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七十年の追憶

北栄区 成田くに(七十六歳)

●生い立ちのころ
四才になって間もなく、父親が死んだ。明治四十年春のことである。それからは貧しい明け暮れ、苦し風でいう口べらしのために、七才の時、他家へもらわれの身となったが、九才のころから子守をやらされるなどして、ろくに学校へも行かしてもらえず、なんとかして字だけでも覚えようと、炉ばたの灰をならして、本を見ながら、ひらかなのいろはの文字を書いてはならし、書いてはならしながら習い覚えた。それも子どもを寝かしつけた、ちょっとの合い間のことで、簡単な漢字までで、そのころは本当に学校で皆んなと一緒に勉強がしたかったことが、今でもくやまれてならない。
養女となった先の義父、義母も仲が悪くよくけんかなんかをやっていたが、私が年ごろになった十六才の時、夫婦別れをして、義母が私をつれて、増毛村(今の増毛町)阿分に出て漁場で働き、私も奉公に出たのが、上富良野に移り住むきっかけとなった。
●結婚
増毛村阿分の漁場で飯場の手伝いをしていた時、秋田県から春の鰊漁の出稼ぎに来ていた夫と知り合い、十七才の春仮の祝言を上げましたが、昔のことで結婚届も出さぬまゝおりましたが、やっとのことで戸籍をさがし出し、大正八年正式に結婚届をしました。その翌年の大正九年美瑛の製麻工場で働くことでまいりましたが、そこの工場もあまりよい賃金ではなかったようで、そのころ上富良野にも新しい製麻工場ができるのでこないかとさそわれて、上富良野入りしたのが大正九年七月二十七日でした。
移り住んで五日後の八月一日は上富良野神社例大祭で、当時でも近隣の村々よりも賑わいをみせていました。今の銀座通りあたりと思いますが、たくさんの出店が並び、夜になるとカーバイト・ランプを灯して客の呼びこみに声をはり上げる様子がなつかしく想い出されます。
そのころはまだ、市街の中にも電灯はなくランプ生活でしたが、大正九年十二月八日はじめての子の長女が生れた五日前の十二月三日、市街に電灯がつき、十ワットの裸電球でしたが、室中が明るくまばゆく感じられたものでした。長女誕生の年、私はまだ数え年の十八才でしたので、現在ですと若い母親といえますが、当時では十六才くらいで嫁いだ人もありました。
上富良野製麻工場の社宅は、現在の一色プロパン会社の裏あたりにあり、当時の市街地は大通りをはさんで両側に家や商店が並んでいた程度で、大通りを越すと駅まで、よし原が続き、夜になるときつねの物かなしい鳴き声が、きかれることもありました。
●水に悩まされる生活
むかしから市街地周辺は水質が悪く、ポンプの鉄管を打ち込んでも水量はありましたが酸性が強く、そのまゝでは飲めるものでは、ありませんでした。当時の社宅にも水がなく、駅のそばの湧水を、天びん棒をかついで四丁あまりを運んで飲料水とし、洗いものは社宅の前を流れる島津用水を使っていたものでした。その後「こし桶」を用いて水をこし、飲料水としていたところが多く、大きな桶の底にしゅろを敷き、木炭を入れた上に荒むしろを敷いて川砂を入れ、それに水を汲み上げ、こして飲んでいたものでした。これは本町に水道が入るまで、多くの家庭で続けられ、金魚などを飼うには、あちこちの湧水や深い井戸水を利用していましたが、市街の中では、現在の高橋建設の附近、伊藤木工場、上富良野神社、上富良野小学校などにあった井戸水が良質で、よく利用されたものでした。
悪水のためか、建設創業間もない両製麻工場(現在の中央区三附近と、春日区一附近にあった)が相次いで倒産し、私共も途方にくれたものでした。
●山本木工場に職を得て
悪いことは重なるもので、そのころ夫が胃を患らい寝込んでしまいました。小さな子二人をかゝえながら、山本木工場に臨時として夫にかわって働きに出ました。夫がよくなってからは、丁度木工場に機械の取付などがはじまり、夫は従業員に雇用され工場づくりに精を出していました。社宅にも入り三人目の子、長男が生れて二カ月後の大正十五年五月二十四日午後十勝岳大爆発が起こりました。
市街の中が、誰れの知らせかわからぬうち騒然とするうち、草分方面を見ると地面が盛り上ったように、大木や土砂が泥流となって押し流されるのが眺められ、大急ぎで生れて二カ月目の子を背中におぶり、風呂敷をさがすひまもなく、前掛けに貯金通帳と印鑑、手元にあったお金をくるんで、六才と三才の娘を両手に引いて、近所の人々と高台へと避難をしました。今の日の出山スキー場の方で通称成田山の方角でした。避難者の顔は誰れもが不安と恐怖に青ざめ、お互いの無事をたしかめ合っていましたが、夕暮時になって小雨が降ってきて、いよいよ心細くなっておりました時夫が迎えにきて、「市街は大丈夫のようだ、ひとまず帰ろう」と、家族や身近かな人たちと共に、薄暗い小雨の中市街に戻りましたが、又何かあってはと山本社長宅で不安な一夜を過したものでした。
明けて二十五日、泥流もおさまり被災者の救出や死休の捜索でごった返していました。
夫も捜索隊に加わり、木工場からの板材で急ごしらえの下駄船を造り、遺体収容に当ったようです。収容された遺体は、現在の渋江医院のあたりに並べられましたが、どの遺体も泥にまみれ、見るも無残な有り様で、水洗いされたうえで、遺体の確認を行なっていたのが印象的でした。
●昭和の初期
十勝岳爆発災害の復興が村民あげて行なわれ、私共も平凡な毎日でありましたが、五人目、六人目と続いて男の子をもうけてから、相次いで他からのもらい火で二度も火災に見まわれ、昭和八年夫が自力で現在地に、材料を買ってさゝやかな自分の家を建築しました。地盤が悪く、土台が玉石のせいか冬地面が凍れ上ると、戸が閲かなくなりよくつっかえ棒をはさまなければならない状態もありました。寒さも今より寒かったようで、それに建物も今のように耐寒、防寒構造でありませんでしたので、真冬布団の襟が朝になると白く凍っていることがよくありました。暖房は薪が豊富にありましたので、薪ストーブが一般に用いられ、寒い夜などは、火持ちをよくするため、木の根株や比較的太いものをくべて、夜通し焚いていたものでした。
●戦中、戦後と夫の死
第二次世界大戦(大東亜戦争)に入ると娘たちは被服工場などへ挺身隊として、又長男は十七才にして海軍工廠横須賀基地へ徴用になり、八人の子のうち四人がそれぞれ戦争にかり出され、小学生の小さな子四人との生活となりましたが、すべての物質、食糧が統制で配給制となり、せめてひもじい思いをさせまいと、なれぬ手で畑を作り、水田を借りて米つくりをしたのもこのころでした。
敗戦色濃くなった昭和二十年七月中旬ごろ本町にも米国機が来襲するようになり、もしものことがあってはと、夜間子どもたちを農家の親戚へ疎開させ、家は私共夫婦で守る生活を一と月ほど過した八月十五日終戦を迎えました。
散りぢりになっていた子どもたちも帰ってきて、家族そろって戦後の苦しい生活を生き抜こうとしていた矢先、夫が持病の胃病が悪化し、時折吐血するような状態の中で、食糧難ではありましたが、食事も家族とは別にし白米と栄養の高いものをとらせ、治療していましたが、昭和二十一年一月中旬床に伏してより一と月後の二月二十七日数え年五十二才の若さで亡くなりました。
当時私も四十四才でした。子ども八人のうち、長女が婚いでいただけで、これからどうしたらよいものかと、途方にくれましたが、子どもたちを支えとして頑張りました。ひもじい思いをさせまいと田畑をつくり、食糧だけは充分なだけ確保しました。家畜に豚や緬羊を飼い、緬羊の毛をつむいで衣服や手袋、靴下を編んではかせたりしました。戦後の物の無い時でしたので、自家製のものが巾をきかせたのもこのころでした。「あめ」をでんぷんともやしで作ったり、大豆をつぶして「とうふ」を作ったり、昧そは三年とか五年昧そを作ったものでした。
市街の中で豚や緬羊を飼っていたので、今考えますと、附近の人には迷惑をかけていたと思いますが、当時はまだ公害のない時代でした。上富良野に町制が施行されたころ、衛生的見地から、市街地内での家畜飼育が禁止となりましたが、戦後夫に死なれ、大勢の子どもをかゝえておりましたので、食糧としても、又家計の一助としてもどんなに役立ったことか。
●喜寿を迎えて
子どもたち八人がみんな健康でそれぞれ、ひとりだちし平和に暮していますが、私は生がいとして、夏は二反歩ばかりの畑を、ひとりでこつこつ作り、秋収穫が済んで暇になると、娘たちの家へ遊びに行くのが、いま一番のたのしみです。
昨年は町より優良母子家庭の母親として表彰され、光栄に存じておりますが、ことし七十七才の喜寿を迎えて、まだ元気で働き、また老人の仲間とうたを歌ったり、踊りをしたりして余世を楽しんでおりますが、一日一日が幸せな毎日です。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛