郷土をさぐる会トップページ        かみふ物語目次ページ

食糧行政の変遷

島津三 水谷 甚四郎(六十六歳)

資源に乏しい島国の日本が、戦時中に一番大事だったのは、食糧の確保であった。純農村であったその頃の我が村では、行政の重点を食糧の増産に置いて取り組んだ。

和田松ヱ門氏を隊長として、農業報国挺身隊が組織され、一致団結して困難に対処すべく誓い合って、それぞれ東奔西走したのは勿論である。その為、私も道内各地に派遣されて、薯飯や麺米を食べながら積極的に参加した。
そんな中にも、戦局は益々重大性を加えて、食糧増産報国挺進隊という全国的な組織が誕生し、北海道隊四百数十名が、道庁前で結団式を行い、私もその一員として白羽の矢が当ったので、茨城県内原の日輪兵舎へ出発したのは、昭和十七年十一月の末だった。そこは、満州開拓の雄図を抱く青少年を養成する施設であったが、全国都道三府四十三県から選抜された五千人に近い青年が集まって、訓練を受けたり、草原を開墾したりして、食糧増産の一翼を担うべく、軍隊式で教育される所であった。

農閑期とはいえ、妻子五人を残して来たが、前戦兵士の事に思いをはせて、地下足袋、ゲートル巻きで正月を迎え、三日程休んで、又訓練再開、無事任務を果し、一月の末に全員東京に向かい、宮城前で君が代を歌い、海行かばを合唱した時は、全員ひとしく頬を涙で濡らしたのは、内原在隊中、所長の訓話は勿論、東条首相や陸海両大臣、及び農林大臣、内閣情報局長等の憂国の大熱弁の影響に依るものではないかと思われる。
その年の九月、遂に私にも騎兵として戦線に加わる様、陛下の命令があったが、その前の六月、今の西小学校前の水田数町歩が人出不足で荒廃寸前だったのを、内原魂の見せどころとばかりに内原組十数名が、耕起から植付迄を全部奉仕で終らせた。水田を応召列車の窓から眺め、程良く稔っていたので苦労の甲斐があったと、喜んで入営した。

昭和二十二年の暮に帰還した時も、気がついて汽車の窓から見たら、立派な水田となって大きな住宅が建っていたので、満更でもなかったと帰村第一の印象に残った。
あれからもう三十年経った今日、あのあたりは勿論、一粒の米でもと、血眼こになって頑張った水田も、宅地・商店・工場などが、立ち並んで、食糧増産の声は遠い昔の事となり、皮肉ではないが、食糧減産挺進隊の必要性を感ずる時世と変ってしまったのは、どうした事であろうか、理解に苦しんでいる。

われわれ、同志の旗頭であった和田氏も、今ではどうして米の生産を減らして国の要請に答えるべきかと、頭を悩ましているのであろうから、時代の遷り変りにはつくづく呆れるより外はない。

尚、余録ではあるが、隊員名を列記しよう。

昭和十五年度
 床鍋 正則  久野専一郎  佐川 亀蔵  和田 正治  宮崎 明善

昭和十六年度
 笠原 重郎  村上 隆則  平井  進  島田 良友  木全 義隆

昭和十七年度
 太田 政一  佐藤 信弘  升田 武夫  水谷甚四郎

昭和十八年度
 立野 佐市  広川 義一  実広 清一  菅野 忠雄  小川 直太
 入角伊佐美  佐藤根久一  岩山 昌弘  幅崎     遠藤

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛