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還暦(自叙伝より)

住吉区三光町 本田 茂  俳名 夫久朗(六十六歳)

大正二年の丑年、欧州戦争ぼっ発の年、日本全土に亘る大凶作の年だったという。
そんなとき、生粋の道産子として、九月五日の未明本町の現住所で産声をあげ、以来こんにちに至るまで、十二支回数五廻りと端数を生きのびてきた勘定である。

その間、雄峰十勝岳の景観と共に、文字通り苦楽をともにしてきた存在である。その頃の本町はまだ開拓当初で、ものおぼえがつきかけた矢先、大正十五年の十勝岳大爆発の惨事を、まのあたりにして当時はすくなからず、この地域の悲惨さに怖えていたようだった。しかし、両親や家族たちの逞ましい郷土愛に追従せざるを得ないまま、幼少時代であったせいもあり、空覚えではあるが、街中の人達が大勢、本屋はもとより納屋や小屋のある限り、わんさと押しかけてきて、幾日も泊りがけで災害の情報に耳を傾けるのに必至の有様であった。
吾が家では一ケ年分位の、あんまり上等でもない米や麦、それに豆、蕎麦等々貯えのあるものはすべてさらけ出しての炊き出しでごった返しであった。その様相は、あたかも温泉宿の湯けむりの中、人々が右往左往するに似たものものしいものであった。幼い頃は、吾が家の『カマドぐあい』など知る由もなく、只よそ様の人々が大勢集まれば、そこの家は豪宅かの錯覚でいたものだから、俺のうちもこの分では、まんざらでもないんだなあ……などと思ってみたりしたもんだった。

昭和八年元軍隊の徴兵検査が富良野町で行われたが、その時貧乏だった自分は着て行く晴着が無く、街の知人である守田周一氏の外出用の三ッ揃の洋服を、親に内緒で借用して意気揚々として出かけたことが、今も忘れ難く走馬燈のように脳裡をかすめていく。
検査の結果は、近衛歩兵聨隊所属の第一補充兵役であったが、その頃の川柳に、「甲種合格よくぞ男子に生れける」軍隊様々の時代、現代では何て馬鹿げたナンセンスとして、大笑に付されるだろうが、当時甲種合格を逸したことが、男の恥のように思い男泣きしたものであった。

満二十五才の三月、今も健在である本間庄吉氏(現文化連盟顧問)夫妻による媒約で、現在の妻「チヨノ」六十一才と結婚後、小生二十九才のとき(現長男が生れて五ヵ月目)の九月一日付で、大東亜戦争に応召、妻子との別辞も許されないままに、無人島北千島の最端に目かくし輸送、そして酷寒の中負傷野戦病院に入院その後両足切断、同二十年五月沖縄要員として九州の部隊に転属されたが、千島からの帰路船団のうちの三艇団の一艇団四千有余名は日高沖合にて、米魚雷により全員玉砕の悲報は、はるか後方敵の魚雷及び空艇部隊よりの猛攻の中で報知されたが、何のするすべをもなかったのであった。鳴呼。

その後沖縄に派遣されたくも輸送船団のスペアがなく、二十年八月終戦を迎えたが日本軍の武装解除により、兵器弾薬その他をアメリカ兵に引渡し完了の同年十一月二十日(仮称補助憲兵)の役目を解かれ復員となったが、復員のための列車は長蛇のごとく全てが屋根も窓もない無蓋台車で、トンネルも山も河も突走っての帰路であったため、雨や雪の行程の中、凡そ熊か狼のごとき風態であったと思う。自宅に生還することを自覚したことさえなかった敗残者のあわれな一人間が、自宅の門前に前ぶれもなく帰還したとき、家族も両親も自分に気付くものとて、ひとりとしてなかった位、あさましい姿であったに達いなかったのである。

今にして憶えば、妻と共に今年で丁度四十一年間五体満足で夫婦生活を営んだのは、たった四年数ヶ月でしかなかったのである。そんな妻は、どれだけ辛苦のどん底を這いつくばって生き難さを生き、自分の良き支えとなって吾が家の再興に努力してきたか、それにしても、一昨年の十月三十日突如病魔に患され診断の結果「頚骨髄膜腫瘍」という難病中の難病の重症で一刻をも争うというので、十一月五日即旭川日赤病院で大手術を決行、手術こそ一応成功はしたものの、二日三晩こん睡状態から醒めたあとは、全身麻痺のそしりをまぬがれ得ぬ、泣くにも泣けぬ惨担たるものになってしまったのである。
そのときの状態に際し詠じた俳句に、

   五郎助やうめきとて欲り押し堪ふ        夫久朗

この外小生なりに妻に捧げる詩として、昭和五十一年全道俳句大会に於て二位に入賞、

   酷寒の水音にあり妻の位置           夫久朗

また、

   雪解両しっとり晩年泣かぬ妻          夫久朗

等々、記載するに及べば枚挙に尽さぬものばかりである。

俳句は私の人生であり、私を形成しているすべてで、私から俳句を取ったとしたら、おそらく残留物は皆無といってもはばからない。
最後に俳人らしく、自作自選の作品を若干連記し、ご強鞭を乞うしだいである。
処女雪やほむら吐き匂ふ十勝岳      夫久朗
凧揚の少年天芯ひきしめて
鳶も少年たつきの霜の納豆売り
短日の音荒く置く裁ち鋏
夜長ふと短語で足りる老夫婦
玄冬の老松父のごとく佇つ
佗助や恩古知新の釜の艶
老醜のひとごとならず冬木立
犬捨ててこころ吹きぬくもがり笛
風花やすずめ百態きれいな飢
文弱の自責や過疎の地面吹雪
孵卵どっと春日とどまるところなし
海せまし流氷もんどりうちよせて  (ソ連、二百カイリ宣言す)
春一番縫い目返しの針ひかる
英霊ら出で来よ酌まむ花の宴
けふありし前後や花の中のゆめ
玻璃拭けばこだまあふるる芽木の天
棟上げの天ひきよせて雲雀鳴く
逝くものの所詮はひとり星うるむ
塀の釘錆ながしをり浄錬忌     (土岐錬太郎逝く)
活きてゐる古鉄の錆多喜二の忌 〃(小樽港岸壁にて)
                    (注俳句に関しては全て旧仮名を以て統一)

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛