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香料作物ラベンダーについて

東中 上田 美一(七十六歳)

ラベンダーの学名はラヴァデュラと言い、原産地は地中海沿岸です。香の主成分は酢酸リチロールです。ギリシャ時代から香料として使われて居り、又、防虫にも使われたと記録にあります。神経痛、リュウマチ等に効く薬用植物として古くから知られて居たのです。文化年間(一八一〇年)には日本に来て居り、宇田川榛斉の「洋舶盆種移植の記」に拉芬地(ラベンダー)の名が見られるのです。しかし近世になってからは、昭和十二年に曽田正治がフランスで種子を手に入れて、千葉・岡山・北海道の試験場で試作が行われたのです。終戦後の昭和二十三年上富良野町東中での栽培が最初です。

当時は、敗戦後、日が浅い時で人の心は乱れ、農地は荒れ、食糧も不足しておった時で、農民も生産意欲が喪失の状態であったと思います。
農業朝日と言う雑誌の一編の記事を頼りに、北海道農事試験場を訪ねて指導を受け、曽田香料KK札幌工場長佐野氏にお会いしたのがラベンダー栽培の端緒で、昭和二十二年八月であったのです。
其の後の話し合いは順調に進み、昭和二十三年度より栽培を行うように約束が出来たのです。苗木定植の第一年度は不馴れの為に失敗し、昭和二十四年度からは失敗もなく、昭和二十五年には少ない収穫ではあったが、初めて試験の蒸溜が出来たのです。その結果は油の量も多く、油の質も予想以上の良質であったのです。栽培を始めるに当って心配していた油の質も量も良い結果を得たので、昭和二十六年には蒸溜場を建設して、いよいよ本格的な栽培事業が出来るようになったのです。

この作物は、一度定植すると十年位収穫がある事、病虫害がない事、気候による豊凶の差が少ない、地力がない痩た傾斜の山地が利用出来る、農家の経済の夏枯れ時に現金が入る等の事が畑作農家の関心を呼び、昭和三十年代の頃は富良野沿線で約二一〇町歩の耕作地を保有するようになったのです。
この頃より、国力の充実に伴い保護貿易の物資の枠が順次はずされて、ラベンダー油も外国の物が多く輸入されるようになり、国内の高度な経済政策は、物価も賃金も高くなったのです。国際市場価格を基本とするラベンダー油の価格にはついて行けなかったのです。

時代は急速に進み、農家の機械化が普及し、それに伴うように農家の意識も変り、北海道大学、農業試験場の熱心なる研究により、新らしい品種の育成と手厚い指導があったにかかわらず、廃耕と減反が引き続いたのです。
このような状勢に対応のために、捨てていたパルプを増量材として販売の道を開いたり、今迄は油の量での取引を乾花の取引として蒸溜費を節約し、生産代金に三割以上の上積する事が出ましたが、他の特用作物との収入差が大きく開いたのです。
品質は決して良い物とは云えないが、安値の外国製品の輸入増加、国内他農産物の急激な値上りのためラベンダーの耕作は年々減少していったのです。

ここで写真家島田謹介氏の写真集「丘」より抜粋してみた。

日本の風景を、ひたすら追いつづけた私は、旅路の果てに、思いがけなく見つけた素晴しい花の丘にたどりついた。
そこは、さわやかな匂いに包まれた広い紫の花咲く丘だった。
北海道の中央を走る富良野線の汽車の窓から眺めた七月のラベンダー花咲く丘であった。
すでに日本全土から失なわれたはずの風景がそこにあった。自然と人間が美しく融け合った生活の丘‐理想郷が。観光とは縁の遠い、旭川から富良野につづくこの丘陵地帯に、数年問通いつめ、ひたすら撮り続けた。
(島田謹介氏の豪華写真集「丘」より)

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛