達事項も、マイクを通じて最も迅速に且つ確実に、家族全員に伝える事が出来ると伝う事と、今一つは、私達農家にとっては本を読むと云う事は、非常に大儀な事ですがラジオを聞く事によって、無自覚の内にも農業知識が高められて、農業経営並びに経済の上にも、欠く事の出来ない農家の友となっている事であります。
こうした文化的利用価値を認めて、この施設を益々活用致します時、共同聴取を全村化すると云う事も、決して、不可能な問題ではないと思うのであります。
この施設を計画致しました当時は、これまでに真価を認められて発展するとは、夢想だに考え及ばなかった事でありますが、今日の如く経済的に行き詰りの状態にあります時こそ、この共同聴取が益々普及され、いよいよその施設が各地に設けられる事を信じて疑わないものであります。
これを以って、ラジオ共同聴取の沿革のあらましを申上げた次第であります。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛